第百九十八話「帰還」
ハンシュークの街並みが見えてきたとき、胸の奥がじんわりと熱くなった。半年ほどしか経っていないはずなのに、まるで何年も離れていたかのように懐かしく感じる。
街の輪郭を遠くから見た瞬間に、いろんな記憶が一気に蘇ってくるから不思議だ。
レガスは街の手前の草原にゆっくりと降下した。
風が渦を巻き、草が波のように揺れる。
大きな飛竜をそのまま連れていくわけにはいかないし、門前で騒ぎになっても困る。
「さてと、人里に出る前に、見た目を変えないとな」
ウルズさんにもらった彩葉の薬は丸薬状で、一粒飲めば三か月ほどは効果が持続するとのこと。
それが十粒ほど、小袋の中に入っていた。
「二年分とちょっとってとこか」
無くなったらまたもらいに行けばいいだろう。
その間にハルガイトの剣が解決すればいいが……。
軽く息をついて、薬を口に放り込む。
青臭いような匂いが鼻を抜けたが、味はほとんどない。
飲み下した直後、体の奥で微かなざわめきが走った。
『ケイスケ、髪と目の色が変わってるよー』
「もう効果が出たのか」
リラの声が弾んだ。
慌てて手鏡を取り出すと、そこには少し暗めの茶髪と、深い紺色の瞳をした自分が映っていた。
見慣れた顔なのに、どこか別人のようだ。
「これは……意外といい感じかも」
でも自分で言うのもなんだが、意外としっくりきている。
茶髪も明るい色でもないので、少し垢ぬけたような印象になった程度だ。
『似合っておりますわ、主』
『悪くないと思うぞ』
『目の色が深い水みたいでいい感じですー』
『ん。悪くない』
精霊のみんなの評価も上々だ。
『ケイスケ、イロカワッタ!』
「ああ。これからしばらくはこの姿で行く。よろしくな、レガス」
『ワカッタ!』
レガスが元気な返事をする。
大きな尾をぶんぶん振り回して、草を巻き上げるその様子が可笑しかった。
『じゃあ私も念のため、今の見た目で魔法をかけておくねー』
「ああ。助かるよ」
リラの光魔法が俺を包む。
見た目はもう変わっているので変化はないが、これで本来の見た目がバレることもないだろう。
「じゃあ行ってくる。明日迎えに来るかもしれないし、しばらく自由にしててもいい」
『ワカッタ! ケイスケ、マタアトデ!』
嬉しそうに尾を振って応えるレガスの声が頭の中に響いた。念話での会話ができるようになって本当に助かる。俺が呼べば来てくれる、そう思えるだけで心強い味方を得たようなものだ。
そこからは徒歩で街に向かう。
門前には相変わらず長い行列ができていた。
旅人、商人、冒険者たちが荷を抱え、ある者は笑い、ある者は疲れた顔で順番を待つ。
荷馬車の軋む音、子供の笑い声、露天の呼び込み。
すべてが懐かしくて、同時に遠く感じた。
俺もその列の最後尾に並び、しばらく待つ。
やがて検問を通過し、石造りの門をくぐった。
風が吹いた。
街の匂い――土と香草と焼きパンの香ばしい匂いが、懐かしい記憶を連れてくる。
俺はゆっくりと息を吸い込み、そして笑った。
「……ただいま、ハンシューク」
その呟きは誰に届くでもなく、夕暮れの風に溶けていった。
――足早に街を抜け、俺はリームさんのマンションへ向かう。
あの落ち着いた雰囲気の建物、部屋での食事、窓からの風景……すべてが昨日のことのように思い出せる。
この世界での人間社会へ溶け込めたのは、リームさんたちのお陰だ。彼らは俺のことをまるで家族のように扱ってくれた。
そんなリームさんたちに、「ただいま」と伝えたい。
階段を上り、リームさんの部屋の前で息を整える。
けれど、ドアノッカーを叩いて出てきたのは、知らない男だった。
中年ほどの年齢で、がっしりした体格。俺を見ると一瞬、訝しげに眉をひそめた。
「……すみません。ここに住んでいたリームさんという方は?」
男は最初、怪訝な顔をして俺を値踏みするように見ていたが、やがて口を開いた。
「ああ、前に住んでた人なら引っ越したよ。俺はそのあとに入ったんだが」
「……そうですか」
不意に胸の奥が空っぽになったような感覚が広がる。ここに来れば会えると、当然のように思っていたからだ。
そんな俺を見て、男は何か思い出したように眉を上げた。
「もしかして、君が前に住んでた人が言っていた子か?」
