第百八十六話「水面と巨木の森」
クェルとヘクトルさんの手合わせの勝敗は決まらなかった。
所謂千日手のような状況で、いくらクェルが攻めてもヘクトルさんは崩れなかったし、ヘクトルさんもまたクェルに対する切り札のようなものは持っていなかった。
幾度となく続いた剣戟は、動きを止めたクェルの言葉で終わりを告げた。
「……これ以上は勝負決まらなそうだし、終わろっか?」
「……そうだな。これ以上は支障も出そうだ」
二人は同時に剣を引いた。空気がほっと緩む。
「ふぅー……やっぱり隊長は強いや」
クェルは額の汗をぬぐい、楽しそうに笑った。
「いや……お前もだ。まるで噛み合いすぎて、どちらも一歩も譲らん」
ヘクトルさんは剣を鞘に収め、低く唸るように言った。
「噛み合いすぎ、って?」と俺。
「お互いの得意分野が、互いを相殺してしまっているのだ。クェルの爆発的な踏み込みは、守りを崩すには理想的だ。だが私の構えはそういう奇襲に特化している。逆に、私の地に足のついた攻防は、相手を封じるのに有効だが……お前のように空を駆けるような動きには刺さらん」
ヘクトルさんは肩を回しながら言葉を続ける。
「つまりだ。これは勝ち負けではない。ただの“相性”だ。勝負を続けても、お互いの強みと弱みをなぞり続けるだけになる」
「なるほどな~。犬と猫が本気で追いかけっこしても、結局どっちも疲れるだけ、みたいな?」
クェルが茶化すと、ヘクトルさんは苦笑して「……例えが雑だな」と返す。
「でも、そういうのも面白いよね」
クェルは肩をすくめながら、剣を軽く掲げて俺の方へ向ける。
「ケイスケ、聞いてたでしょ? 人の真似ばかりじゃなくて、自分の戦い方を作れってこと。隊長と私の相性みたいに、強みは人によって全然違うんだから」
師匠としての言葉に、俺は思わず背筋を伸ばした。
「……はい」
するとヘクトルさんがこちらへ歩み寄り、真っ直ぐ俺を見た。犬獣人特有の鋭い瞳に射抜かれる。
「ケイスケ。お前は器用だ。だが器用な者ほど、他人の型を真似て満足してしまいがちだ。模倣は最初の一歩に過ぎん。そこからどう己の形に昇華させるか……そこが分かれ目だ」
ぐっと拳を握る音が、耳に残った。
ヘクトルさんの言葉はまっすぐで、心の奥に突き刺さる。
「……はい。肝に銘じます」
「よろしい」
ヘクトルさんは満足げに頷き、それから肩を竦めた。
「にしても、クェル。お前と戦うのは骨が折れる。終わった後の疲労感が倍増するな」
「へへっ、隊長も同じこと思ってた? 私もすっごい疲れた!」
二人は思わず顔を見合わせ、同時に笑った。
緊張感に包まれていた空気が、一気に和やかになる。
そして、旅の間は俺とクェルの組手に、ヘクトルさんや他の隊員が加わり、実のある訓練が続けられた。
俺は二人の言葉を思い出しては、自分のスタイルというものを考えて試して、ダメ出しをされては改善してを繰り返した。
「ケイスケ、今のは足運びが甘い」
「そそ、そうそう! ちゃんと腰も落とさないと!」
ヘクトルさんとクェル、まさかの息ぴったりダブルダメ出し。俺は剣を下ろし、思わずうなだれた。
「……はい」
だけど不思議と嫌じゃなかった。二人とも本気で教えてくれているのが伝わるからだ。俺の「らしさ」を探す時間は、きついけれどどこか楽しかった。
──ただし、戦闘の実戦は、ほとんど俺の出番はなかった。
道中で時折現れる魔物は、全部クェルやヘクトルさんたちが片付けてしまった。あまりに速すぎて、俺が剣を抜こうとしたときには、もう倒れ伏していた。
「……俺、いらなくない?」
