第百九十九話「再会と新しい命」
「本当に、無事で良かった。心配をかけたなんて、そんなお咎めは、無事に帰ってきたことで帳消しだろう」
「……はい」
その優しさに胸が詰まる。怒られると覚悟していた分、涙腺に熱いものが込み上げてきて、思わず目を伏せた。
半年――けれど、どこか何年も離れていたような気がする。
リームさんの声音を聞くだけで、心の奥の緊張がほぐれていくのを感じた。
「とにかく、上がれ。イテルも待ってる」
促されるまま、店の奥から住居部分へと足を踏み入れる。
通路の脇には、香草や乾燥果実が吊るされており、やさしい香りが鼻をくすぐる。
新しい木材の香りと、どこか懐かしい温もりが混ざっていて、思わず深呼吸した。
店の棚には、陶器や布製品、乾燥したハーブなどが整然と並び、客が気持ちよく過ごせるよう細やかに配置されている。
リームさんらしい几帳面さと、イテルさんらしい柔らかな空気が融合した空間だ。
そして、奥の扉を抜けると、そこは居住スペースだった。
真新しく綺麗だが、見覚えのあるマンション時代の家具が所々に置かれていて、物を大切にする二人らしさがそこにあった。
どの椅子も、どの棚も、見覚えがあるものばかり。
リビングへ入ると――視線が釘付けになった。
イテルさんが、赤ん坊を抱いて微笑んでいた。
「おかえりなさい、ケイスケ」
柔らかな笑みを浮かべる顔は健康的で、どこか母の貫禄すら漂わせている。
腕の中の赤ん坊はスヤスヤと眠り、イテルさんの胸に顔を埋めて小さな呼吸を繰り返していた。
「イテルさん……」
思わず声が震えた。
あのとき、命を繋ぐために彼女と彼女のお腹の命を守る術がないかと悩んだ。
その努力が、こうして形になっている。目の前の小さな命が、その証だった。
俺のやったことは意味がなかったのかもしれない。でも、それでも本当に良かった。
『かわいいですわ!』
『ねー、かわいいよねー!』
リラとアイレがキャッキャとはしゃぐ。二人とも声はイテルさんには届かないけれど、俺の視界越しに赤ん坊を覗き込んで大はしゃぎだ。
「抱いてみる?」
イテルさんが穏やかに言った。
「いいんですか?」
「ええ、もちろんよ。あなたにも、抱いてほしいと思ってたの」
『あ、いいなー、ケイスケ!』リラが羨ましそうに声をあげる。
俺は両手をそっと差し出し、細心の注意を払って赤ん坊を受け取った。
柔らかい。
まるで温もりそのものを腕に包んでいるようだった。
「……うわー……」
思わず声が漏れる。
小さな身体は柔らかく、思った以上に温かい。手首や肘、膝の関節は、そっと押し広げてみたくなるような、ぷくぷくとした愛らしい丸みを帯びている。
手足は終始ゆるやかに伸び縮みしていて、今この瞬間にも成長を続けているかのようだった。
意外と、重い。いや、単なる体重ではない。そこには「命」の重みが詰まっているように感じた。
「イテルさん、名前は?」
「ケイムよ」
「じゃあケイちゃんだ。俺と同じだなー」
顔を近づけてみた途端、赤ん坊は顔を皺だらけにして「ふみゃあ!」と泣き出してしまった。
「わっ!? ご、ごめん……!」
慌ててイテルさんに助けを求めると、彼女はクスリと笑った。
それでも俺はオロオロしてしまい、返そうにも扱いは慎重にならざるを得ない。急ぎたいのに動きがゆっくりになってしまい、もどかしいことこの上ない。
「あらあらあら、どうしたの? ケイム」
イテルさんの腕に戻ると、ケイムはしばらく泣き続けたものの、やがて母の温もりに安心したのか、再び眠りに落ちた。
ホッと胸を撫で下ろしながら、どこか名残惜しい気持ちになる。
やっぱり母親の腕の中が一番なんだろう。
『ケイスケ、残念だったねー』リラがからかうように言う。
『でも、ちゃんと抱けたではありませんの。立派でしたわ』とアイレがフォローしてくれる。
俺は苦笑して頷いた。
――命の重み。
それを、確かに感じたひとときだった。
ケイムが落ち着いたのを確認すると、イテルさんはそっと赤ん坊を抱いたままベビーベッドへと歩いていった。
木枠のベッドは部屋の端に置かれていて、淡い布の天蓋がふわりとかかっている。窓から射し込む午後の光が、薄布を透かしてケイムの頬に淡い金色を落とした。
イテルさんが赤ん坊を寝かせると、ケイムは小さな口を開けてふにゃっと寝息を漏らす。その穏やかな吐息が、部屋の静けさを一層やわらかくしていた。
それを見届けたイテルさんは、こちらを振り返って微笑む。
「お茶を淹れるから、ちょっと待っててね」
「あ、イテルさん」
思わず声を上げていた。慌てて立ち上がり、荷物の中から小さな包みを取り出す。
「これ、お土産です。どうぞ」
渡したのは、水森の里でマヌスさんが持たせてくれたカタタの茶葉。
あの里でしか採れない貴重な茶で、俺も道中で少し飲んでみたけど、やっぱり香りの広がり方がまるで違った。
