第百九十四話「蟻塚の平原にて」
風を切って走る。
何にもとらわれず、ただ全力で疾走する。
自らの足で大地を蹴り、風の後押しを受けながら、ひたすら前へ。
木々は流れるように視界の外へと消えていく。
飛び出してくる根や倒木は軽く跳び越え、枝葉を裂いて進むたびに、肌をかすめる風が心地よかった。
森を抜けるまでは、とにかく走った。
風の精霊・アイレの加護で速度は倍増し、二時間近くも駆け抜けたころ――視界がぱっと開ける。
広々とした平原が眼前に広がっていた。
「ふぅ……やっと、森を抜けたか」
肩で息を整えながら、辺りを見渡す。
緑の絨毯のような草原が、地平の向こうまで続いていた。
ビサワ地方は過酷な土地が多いと聞いていたが、ここだけ見ればまるで別世界のように穏やかだ。
『きっとここだねー。あの角の人が言ってた平原だよー』
影の中から、光の精霊リラがひょっこり顔を出した。
相変わらずお気楽そうな声だ。
「これが……ウジャク平原、だったか?」
名前はうろ覚えだったが、注意すべき場所と強調されていたことだけは記憶に残っている。
『そうそう、ぱっと見は普通の草原なんだけどねー、実は色々あるんだよー』
「色々って……お前の色々はだいたい物騒なんだよな」
『ふふー、そんなことないよー? ちょっとだけ、命の危険があるくらいー?』
冗談めかしたリラの言葉に、俺は無言でため息をついた。
とはいえ、その「色々」はすぐに目で確認できた。
平原のあちこちに、黒い土を盛り上げたような小山が点々と立っている。
大きいものは五メートルを超え、中には十メートル級のものまである。
「……あれか?」
『主、あれ、間違いないよ』
いつもは寡黙な土の精霊ポッコが即答する。
「分かるのか?」
『ん。中、動いてる。いっぱい蟻。巣、広い。ここ真下にもある』
蟻――。
その単語を聞いた瞬間、全身に嫌な汗が流れた。
俺は身体強化の魔法――ドーピーの応用で視力を強化して、遠くの土の山を覗き込む。
すると、土の斜面に無数の黒い影がうごめいているのが見えた。
蟻だ。
しかも、大きさはまちまちだが、大きい個体は親指ほどもある。
地球なら卒倒ものだが、この世界では「まだ小さい方」であるのが恐ろしい。
『でもですねー、この蟻たち、油断できませんよー。獣でも虫でも人でも、なんでも食べちゃうんですー』
水の精霊シュネが、ほんわかした声でさらっと恐ろしいことを言う。
『数が多すぎるんだよな。群れで襲われたら、後には骨ひとつ残らないぞ』
火の精霊カエリが唸るように言った。
彼はいつも冗談めかして話すが、今の声色は本気だ。
「……つまり、もうこの時点で詰んでる可能性もあるってことか」
『やばーい、ケイスケ、もう巣の上にいるんだってー』
リラが楽しげに言う。笑い事ではない。
俺はゆっくりと足元を確認した。
見たところ普通の草地だが、ポッコの感知が確かなら、俺はすでに蟻たちの領域に足を踏み入れているらしい。
「やば……」
『どうするのー? このまま走り抜けちゃうー?』
「できるかな……」
声が自然と揺れる。
選択肢はふたつ――このまま強行突破するか、遠回りして避けるか。
『できるとは思いますー。けどー』
シュネが言い淀む。
『蟻たちの貯めこんだ石、どうするのー?』
リラがちゃっかりと続けた。
「ああ……蟻鉱のことか」
通称、蟻鉱。
蟻たちは巣の奥深くに鉱石を集め、それが彼らの蟻酸によって溶かされ、混ざり合うことで、時に高価な鉱石に変化するという。
一流の冒険者ですら命がけで採取する代物だ。
「……確かに見てはみたいとは思ったけど」
