第百九十三話「そして外へ」
水森の里を出て、まず俺が向かうのはハンシュークだ。
リームさんやイテラさんに無事を報告するのも大事だが――それよりも、何よりも。
赤ちゃんに会いたい。
リームさんとイテラさんの子ども。
俺にとっては、あの二人が恩人であり、家族のような存在だったから、もう楽しみで仕方がない。
想像するだけで胸の奥がじんわり温かくなる。
きっとイテラさんは母親らしい優しい笑顔を浮かべて、リームさんは相変わらず朗らかに笑っているんだろう。
『かわいかったよー』
と、リラが俺の影の中から呑気に声を投げてきた。
「そうだよな、どうだった?」
『元気な男の子だったよー。すやすや寝ててねー、もうほっぺぷにぷにー!』
俺がまだ見てないのに、リラはしっかり赤ちゃんと対面済みらしい。
なんかずるい。
『でもねー、あれなんだよねー。私、姿を消してたんだけど、見られてる気がしたんだよねー』
「……見られてた?」
『そうそう。姿を消してたんだけど、見られてる気がしたのー。あの子、目が合った気がするんだよねー』
赤ん坊の段階で精霊が見える……?
それって、ティマのように光魔法の適性が高いとか?
俺は首を傾げたが、リラは軽い調子で続ける。
「見られてる、ってことは……もしかして、適性が?」
『そうかもだけど、まあでもねー、子供ってそういうのあるんだよー。まだ感覚が鋭いから、大人が見えないものでも見えちゃったりするんだよねー』
「なるほど……」
日本でも「小さい子は霊が見える」とか「子供には妖精が見える」とか、そういう話を聞いたことがある。
魔法が実在するこの世界なら、精霊が見える赤ん坊がいても、別に不思議ではない。
『ちなみにね、ミネラ村のあの子も、もっと小さいころは私と遊んだことあるんだよー』
「……は? ミネラ村の子って……ロビンか?」
勝気でそばかすのある赤毛の少女の顔が思い浮かぶ。
『そうそう。その子。そのうち見えなくなっちゃったみたいだけどねー。でも、最初はねー、よく花冠作ってくれたんだよー』
「へえ……」
ロビンがリラと遊んでた時期があったのか。
なんか想像すると妙にほっこりする。
けど、それをロビンに直接言ったら、絶対に「はぁ!?」と怒鳴られる気しかしない。
そんな他愛もない会話をしながら、水森の里を出て、森の細道を歩いた。
木々の葉が朝の光を受けてちらちらと揺れ、地面の苔が露をまとって光る。
鳥の声がやけに近く感じるのは、結界の静寂に慣れすぎていたからだろう。
俺の隣には、護衛として同行してくれているヘクトルさんがいた。
犬獣人の衛兵隊長――逞しい体つきと、穏やかな眼差し。
短い付き合いだったが、もう完全に「仲間」と呼べるほどの信頼がある。
しばらくは、ただ風の音と靴の擦れる音だけが響いた。
ヘクトルさんの足取りは迷いがなく、俺はそれを追いかける形で黙々と進んだ。
そして、ふいにヘクトルさんが立ち止まる。
「ここから先が――水森の里の結界の外だ」
「……え?」
俺は思わず周囲を見回した。
見慣れた森の景色。
けれど、空気の流れがどこか違う。
まるで、目には見えない薄膜が目の前に広がっていて、その向こう側とこちら側で世界の密度が異なっているような感覚があった。
「結界……えっと、どこにあるんです?」
「目には見えん。だが確かにここに境がある。結界は代々、玄鹿族の首長が維持しておられるのだ」
「なるほど……ウルズ様が……」
思わず呟く。
今の首長ウルズ様は、二百五十年以上の時を生きていると言っていたが、それでもまだ若いとされているという。
先代の首長であり、予言の巫女でもあった御方は――なんと五百歳を超えてなお健在だ。
その存在を思うだけで、人間の尺度がまるで通じないことを思い知らされる。
