第百八十七話「秘匿された里」
木々の間を抜ける風が、湖面を撫でて波紋を生んでいた。
目の前に広がるのは、まさに幻想という言葉がぴったりの風景だった。
湖の上に、いくつもの家が浮かぶように建てられている。木と木の間を渡すように架けられた橋は、緑に溶け込みながらもはっきりと道を形作っていた。白い水鳥が羽ばたき、木漏れ日が羽根を透かして銀色にきらめく。水面では小魚がぽちゃんと跳ねては円を広げ、あたりの空気に静かな生命の鼓動を響かせていた。
――静寂、ではない。
けれども、どこまでも穏やかで耳に心地いい音ばかりだった。鳥の声、揺れる木の葉の囁き、子どもの笑い声。大きな叫びや騒がしい喧騒はないが、生命が紡ぐ音楽に包まれているような空気だった。
「すごい……」
思わず口をついて出た。俺の隣でクェルも「へぇぇ!」と目を丸くしている。
こういう時の彼女は年相応に見えるのに、次の瞬間にはきっといつもの調子で茶化してくるに違いない。
「ねえケイスケ、あれ見て! 家が湖に浮いてるよ! 沈まないのかな? ほら、私がドーンと飛び跳ねたら――」
「やめろ! 絶対やめろ! 歓迎どころか即追放されるぞ!」
俺が慌てて止めると、クェルはケラケラ笑って肩をすくめた。
里の住民たちが、俺たちをじっと見ていた。敵意というよりは、ただただ興味津々といった眼差しだ。外からの訪問者は珍しいのだろう。
彼らの多くは、ウルズ様と同じ玄鹿族。すらりとした体躯に、透き通るような白い肌、そして枝角を持っている。身長は高く、手足が長い。角の大きさや形は人それぞれらしく、小さな枝のように控えめなものから、立派に広がった枝角まで様々だ。ちらほらと犬や猫の獣人も見かけたが、本当に少数派だった。
――そして、美形ばかりだ。
正直に言うと、俺は少し圧倒されていた。
もっとも、その中でもウルズ様ほどの神々しさを備えた者はいない。あの宝石のように輝く角は、唯一無二なのだと改めて理解する。
ただ、不思議と疎外感は覚えなかった。
閉ざされた集落だと聞いていたが、排他的な空気はまるでない。むしろ、好奇心から向けられる視線は柔らかい。おそらく、ヘクトルさんが一緒にいるからだろう。
「この里は、結界に守られている」
先を行くヘクトルさんが振り返って言った。
「魔獣も魔物も中へは入れない。案内がなければ、外の者はここに足を踏み入れることすら叶わん」
「迷って来ることも、ないってことですね」
「そういうことだ。ここにいるというだけで、歓迎されている証拠だと思ってくれ」
歓迎――。
その言葉に胸が温かくなる。俺みたいな旅の途中のよそ者でも、受け入れてくれるというのは、思っていた以上に嬉しいものだった。
「ケイスケ、聞いた? 歓迎だって! ほら、私、こういうの大得意なんだよ。歓迎される顔!」
クェルは満面の笑みを浮かべ、両手を大きく振って里の子どもたちに向かって「やっほー!」と叫んだ。
……子どもたちは一瞬固まった後、キャッキャと笑いながら手を振り返してくれた。
「……お前、本当に慣れるの早いな」
「でしょ?」
俺は呆れ半分、感心半分で肩をすくめた。
里を歩くと、挨拶を交わす声があちこちから届く。道端で立ち話をする人々の笑顔。小さな露店のような場所から聞こえる談笑の声。干した魚の香りや焼きたてのパンの匂いが、風に乗って漂ってくる。
「ケイスケ、あれ食べてみたい!」
「落ち着け、まだ案内の途中だ」
「ちぇー……でも絶対あとで食べるからね!」
本当に平和そのものだ。
俺が知るどの村とも違う、柔らかで透き通るような空気に、自然と肩の力が抜けていく。
「まずはついてきてくれ。ウルズ様が待っている」
「はい」
俺とクェルは同時に頷き、ヘクトルさんの後を追った。
集落の奥へ進むにつれて、木々はより大きく、濃く、荘厳さを増していく。鳥の声も遠ざかり、代わりに森そのものの低い呼吸音のようなものが耳に残る。
やがて辿り着いたのは、ひときわ大きな木だった。その幹をぐるりと囲むように階段が造られており、上へ上へと伸びている。
枝と枝の間に建てられたのは――殿舎のような建物。
小さな神社を思わせるが、白木の清廉さではなく、木の肌や蔦、花や苔が覆い尽くし、一面が緑に溶け込んでいる。自然と人工の境界がわからなくなるほど、息を呑むほどに調和していた。
「おぉ……まるで木がそのまま家になったみたいだね」
クェルの軽口に少し緊張が和らぐ。だが目の前の光景は、どうしても背筋を正さずにはいられなかった。
扉は閉ざされている。俺の身長の倍以上はあろうかという大きさで、苔むした木の板が幾重にも組まれていた。近づくだけで肌を刺すような気配――いや、張り詰めた空気を感じる。結界か、それとも建物そのものが発する気配か。
「では、私はここまでだ」
ヘクトルさんが立ち止まり、深く一礼した。
そのまま背を向け、敷地の外で控えるように立ち尽くす。どうやらここから先は、俺とクェルだけで行けということらしい。
顔を見合わせると、クェルはにやりと笑った。
ふかふかと草に覆われた敷地へ足を踏み入れる。踏みしめるたび、柔らかな感触が靴越しに伝わってくる。空気は澄んでいるのに、胸の奥が重くなるような圧があった。
「失礼しますー……?」
誰も見えない周囲に声をかける。返事はない。
代わりに――。
重厚な扉が、音もなくゆっくりと開きはじめた。
軋みも風鳴りもなく、ただ自然に流れる水のように。
思わず、俺は息を呑む。
胸の鼓動が早鐘のように打ち始める。
俺たちは顔を見合わせ、同時に小さく頷き合った。
重厚な扉が静かに開いた瞬間、胸の奥が妙にざわついた。待っていたのは、厳めしい空気でも、叱責の声でもなかった。
「ケイスケ様!」
次の瞬間、温かい何かが俺を包み込んだ。
「わぷ!?」
柔らかな感触。花のような甘い香り。鼻をくすぐるその匂いに、心臓が跳ねる。頭を抱き寄せられているのだと気づいたのは、頬に伝わる体温のせいだった。
ウルズ様だ。間違いない。俺の顔は、彼女のお腹のあたりに押しつけられている。胸でも肩でもなく……腹部。しかもその柔らかさを、顔面全体で堪能してしまっている。
うわ、やばい、これ、どう考えてもまずい!
全力で意識を逸らそうとするも、体は動かない。ウルズ様の白く細い手が、しっかりと俺の頭を抱きしめているからだ。なんでこんなに力強いんだろう、この人。
「あ、あの!」
なんとか声を絞り出すと、ウルズ様はようやく俺を放してくれた。その顔には、心底安堵したような微笑みが浮かんでいた。けれど、俺の方は頬が熱くて仕方がない。……なんだろう、ほんの少しだけ、離れてしまったことが残念だと感じたのは気のせいか?
ドンッ、と背中に衝撃。振り向けば、クェルがジト目で俺を睨んでいた。唇を尖らせ、まるで「浮かれてんじゃないわよ」と言わんばかりの顔だ。別に俺は悪いことをしてないはずなんだが……言い訳すればするほど泥沼にハマりそうで、ぐっと飲み込んだ。
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