第百九十二話「出立」
朝の食卓に並んだ料理は、森で採れた新鮮な野菜をふんだんに使ったものばかりだった。
木の実を煮詰めた甘いソースが添えられ、香草の香りがふわりと鼻をくすぐる。
動物性たんぱく質は川魚を焼いた料理。身が柔らかく、脂がのっていて、森の中の村とは思えないほどの贅沢さだ。
ウルズ様が丁寧に取り分け、マヌスさんが落ち着いた所作で静かに口に運ぶ。
その向かいで、俺はというと、まだ夢うつつのまま頭を掻きながら椀を手に取り――
隣では、クェルが元気よくがつがつと食べていた。
湯気を立てるスープの香りと、パンをかじるクェルの小気味よい音。
そんな朝の音が妙に心地いい。
「そいえばさ、ケイスケ」
唐突にクェルが話しかけてきた。
「ん、何?」
「ケイスケって、神学校に行くとか、そんな話してなかったっけ?」
「あー……そういえば、確かに?」
言われて思い出す。
光魔法を使えるようになって、推薦状を受け取って――ティマのこともあって、行くと決めたはずだった。
でも、あれからいろんなことがありすぎて、すっかり頭の隅からこぼれ落ちていた。
「だよね?」
「それがどうかした?」
「ん、どうかした? っていうより、大丈夫なのかなって」
「大丈夫って、うん?」
何が大丈夫じゃないのか、いまいちピンとこない。
俺が首を傾げると、クェルはスプーンを指でくるくると回しながら続けた。
「いや、そろそろ入学の時期、近いんじゃないかなーって、思って」
「え……」
言われて、ようやく背筋が冷たくなる。
そういえば、そんな季節の感覚、まるで意識してなかった。
半年以上もダンジョンに籠って、時の流れをすっ飛ばしてきたんだ。
俺の中のカレンダーは、とっくに壊れていた。
慌てて荷物の中を思い返す。幸い、推薦状は無くしていない。
それだけが唯一の救いだった。
「……なあ、クェル、ここからサンフラン王国の王都までって、どれくらいかわかる?」
「そんなこと私にわからないよ。そもそもこの里にだって、どうやって来たかわからないのに」
「あ……そりゃそうだ」
確かに。ヘクトルさんに連れられて、道はわからないんだった……。
すると、そのやり取りを黙って聞いていたウルズ様が、穏やかに口を開いた。
「ここからサンフラン王国の王都までですと、凡そ三週間の距離となりますね」
「三週間……」
思った以上に長い。
もちろん、俺とクェルの脚なら走って短縮できる。たぶん半分……いや、もっと詰められるかもしれない。
けど、学校に入学するとなると、服や教材や道具の準備もしたいし――何より、その前にリームさんに顔を出したい。
あの人を半年も心配させっぱなしにしたんだ。まずは謝りに行くのが筋だろう。
……となると、時間は決して多くはない。
俺が唸っていると、隣でクェルは「へー三週間かぁ」と、のんきにパンをかじっていた。
心配してくれてるのか、してないのか、よくわからないやつだ。
その後は、慌ただしく今後の行動を詰めることになった。
俺は俺で、旅立ちの準備を。
差し込む朝日が、森を淡く照らし始めていた。
新しい日と、新しい行き先が、静かに目の前に広がっていくのを感じながら――俺は、椀の中の野菜スープを一口啜った。
――それから数日後。
里の朝靄を抜けるように、澄んだ空気の中で俺は深呼吸をひとつした。
森の葉の間を抜ける風が、肌を撫でていく。
冷たさと、湿った草の香り。あれだけ騒がしかった日々が嘘みたいに、今はただ静かだった。
「じゃあ、行きます」
声に出すと、緊張と期待が入り混じって胸が少し熱くなる。
本当は、もう少しだけこの里で過ごしたかった。
穏やかな空気、優しい人たち。
正直、もう少しゆっくりしたかった。けど俺にはやることがある。
「お気をつけて」
光がその髪を透かし、淡い翠色がきらめく。
ウルズ様が、その神々しい佇まいのまま微笑んで送り出してくれる。
「はい」
背筋を伸ばして答えると、不思議と気が引き締まった。
俺はいま、水森の里の伝統衣装と、防具一式を身につけている。
衣類は紺を基調としたもので、ボタンには「黎木」が使われていた。紺色はこの里では高級色らしく、「深き水の誓い」を意味するそうだ。