「え?」
「ああ、よく見れば聞いていた感じの見た目だ。君に伝言がある」
「伝言……?」
「ああ。『私たちは店舗に住むことになった』君が来たらそう伝えてくれって言われてた」
店舗。そういえば、ビサワに出る前からリームさんは店を開く準備を進めていた。ビサワで仕入れ先を探していたのも、そのためだったはずだ。
なるほど。きっともう新しい生活を始めているのだろう。思わず口元が緩む。
「ありがとうございました」
お礼を言って立ち去ろうとしたとき、男が呼び止めてきた。
「あ、店の場所は住所を聞いてあるから、メモを持っていくといい。文字は読めるか?」
「ええ、大丈夫です」
差し出された紙を受け取ると、そこには丁寧な字で住所が書かれていた。リームさんらしい気配りだ。
俺が迷うかもしれないと考えて、ちゃんと準備しておいてくれたのだろう。それに、俺がここに帰ってくると信じてくれていた証でもある。
「本当にありがとうございます」
「ああ、じゃあな」
深く頭を下げてから、俺は住所の方向へと足を向けた。胸の奥がふつふつと温かくなる。早く会いたい、そんな気持ちが歩みを速めていく。
街中を走り出したい衝動に駆られたが、迷惑になるので抑えた。本音を言えば、爆足を使ってでも駆け出したかった。
やがて辿り着いた場所で、俺は小さく息を呑んだ。
「着いた……」
リームさんの店だ。
下見のときに一度訪れただけの場所だったが、今はちゃんと店として整えられている。
外壁や軒先は新しい木材に取り換えられていて、木目の柔らかさと堅実さが同居する印象を与えている。まるでリームさんの人柄そのものだ。
店先にはプランターに花が咲き誇り、掃除も行き届いている。全体から清々しい空気が漂っていて、思わず背筋を伸ばしてしまうような空間だった。
店頭では中年の女性が掃除をしていた。髪を後ろでひとまとめにしていて、エプロンの裾は少し土で汚れている。働き者という印象だ。
その彼女がこちらに気づいて顔を上げる。雇った人なのか、それとも親戚なのか。二人の親にしては若いようにも見える。誰なのかはわからないが、確かにここにリームさんたちがいる気配がする。
胸の鼓動が高鳴った。
リームさんの店先で立ち尽くしていた俺は、意を決して声をかけた。
「すみません、リームさんはいらっしゃいますか?」
女性は柔らかい笑みを浮かべて「ちょっと待っててね」と答え、奥へと引っ込んでいった。
胸の奥で心臓がやけに騒がしく打つ。半年ぶりの再会だ。どんな顔をされるだろう――怒られるかもしれない、いや、それも当然だ。
やがて、奥から足音が聞こえてきた。
軽やかで、それでいて落ち着きのある足取り。
姿を現したのは、あの人だった。
「いらっしゃいませ――」
言葉の途中で、彼は動きを止めた。
まっすぐに俺を見て、わずかに眉をひそめる。現れたリームさんは、怪訝な顔をして俺を見つめていた。
そういえば、見た目を変えていたのをすっかり忘れていた。やばい。
リームさんは一歩、また一歩と近づいてきて、俺の顔を覗き込んだ。
じっと、まるで記憶と照らし合わせるように見つめて――小さく息を呑んだ。
「……もしかして、ケイスケ、か?」
「あ……! はい!」
その瞬間、彼の顔がぱっと明るくなった。
驚きと安堵が混ざった笑み。
その声は少し震えていて、それがまた胸に響く。
「ケイスケ、帰ってきたんだな!」
その言葉を聞いた瞬間、抑えていたものが一気に溢れ出した。
喉が熱くなり、胸が詰まる。
「すみません、ご心配をおかけしました……」
震える声でそう告げると、リームさんはほんの少し眉を下げ、けれど笑って答えた。
「そうだな。心配したぞ。――でも、無事な姿を見て安心したぞ」
その言葉は、まるで灯りのように温かだった。
最後までお読みいただきありがとうございます!
ちょっとでも楽しんでいただけたなら、何よりです!
もし「いいな」と思っていただけたら、
お気に入り登録や評価をポチッといただけると、とても励みになります!
コメントも大歓迎です。今後の執筆の原動力になりますので、
どんな一言でも気軽に残していただけたら嬉しいです。
これからも【悠久の放浪者】をどうぞよろしくお願いします!