俺は結局、その御方には会わずじまいだったが、「いずれ、また」と言葉をもらっている。
……正直、なんでそこまで俺を重く扱うのか未だに分からない。
調律者だなんだと呼ばれてはいるが、俺自身は大したことを成していない。
ただ、放浪するように旅を続けているだけだ。
「ケイスケ、一人で大丈夫か?」
ふと、ヘクトルさんが俺の顔を覗き込むように言った。
彼の金色の瞳が、どこか父親のような温かさを宿していた。
俺は苦笑して肩を竦める。
「これでも俺、銅級冒険者ですから。大丈夫ですよ」
「……そうか」
ヘクトルさんは一拍置いて、ふっと息を漏らした。
その息が、朝の空気に白く溶けていく。
口元が少しだけ緩み、獣人特有の鋭い輪郭が柔らかく見えた。
「ここまでありがとうございました」
「その守りを持っていれば、いつでも里に入ることができる」
俺は胸元に下げたお守りをそっと握った。
胡桃のような形をした、小さな実のような魔道具。
表面には細かな刻印があり、触れているとほんのり温かい。
俺の魔力に同調しているらしく、持っているだけで結界をすり抜けられるらしい。
他人が手にしても効力はないという。
「失くすなよ」
「はい」
やけに真剣な表情で言われて、思わず背筋が伸びた。
……いや、もちろん無くすつもりは毛頭ないけど。
ヘクトルさんが一歩下がり、静かに腕を組んだ。
その姿勢はまるで、門を守る衛兵そのものだった。
「では」
「ああ。息災でな」
短い別れの言葉。
だけど、そこには確かな信頼と情があった。
俺は息を整え、結界を跨ぐように一歩を踏み出す。
――瞬間。
背後で淡い水色の幕のような光が走り、森の景色がわずかに揺らいで見えた。
耳の奥で、低い鈴の音のような響きがして、身体の内側を何かが静かに通り抜けていく。
振り返ったときには、もうヘクトルさんの姿はなかった。
結界の内と外を隔てる、透明な壁。
その存在を、肌で確かに感じ取ることができた。
『……出ちゃったねー』
影の中から、リラの小さな声が聞こえる。
どこか名残惜しそうな響きだった。
「そうだな。でも、また戻ってくるさ」
俺は静かに答える。
結界の向こうに残る淡い緑光が、風に溶けてゆく。
その奥にあった穏やかな森の気配が、少しずつ遠ざかっていった。
代わりに押し寄せてきたのは、外の世界の匂い。
草の青臭さ、土の湿り気、そしてどこか鉄のような金属の匂い。
生命と危険が混ざり合った、野生の匂いだった。
思わず深呼吸する。
胸の中に、緊張と高揚が同時に満ちていく。
――ひとりになった。
けれど、不思議と怖くはなかった。
胸の奥に、確かな安心感がある。
守りを託されたこと。
そして「息災で」と告げられた言葉。
あの短い一言が、そっと背中を押してくれる。
俺は自然と笑みを浮かべた。
『さあ、進みましょう、主。行先は風が教えてくれますわ』
アイレが囁き、柔らかな風を吹かせた。
『火はいつだって、心と体を暖めるぞ!』
カエリが弾けるような火花を散らす。
『水は乾きを癒しますー』
シュネの水がふわりと頬を撫でた。
『土はいつでも足元に』
足元の土が小さく揺れ、優しく支えてくれる。
『光と闇は、いつでも傍にー』
リラが囁く。木漏れ日の光と影が、肩にそっと降り注いだ。
――ああ。
この世界は、こんなにも生きている。
俺は空を見上げ、歩き出す。
さあ、ハンシュークへ向かおう。
俺を待っている人たちがいる。
風が背を押した。
木々の間から、朝の光が射し込む。
鳥たちが一斉に飛び立ち、葉擦れの音が遠くまで響いていった。
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