第百九十六話「空と空中軌道の変態性」
「――ぬわっ!?」
足の裏で炸裂音が弾け、俺の体はまるで蹴り飛ばされた石ころのように空へ跳ね上がった。
次の瞬間、浮遊感とともに世界がぐるりと回転する。
『あれー? おかしいなー? クェルはこれで出来てたんだけどなー?』
どこか気の抜けた声が頭の中に響いた。
火の精霊カエリが、俺の足の裏をまた爆発させたらしい。
彼女の軽い調子とは裏腹に、俺はバランスを崩しながら空中で無様にバタついていた。
「ま、待て! 角度が――おわっ、ああぁぁぁ――っ!」
地面が迫る。
最後は土煙をあげて着地。見事に仰向けで転がった。
『あちゃー、また地面にめり込んだー。どんまいあるじ』
「どんまいで済むか……っ」
息を吐きながら起き上がると、空はもうすっかり薄曇り。
さっきまでいた蟻の群れは、はるか遠く。黒い点になって蠢いている。
もう脅威は遠ざかった――つまり、今は完全に“練習時間”だ。
それにしても、空中軌道の習得というのは、ここまで難しいものなのか。
クェルが何気なくやっていたから、正直、軽く見ていた。
だが現実は、まるで重力の壁に頭を打ちつけ続ける修行僧の気分だ。
跳ねて、落ちて、転がって。何度繰り返しただろう。
土の匂いと打撲の痛みが、すでに身体の一部になりつつある。
『……あのー』
ぽつりと声を上げたのは、水の精霊シュネだった。
いつもはふにゃっとした口調の彼女が、なぜか少し張りのある声を出していた。
『今度は、私が主の足元に氷の塊を出せば、どうでしょー?』
「氷? 足元に?」
俺は思わずつぶやき、数秒の沈黙のあと――はっと顔を上げた。
「……あ、それはアリかもしれない!」
『やってみますねー!』
返事と同時に、足裏にひんやりとした冷気がまとわりつく。
視線を落とすと、透明な氷の球が瞬く間に形を成していた。
まるで生まれたての星がそこに浮いているかのようだ。
「いくぞっ!」
踏み込む。
ぐっと力を込め、氷を蹴り飛ばす――パリン、と澄んだ音。
砕け散る氷片が光を反射して舞い上がり、同時に俺の体が、ほんのわずかに前へ押し出された。
「おっ!?」
予想外の感触に、思わず声が裏返る。
確かに今、前に進んだ。微かだが、確かに。
『いまの! 成功ですわ!』
風の精霊アイレの弾む声。
『やったー! できましたー!』シュネも手を叩くように喜んでいた。
俺は笑みをこぼしながら両拳を握った。
たった一瞬、たった一歩でも、“できた”という事実は大きい。
あのクェルの超人的な動きとは比べものにならない。だが、それでも初めて掴んだ突破口だった。
「この調子で……体得するぞ!」
『がんばれー。いやぁ、ケイスケが空中をバタバタしてるの、けっこう面白いしねー』
リラの間の抜けた声に苦笑が漏れる。
とはいえ、心のどこかで「今度こそ」という感触が芽生えていた。
……が、やはり現実は非情だった。
クェルはカエリの協力で、火魔法の爆発を足場にして推進力を得ていた。
その前は空中に飛散した小石を足場にしていたが――どちらにせよ、変態的な技術だ。
彼女は「感覚でできる」と言っていたが、その感覚がさっぱり分からない。
そもそも俺は爆足すら再現できていない。つまり、土台からして無理なのでは……?