視線を上げると、陽光の下に連なる無数の蟻塚が、まるで墓標のように並んでいた。
風が吹くたび、乾いた土の粒がさらさらと舞い上がり、光の帯をつくる。
どこからか、低くうなるような羽音――いや、地鳴りに近いものが響いてきた。
俺は思わず耳を澄ませる。
……違う。
それは地の底から響く、蟻たちの足音だ。
生きている。地面そのものが。
背筋に冷たいものが走る。
相手は数千、いや、数万単位で襲いかかってくるという。
火には弱いらしいが、この平原には燃えるものなどほとんどない。
そして、ひとつの蟻塚を壊せば、他の蟻塚まで連動して敵意を向けてくる。
この足元にまで広がっている広大な巣のどこかに、目的の蟻鉱がある。
――普通の冒険者にとっては、挑むこと自体が愚行だ。
しかし俺には、土の精霊ポッコがいる。
『ん、見つけた』
不意に、ポッコのぼそりとした声が地中から響いた。
「……マジか」
その一言に、俺は思わず息を呑む。
次の瞬間――。
足元の大地が、もりもりと生き物のように蠢いた。
乾いた草が揺れ、土が内側から盛り上がり、細長い柱のようにせり上がっていく。
その動きはゆっくりと、しかし確実に生きているかのようだった。
やがて、土柱の頂に小さな光が宿る。
淡い琥珀色の輝き。大きさは指の先ほど。
「これが……蟻鉱、か」
掌に乗せると、鉱石は太陽の光を受け、柔らかく輝いた。
半透明の地に金や銀の粒が散りばめられ、溶け合うようにしてひとつの宝石を形づくっている。
角度を変えるたびに光が内部で屈折し、まるで小さな世界を閉じ込めているようだった。
鉱石からは、かすかに熱が伝わってくる。
生命と鉱物の境界を超えた、異質な温もり。
これが、蟻たちが命をかけて守る宝――。
『わあー! きれいー!』
リラが影から飛び出すように歓声を上げる。
『……けど、今のを蟻に気付かれなかったの、奇跡だよな?』
カエリが呆れたようにぼやいた。
「う……まあ、確かにな」
地中から直接引き上げられたおかげで、地表の蟻たちを刺激せずに済んだ。
普通なら、掘り出す前に巣の警戒反応が働いていたはずだ。
ポッコの制御がなければ、即座に包囲されていた。
「……ありがとう、ポッコ」
『ん』
短い返事。
けれど、それだけで十分だった。
俺は鉱石をしげしげと眺め、そっと布袋にしまう。
その瞬間、足元の地面が小さく震えた気がした。
遠くの蟻塚のひとつが、わずかに崩れ落ちるように形を変える。
嫌な予感が、背筋を走った。
だが、まだ大丈夫だ。――今のところは。
俺は平原を見渡した。
見渡すかぎり、黒い蟻塚が点々と並んでいる。
草原を渡る風がそれらの影を揺らし、昼なのにどこか薄暗く感じられた。
遠くでは、蟻の群れが列を成して巣から巣へと行進している。
地面がうねるように動き、その跡に細い道のような筋が残る。
その光景は、まるで平原そのものが生きているかのようだった。
喉がひとりでに鳴る。
「……さて、問題はここからだな」
『これから突っ切るのー? わくわくするねー!』
リラが楽しげに笑う。
『わくわくするような場所じゃないわ、ほんと』
カエリがぼやく。
『風、流れが変。……警戒した方がいい』
アイレが鋭い声で告げた。
『とりあえず、燃やすか?』
カエリが物騒なことを言う。
俺は頷き、背の荷を締め直す。
足元の草を踏みしめると、ざくりと湿った音がした。
それが、平原の奥へ踏み入る最初の一歩になった。
緊張とわずかな高揚感が、胸の奥で静かに同居していた。
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