そして防具。これがすごかった。
悠木――千年経っても五メートルほどにしか成長しないという木。
その木材から作られた籠手、胸当て、脛あて、額あてを俺は装備している。
見た目は黒。しかし、よく見ると深い木目が浮かんでいて、金属にはない温かみと重厚感がある。
硬さは金属以上なのにしなやかで軽い。
正直、俺の中の中二心をこれでもかと刺激してきた。
「カッコいい」
それだけで、もう十分だった。普通の装備でいいと最初は思ってたけど、これを着ちゃったら戻れない。
荷を背負い直し、振り返る。
朝霧に包まれた里の景色。樹々の間に立ち並ぶ木造の家々、風に揺れる草花。
短い滞在だったが、どこか懐かしく、心の奥に刻まれるような場所だった。
――また必ず来よう。
心の中でそう約束し、前を向いた。
森を抜けるまでは、ヘクトルさんが先導してくれた。
入る時は馬車の中で目隠しをされ、道順も知らされなかったが、今回は違う。
ウルズ様の許可が出たのだ。
「調律者」である俺になら、里の場所を明かしても問題ないらしい。
なら、行きに隠したのはなぜか? と尋ねると、ヘクトルさんは照れくさそうに笑った。
「……私が、まだ君たちを信用しきれていなかった。それだけの話だ。それにそれが、里の決まりだったからな」
不器用な人だ。けれど、その一言が妙に嬉しかった。
今はもう、彼の声に迷いはない。
ただ、出立にあたって一つだけ心残りがあった。
――クェルのことだ。
彼女は水森の里に残ることになった。
彼女はハルガイトの動向を監視し、奪還作戦にも参加するらしい。
「任せといて!」なんて胸を張ってたけど、心配は尽きない。
別れ際、彼女は拳を突き出してきた。
「ケイスケ、戻ったらまた模擬戦しようね!」
「……俺、前回全然勝てなかったんだけど」
「いいじゃん! 強くなったケイスケと戦いたいんだよ」
笑いながら言うその顔が、太陽みたいに明るかった。
そのまま見送られるのが、少しだけ切なかった。
幸い、クェルとは念話のパスを繋げることができた。
ステータスと同じで、おそらく俺の血を舐めたからだ。
ただし――問題がある。
クェルは受信はできるけど、送信ができない。
「もしもしー! ケイスケ! ……あれ、声届いてない? おーい!」
そんな実験を何度も繰り返していたが、俺の耳には何も届かなかった。
センスの問題なのか、適性の問題なのか。
自動スワップを設定してあり、クェルの火素の同期は進むはずだから、きっとそのうち魔法も扱えるようになるだろう。
「これで天瞬を超えられるかも!」
子供みたいに目を輝かせていたクェル。
詠唱はちゃんと勉強して練習しなよ。と言うと、やっぱり口を尖らせていたが。
ちなみにスマホのステータス欄には、新たにエージェとクェルのほか、ウルズ様も登録された。
例によって、俺の血をほんの少し舐めてもらったのだ。
「体液……まあ! そうですか」
最初に説明したとき、ウルズ様が一瞬だけ俺の下半身を見たのは、心臓が止まるかと思った。
慌てて「血です!」と訂正したが、誤解されても仕方ない言い方をした俺が悪い。
ちなみにウルズ様のステータスには「波素」の項目があった。
彼女の能力の一端だろう。
さらに念のためマヌスさんにも協力してもらった。
血を少し舐めてもらい、登録成功。
性別は関係ないらしい。
マヌスさんのステータスにも波素はあったが、同期率は低め。
これが上がれば、彼も波の精霊と会話できるようになるはずだ。
そのときの彼を想像すると、ちょっとだけ楽しみでもある。
――いつか、必ず彼らに会いに来よう。
ふと立ち止まり、もう一度だけ里を振り返る。
枝角に宝石と花を飾った首長ウルズ様の姿が、朝霧の向こうに見えた。
その神話のような光景を、心の奥に焼きつける。
次に見るとき、この森はどんな表情を見せてくれるのだろう。
前を向く。
木々の間から、差し込む光が道を照らしていた。
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