だが一度でも掴んだ手ごたえを無視することはできない。
俺は繰り返し練習した。氷だけではなく、小石を使えばどうかとポッコにも頼んでみた。
「ポッコ、今度はお前の力も借りたい。石を出してくれ」
『……ん。多分、氷と同じだと思うけど』
ポッコがそう言いながらも、俺の足元に拳大の石を生み出す。
それを狙って、全力で蹴り飛ばした。
結果――石はすっ飛んでいった。俺の体は、びくともしない。
「うわっ……石蹴ってるだけと変わらない……」
『あはははー! 石だけ加速してるー!』
リラの笑い声が空に響く。
俺は膝をついて、乾いた草を握りしめた。
氷でも石でも、踏み切りの感覚が掴めない。
いくら繰り返しても、結果は変わらなかった。
それでも、ほんのわずかな手応えが残っている。
それがある限り、やめられない。
「うーん……いや、諦めるのはまだ早いな」
俺は立ち上がり、空を仰いだ。
雲間から差す陽光が、まるで「もう一度やってみろ」と背中を押してくるようだった。
でも、こんなものを戦闘中にやるなど、とても今の俺にはできそうもない。実現できるビジョンが浮かばないのは、本当に悔しかった。
こんなものを使うクェルも、その師匠の天瞬も、ちょっと頭おかしいんじゃないだろうか?
空を仰ぎ、苦笑する。
風が頬をなで、雲がゆっくりと流れていく。
もう一度。何度でも。
俺は地面を強く蹴って、空中へと飛び出していた。
そんなこんなで時間が過ぎ、木々の切れ間から視界が開けたとき――
眼前に、ひときわ雄大な流れが現れた。
「……おお、こりゃすげえ」
思わず息を呑む。
大地を切り裂くように横たわる大河。
陽光を反射して銀色に輝く水面が、どこまでも続いていた。
風が湿気を帯び、轟々とした水音が鼓膜を震わせる。
濁流ではなく、澄んだ青緑の流れ。それでいて、底知れぬ力強さがある。
「ラプトワ大河、じゃないのか?」
呟くと、すぐにアイレが答えた。
『恐らくは支流ではないかと。流れの方向からして、北西に本流がございますわ』
「なるほどな……それにしても、でかい」
本流ほどではないといっても、川幅は優に三百メートル。
水の流れは速く、ただの渡河は無理そうだ。
跳躍しても――いや、風をうまく掴めばギリギリ届くか……?
そんな甘い希望を胸のどこかで描いてしまう。
『私が凍らせますかー?』
シュネの声が柔らかく響く。
見下ろせば、彼女がきらきらした目でこちらを見上げていた。
確かに、彼女ならこの規模の水を凍らせることも不可能ではないだろう。
彼女の周囲では、早くも冷気がふわりと立ちのぼっている。
『橋、かける?』
ポッコが土の手を組み合わせるように動かしながら、ぶっきらぼうに言った。
地を操る彼なら、石橋の一つや二つ、あっという間に架けられるに違いない。
――やっぱり、精霊ってとんでもない存在なんだな。
彼らの力を借りれば、危険なんてほとんどない。
安全で、確実で、早い。
それでも俺は少しだけ考えてしまう。
目の前の大河を見つめながら、胸の奥で何かがざわついていた。
……飛んで、渡りたい。
意味なんてない。
合理的にも、危険を冒す理由もない。
それでも、なんとなく風を切って、この空を越えてみたいという衝動が、どうしても消えなかった。
『主、顔が飛びたそうですわね』
「バレたか」
アイレがくすりと笑い、わざといたずらっぽく目を細める。
他の精霊たちもそれにつられて顔を見合わせた。
『それとも、あれを呼びますか?』
「あれ?」
『あれー?』リラが首を傾げる。
『あの、無礼だった空飛ぶトカゲのことですわ』
無礼な、空飛ぶトカゲ――?
「ああ、レガスか!」
思い出した瞬間、笑いが漏れた。
確かに、アイレからすればレガスは無礼なのかもしれない。
まあ、突然攫われたのだから無礼だったのは間違いないのだが、彼も彼で仲間の命がかかっていたので必死だったのだ。
『レガスー?』
リラは会っていないから、首をかしげるだけ。
確かにレガスなら俺を乗せて空を飛んで、川を超えることができる。
俺は飛竜のレガスの姿を思い浮かべた。
最後までお読みいただきありがとうございます!
ちょっとでも楽しんでいただけたなら、何よりです!
もし「いいな」と思っていただけたら、
お気に入り登録や評価をポチッといただけると、とても励みになります!
コメントも大歓迎です。今後の執筆の原動力になりますので、
どんな一言でも気軽に残していただけたら嬉しいです。
これからも【悠久の放浪者】をどうぞよろしくお願いします!




