第二百七話「困難な食事と事件」
――これは、さっさと食べて立ち去らねば。
そう心の中で繰り返しながらも、俺はカウンター席に座ったまま動けずにいた。
薄暗い食堂の中には、油煙と酒の匂いが充満している。どのテーブルにも酔っ払いが陣取り、下品な笑い声とジョッキのぶつかる音が絶え間なく響いていた。
すでに注文を口にしてしまった手前、いま立ち上がれば不審に思われるだろうし、金を払った意味もなくなってしまう。無視して部屋に戻るのも手だが、そういうのはどうにも性分に合わない。
俺の体はもう「食べなくても平気」なものに作り変えられてしまっている。だから本当は無理に食べる必要なんてないのだけど――。
『……待ち時間、長いですわね』
アイレが不快そうに鼻を鳴らす。
彼女は俺の肩のあたりで弱い風を絶え間なく吹かしている。
『退屈ですー』
シュネがとろんとした声で続け、カウンターの水差しをこっそりくるくる回している。やめろ、倒れる。
『僕が厨房に火をくべてやろうか? 早く焼けるぞ』
カエリがまたそんな危ないことを言い出した。
「やめろ、マジでやめろ……」
心の中で必死にツッコミを入れる。こんな連中が暴れ出したら、宿ごと蒸発しかねない。
結局、三十分は待っただろうか。思ったより絡まれるようなイベントもなく、酔っ払いどもは自分たちの世界に没頭している。俺の前に、ようやく料理が運ばれてきた。
皿の上には、何かの肉を焼いたもの。横にはパンと、豆や根菜を煮込んだ、どろりとした茶色いスープ。
一見すると、冒険者の宿の食事としては妥当……なはずなのだが――。
ひと口、肉をかじった瞬間。
「……うぇ……」
喉の奥から危うく声が飛び出しそうになった。思わず慌てて口を押さえる。
これはひどい。
表面は真っ黒に焦げているのに、中はまだ赤く半生。おまけに塩をこれでもかとぶち込んだらしく、舌がしびれるような塩辛さが口いっぱいに広がる。
強火で一気に焼き付けて、適当に出したのだろう。
パンは固く、乾いていて、噛むたびに口の水分を奪っていく。
豆の煮込みは……正直、素材そのままの味しかしないが、むしろそれが一番マシに思えてしまう。舌が悲鳴を上げる中で、味の薄さが救いになるとは思わなかった。
『うわ……これは僕でも焼き直したくなるレベルだな』
カエリが呆れたように鼻を鳴らす。
「……頼む、こっそり焼き直してくれ」
『ふん、しょうがないな』
皿の影に隠して肉を持ち上げると、カエリが小さな火をまとわせる。じゅっ、と香ばしい匂いが立ちのぼった。……うん、これならまだ食べられる。
そしてパンはパンで、シュネに頼んでしっとりさせてもらう。
『はいはーい、ちょっとだけですよー』
ふわりと水気が広がり、石のように硬かったパンが柔らかくほどけていく。ほんのりと湯気を立て、塩辛い肉と合わせれば、なんとか「食事」と呼べる味になった。
「……こんなに食べるのが困難な食事は初めてだ……」
本音が思わず口をついて出た。ゴブリンの集落に世話になったときだって、ここまで胃が悲鳴を上げることはなかった。あのときの焼き獣肉の方が、まだずっとましだった。
「だからみんな酒を飲んでるのか……」
見渡せば、食堂の客のほとんどが酒瓶やジョッキを片手にしている。ひどい料理も、酔っ払えばどうでもよくなる。そういう理屈らしい。
なんとか精霊たちの協力で食事を終えると、俺はさっさと席を立って部屋へ戻るのだった。
扉を開けると、赤髪の青年はちらりとこちらに視線を投げただけで、特に何も言わなかった。
俺も無言で自分の寝具に潜り込む。
が――臭い。
藁を詰めただけの布団は、汗や獣臭やらが染みついていて、鼻を突くようなにおいが充満していた。思わず顔をしかめる。
これではとても眠れそうにない。
『シュネ、頼むー! 綺麗にしてくれー!』
『はーい、わかりましたー!』
ふわっと全身を水泡に包まれる感覚が広がった。布団も体もまとめて洗い流されていくような、爽快なシュワシュワ感。数秒でそれが消えると、空気は澄み、布団は新品のようにさっぱりしていた。
「これでようやく、落ち着いて寝れる……」
つぶやいてからふと気づく。
青年の姿がない。いつの間にか部屋を出て行ったらしい。
窓の外では王都の夜がまだ賑わっており、遠くから馬車の車輪が石畳を叩く音が響いていた。
静まり返った空間で、俺は目を閉じる。