舌の奥に染み込むような余韻があって、疲れがすっと取れる感じがする。
「カタタの茶って……すごい高級品じゃない。ありがとう、じゃあこのお茶を淹れるわね」
驚きと喜びを半分ずつ混ぜたような表情を見せて、イテルさんは包みを抱えてキッチンへと向かった。
背中越しに、茶葉をそっと手でほぐす音が聞こえてくる。湯を沸かす音とともに、リビングに落ち着いた生活の音が広がっていく。
その入れ替わりのように、リビングにリームさんが入ってくる。
まずはベビーベッドを覗き込み、寝息を立てるケイムの顔を確認してから、深く息を吐き、ソファに腰を下ろした。
「ケイスケ、こっちに座れ」
促されて、俺もその隣に腰を下ろす。ソファに体を預けると、肩の力が抜けていくのを感じた。
「ケイムって、俺の名前から取ったんですよね?」
気になっていたことを思わず聞いてみる。リームさんは、目を細めて頷いた。
「ああ。お前のおかげで、この子が無事に生まれてきてくれたからな」
「いや、俺は何も……」
首を振る俺に、リームさんは「ティマから聞いた」と答える。
教会の聖女候補ティマが、俺が光魔法を使えることを知っていたこと。
そして俺がケイムの誕生を祈って、精霊が見守るようにと願ったことを――。
「本当にありがとう、ケイスケ」
その言葉に、胸が詰まった。
どう返していいかわからず、ただ「いえ、その……俺もケイムに会えて、良かったです」と、しどろもどろに答えるしかなかった。
それでもリームさんは嬉しそうに頷き、肩を軽く叩いた。
そこへ、イテルさんがカップを盆に載せて戻ってきた。
白い湯気が立ちのぼり、ふわりと清涼感のある草木の香りが部屋を満たす。
「カタタの茶ですって。ケイスケ君がくれたのよ」
「カタタの茶だと? 一体そんなものどこで……」
驚くリームさんに、俺は肩をすくめて「貰ったんですよ」とだけ答える。
あの森での出来事をどう説明しても、たぶん信じてもらえない。
だから、ただのお土産でいい。
三人でカップを持ち上げ、一口含む。
舌に広がる柔らかさと、喉を通るときの爽やかな苦味。ふっと鼻に抜ける香りが、部屋の空気まで清らかにしていく気がした。
「これは……見事な香りだ」
「本当に美味しいわね。体の中が洗われていくみたい」
リームさんとイテルさんが目を見合わせ、笑みを交わす。
リームさんは「仕入れられればかなりの利益になる」と商人らしく口にしたが、俺が「そうそう頻繁にはいけないですよ」と言うと、名残惜しそうに肩をすくめた。
そこからは、近況を交わす穏やかな時間。
領都の噂話や、リームさんの店の売り上げ、商会同士の競り合い、そして新しく雇った若い職人の話まで。
俺も合いの手を入れながら、話に耳を傾ける。
そんな中、突然「ふみゃあ!」と甲高い泣き声が響いた。
ケイムだ。イテルさんは慣れた様子で抱き上げ、授乳のためにリビングを出ていった。
扉が静かに閉まる。
途端に、残された空気の密度が少しだけ変わった。
リームさんが前のめりになり、表情を引き締める。
「それで、何があったんだ?」
さっきまでの穏やかな口調とはまるで違う。
商人としての顔ではなく、俺の「帰還を見守っていた友」としての真剣な声音だった。
その変化に気づき、俺も姿勢を正した。
……やはり来たか。
「実は……」
そこから、俺はこれまでの出来事を語った。
ヘクトルさんに招かれ、ウルズ様に会ったこと。
その直後にハルガイトに攫われ、ダンジョンへ落とされたこと。
ただし、俺が調律者なのだと言われたことや、ダンジョンマスターになったことは伏せる。
代わりに、クェルの名前を出した。ストーリーとしてはこうだ――。
クェルがウルズ様に実力を買われ、その代理として俺が同行した。
そこで光魔法の適性を持つ俺が瘴気を浄化できることが明らかになった。
そして俺も奪還作戦に加わろうとしたところで、ハルガイトにそれを知られ、拉致された。
用済みとなった俺はダンジョンに落とされ、必死で脱出して、水森の里を経由してようやく戻ってきた。
すべてを語り終えたとき、部屋に静寂が落ちた。
リームさんはしばらく目を伏せ、手の中の茶をじっと見つめていた。
やがて、その表情を引き締めて顔を上げる。
「……危なかったな」
やがて低い声でそう言った。
その声音には怒りではなく、安堵と、そして少しの苦味が混ざっていた。
張り詰めた空気。だけどそれは俺を思っての、リームさんの思いが乗っていた。
『ねえケイスケー』
リラの声が影の中から響いた。
『ケイスケも、大事にされてるよねー。あの子にだって、この人たちにだってー』
「……ああ、そうだな」
小さく答えて、俺はまた前を向いた。
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