第二百六話「外街の宿」
ほどなくして見つけた宿は、通りに面した二階建ての建物だった。
看板には『旅人宿〈風鳴亭〉』と書かれている。夜風に揺れる吊りランプがかすかに軋みを上げていた。
一階は酒場兼食事処になっていて、扉を開けた瞬間――鼻を刺すような酒と焼いた肉の匂い、そして押し寄せる人のざわめき。
笑い声、喧嘩腰の怒鳴り声、テーブルを叩く音が入り混じって、まるで混沌そのものだ。
客はほとんどが人間だった。
ビサワでは逆に人間のほうが珍しかったから、この光景は懐かしいような、どこか居心地の悪いような、不思議な気分になる。
『うわー……なんか、にぎやかー!』
『でも臭いですわね……油と酒のにおいが充満していますわ』
『ん。むせる』
精霊たちは口々に感想をもらす。姿を見せていないとはいえ、彼女たちの反応が頭の中でこだますると、まるで本当に隣にいるようだった。
カウンターの奥には、髭面の中年の宿屋の主人。
分厚い腕を組み、無言のままこちらをじろじろと眺めてくる。
やがて「ふん……」と短く鼻を鳴らした。
……感じ悪いな。
愛想も何もなく、ぶっきらぼうな態度だ。
俺が「一泊と食事を」と告げると、主人は何の愛想もなく、指を四本立てた。
「えっと……」
「銅貨四枚だ。前金だぞ」
四千円か五千円ってところか。
思ったよりも高いが、王都に近い宿なら妥当だろう。
ただ、こうも不愛想だと交渉する気も起きない。
俺が無言で銅貨を渡すと、主人はカウンターの下から小さな鉄鍵を放ってよこし、面倒くさそうに言った。
「あとは好きにしな」
鍵は俺の胸元で小さく跳ね、鈍い音を立てて落ちた。
……なんだかなー。
俺は心の中でため息をつきながら階段を上がる。
木造の階段はきしみ、灯りはところどころで煤けていた。
壁に掛けられた絵は色褪せ、天井には煤の跡。外観よりもずっと古びている。
そして部屋に着くが、そこは相部屋部屋だった。中には既に人がいた。
「いや、一人部屋って言ったはずなんだけど……」
そう思った矢先、部屋の奥に座っていた青年が顔を上げた。
赤い髪を乱暴に後ろへ流し、鋭い目つきでこちらを睨んでくる。
「……ああ? なんだよ、お前」
低い声。荒れた語気。
旅の疲れを癒すには程遠い、緊張感のある第一声だった。
「……ここ、一人部屋じゃ?」俺はおそるおそる口にした。
青年は一瞬きょとんとした後、舌打ちをした。
「ちっ……! あの親父、兄貴たちが帰らねえからって、適当に放り込みやがったな」
拳でベッドをどん、と叩く。
枕が跳ね、埃が舞う。
――完全にハズレを引いた気分だ。
『あー、こいつ柄悪いなー』カエリが率直な感想を言う。
『主、こういうのは関わらない方がいいですよー』シュネが少し心配そうに助言する。
『でも……悪人というより、不満を抱えた人に見えますわ』アイレは冷静に分析した。
精霊たちの声が重なり、俺の頭の中が少しだけ冷静になった。
たしかに、青年の目には殺意も敵意もない。ただ、疲れと苛立ちが沈んでいるだけだ。
「マジか……今日くらいは静かに休みたかったんだけどな」
ため息をつきつつ、ベッドの端に荷物を置く。
狭い部屋の中、古びた木の匂いと男の汗の匂いが混ざり合う。
外では酒場の喧騒がまだ続いていた。
こうして、王都初日の夜は――予想外の出会いから始まった。
……とはいえ、まだ終わりではない。
「あー……。俺、ちょっと文句言ってきます」
一人部屋を頼んだはずが、よりによって相部屋に通されるなんて。
不愉快というより、不便だ。精霊たちと話すにも、人目があるとやりにくい。
立ち上がろうとしたその時、隣のベッドに腰を下ろしていた青年が、面倒くさそうに声をかけてきた。
「やめとけやめとけ。どうせ言ったって変わらねえよ。部屋は埋まってる」
口は悪いが、響きは妙に落ち着いている。
投げやりというより、諦めを含んだ声。
『主、どうやらその者の言うことは本当ですわ。他の部屋は埋まっていそうです』
アイレが風を走らせ、周囲の部屋の気配を探る。
「……ですか。じゃあ、相部屋よろしくお願いします」
「あぁ」
それきり、会話は途切れた。会話はそれ以上続かない。青年はやけに落ち着かない様子で、俺も居心地が悪くなってしまった。
「俺、食事に行ってきます」
なにはともあれ、ひとまず食事だ。必要ないかもしれないが、一応声をかける。
「……あ? 勝手に行けよ」
まあ、そう返されるだろうとは思ったけどさ。俺はため息をついて部屋を出た。
宿の一階、食堂はすでに戦場だった。
酒の匂いが立ちこめ、湿った床板には酒と肉汁が飛び散っている。木のジョッキがガンガン叩きつけられ、あちこちで「ぎゃはははっ!」という下品な笑い声が響く。
剣を背負った男たちが肩を組んで歌い、女の冒険者が乱暴に机を蹴飛ばしている。
テーブルの上には骨付き肉の残骸と、こぼれたスープでできた湖。酔っ払いの男が隣の椅子から転げ落ち、仲間に蹴り起こされて再び酒をあおる。
――うん、地獄絵図。これならその辺で野宿のほうがよっぽど良かったかもしれない。
「酒か……」
『ここのものたち、下品ですわ』
アイレが鼻をつまむような声音で吐き捨てる。
『んー。ちょっと好きじゃないかもー』
リラも影の奥でぶにゃりと身をくねらせ、不満をこぼした。
俺はため息をつき、さっさと済ませようとカウンター席に向かう。テーブルも空きはあるが、あの騒ぎの渦中に突っ込む勇気はない。
「……注文は?」
現れた店員は、こちらを見もせずにぶっきらぼうな声を出す。
「じゃあ、今日のお勧めを」
多分あるだろう。正直あまり期待できないが。
「酒は?」
「いらないです」
「水は別料金だ」
「外で飲んだので、無しで」
「……チッ」
あからさまな舌打ち。いやいや、マジか。客に舌打ちってどういうことだよ。
『無礼ですー』
シュネが穏やかな声で言いながら、目には見えない水気を震わせた。
『燃やしてやろうか』
カエリが即座に物騒な提案をしてくる。
『いやいやいやいや……!』
俺は慌てて念話で制止した。
『ここで火の精霊が暴れたら、俺の居場所が吹き飛ぶわ!』
『えー? こんなとこ別に無くなってもいいんじゃないー?』
リラがくすくす笑いながら煽るのを、アイレは『頭を冷やすべきですわ』と冷たく言う。
精霊たちがいきり立つのを、俺は必死になだめるしかなかった。
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