だが、不思議と寝付けなかった。慣れない街、慣れない宿、そして何より――王都という巨大な場所の気配が、どこか落ち着かせてくれないのだ。
耳を澄ませば、どこか遠くで鐘の音が鳴る。
それが妙に胸騒ぎを誘う音に思えた。
それでも体を横たえ続けているうちに、ようやくまどろみが訪れ――。
俺は、浅い眠りに落ちていった。
――夢の中で、俺はまた日本にいた。
見慣れたコンビニの明かりが煌々と輝いていて、ガラス戸の向こうには深夜にもかかわらず絶え間なく車のライトが流れている。
レジ横の唐揚げが揚げたてで湯気を立てていた。店員が俺に微笑んで「温めますか?」と聞いてくる。いや、別に既に温かい唐揚げをまた温める必要はないだろと心の中でツッコミを入れかけた瞬間――。
『主! 起きてくださいませ!』
耳元で鐘を鳴らされたみたいに響く声。
同時に体をぐらぐらと揺さぶられる感覚がして、俺の意識は一気に浮上した。
「っ……なに!?」
反射的に飛び起きる。
目の前にはアイレが顕現しかけた半透明の姿で、緊張した表情を浮かべていた。
その口から飛び出した言葉に血の気が引く。
『荷物を……漁られております!』
「マジかよ!」
眠気が一瞬で吹き飛ぶ。
足元に置いていた袋を反射的に確かめるが、そこにすでに人影がしゃがみ込んでいた。
月明かりが薄く差し込む室内で、黒い影がごそごそと動いている。
息を殺して、俺は目を凝らす。
あれは――同室の青年か? オールバックの、あの柄の悪そうな男か?
だが、すぐに違うと分かった。
「ぐえっ!」
鈍い音がして、影が床に叩き伏せられた。
目を見張る間に、別の人影がそいつの首根っこをつかみ、容赦なく壁に押し付けている。
……その顔を見て、息を呑んだ。
押さえつけているのは、俺が疑ったはずの同室の青年――あの赤髪の男だった。
「てめぇ……こんな夜中にコソ泥かよ」
低い声が唸りのように響く。
彼の拳が振り下ろされ、ごつん、と鈍い衝撃音が部屋に響いた。
続けざまに二発、三発。
容赦という言葉を知らないような正確な拳の連打。
「ひっ……や、やめっ……」
床に転がされた泥棒が悲鳴を上げるが、青年は止まらない。
腕を掴んでねじ上げ、膝で腹を押さえ込み、まるで手慣れた動きだった。
「ったく、ろくでもねえやつだな」
ようやく吐き捨てるように言って、ぐったりした相手を床に転がした。
泥棒は呻き声をあげたまま動けなくなっている。鼻血が畳に滲み、部屋の空気が生臭くなる。
俺は慌てて駆け寄り、頭を下げた。
「ありがとうございました!」
青年は鼻を鳴らす。
「あぁ? ……お前もまあ、気をつけろよ。ったく」
乱暴な口ぶりだけど、その声音には責めるよりも、どこか呆れと心配が混ざっていた。
肩越しに見える横顔は思ったより若く、年は俺とそう変わらないかもしれない。
……意外だな。
正直、俺は彼を「面倒な同室者」としか見ていなかった。
だが今は、むしろ頼りになる兄貴分に見えてくる。
床でうめいている泥棒は、どうやらこの宿の別の客らしい。
寝間着の裾からは高そうな布地が見え、金目当てで宿を渡り歩いていたのだろう。
青年はその襟元を掴んで宿の外へ引きずり出し、階段の踊り場に投げ捨てた。
「宿のやつにでも突き出してやるさ。お前は寝てろ」
淡々とした言葉とは裏腹に、その動きはどこか慣れていた。
人を殴ることにも、守ることにも。
俺は少し迷った末、名乗ることにした。
「……俺の名前は、ケイスケといいます」
青年は振り返り、俺をじろりと一瞥した。
薄闇の中でも分かる、少し訝しげな目。
数秒の沈黙の後、短く名を告げた。
「ニトだ」
「ニトさん」
「ニトでいい」
「了解。ありがとう、ニト」
その瞬間、影の中からリラの念話が飛んでくる。
『おー、意外といいやつじゃん、あの兄ちゃん。最初は不良かと思ったけど』
『……ああ。俺もそう思うよ』
乱暴で口も悪い。でも本当に悪い奴なら、わざわざ他人の荷物を守って半殺しにするほどのことはしない。
階下から宿の主らしき男が慌てて駆け上がってくる気配がした。
ニトは軽く肩をすくめると、「後は任せた」とでも言うように手を振り、再び自分の寝具に戻っていった。
俺はそんな彼の背を見送りながら、思う。
この世界でまた一人、妙な縁ができた――そんな気がした。
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