つい口から漏れた俺の声に、クェルが振り向いて笑う。
「大丈夫! いらない子じゃないから!」
「余計に悲しいんだけど!?」
そんな軽口を叩きながら進む旅は、退屈なだけじゃなく妙に温かかった。
食事も、彼らが用意してくれた。大きな鍋でぐつぐつ煮込んだスープに、岩みたいに硬そうな分厚いパン、あとは肉を鉄串に刺して焚き火で豪快に焼くだけ。細かい味付けなんてほとんどない。けど……驚くほど美味かった。
「うまい……」
思わずつぶやいた俺に、クェルがパンを頬張りながら笑う。
「でしょ? 旅先の男料理って感じだけど、こういうのが一番いいのよね!」
確かに。舌だけじゃなく、心まで温まる。久しぶりに「人の手で作られた温かい飯」を食べている気がした。
ただ、日々の移動は正直きつかった。外には出られない。景色も見えない。昼はただ馬車の中で揺られ、夜になれば剣を振れるだけ。だから俺たちはせめて夜の間は身体を動かそうと、手合わせを繰り返した。そして昼間は馬車の中で眠る……そんな昼夜逆転のサイクルを続けた。
最初の一日は、ほとんど寝られなかった。
そのとき気づいたのだ。俺には『睡眠耐性』なんていう余計なスキルが付いていることを。スマホでON/OFFを切り替えられるのを見つけて、即座にOFFにした。でなければ確実に精神が壊れていたと思う。
「ふぁぁ……俺はともかく、よく平気だな、クェル」
「んー、まあ、あたしはどこでも寝れる女だから!」
威張って言うことかそれ。だが、さすがの彼女も一週間も続けるときつそうだった。パンを片手に舟を漕ぎそうになる姿を見て、俺は妙な安心感を覚えてしまった。
そんな生活が続いて、ようやく一週間。
「これから水森の里に入る」
馬車の前方から、ヘクトルさんが声をかけてきた。その言葉を聞いた瞬間、俺とクェルは同時に項垂れた。
「……やっとか」
「……長かったわよ」
声がぴったり揃ったのが可笑しくて、俺たちは顔を見合わせて苦笑する。
地上の景色を一切見られないまま進むのは、想像以上に堪えた。閉じ込められている感覚が強く、時間の流れがやけに遅い。それでも、夜の稽古を通してヘクトルさんや彼の部下たちと打ち解けられたのは良かった。彼らは真面目で堅い人たちだけど、冗談を言えばちゃんと笑うし、世間話くらいならつき合ってくれる。ほんの少しだけ距離が縮まった気がした。
……それだけでも、この一週間に意味はあったのかもしれない。
明日には水森の里に着く。長い長い移動も、ようやく終わるのだ。
ヘクトルさんの低い声が、馬車の揺れに馴染むように響いた。
「ここから先は、馬車の外に出て歩いても構わない」
その言葉を聞いた瞬間、俺とクェルは顔を見合わせ、次の瞬間には我先にと飛び出していた。まるで子供が解き放たれたみたいに。待ちきれなかったのだ。長い馬車の移動で凝り固まった体を、ようやく伸ばせる。
馬車から降り立った瞬間、目の前に広がる光景に息を呑んだ。
そこは、深い巨木の森だった。天に突き刺さるような針葉樹が幾本も立ち並び、見上げれば首が痛くなるほどの高さだ。どの幹も分厚く、樹皮の上には濃い緑の苔がびっしりと貼りついている。その足元には澄みきった透明な水が湛えられ、まるで鏡のように木漏れ日を映し込んでいた。
俺たちの立っている場所は、どうやら巨大な倒木の上だった。幅は馬車が二台並んで通れるほど広く、苔が柔らかい絨毯のように覆っている。ところどころには木製の小さな橋が掛けられ、倒木同士を繋いでいた。まるで森そのものが街道になっているみたいだ。
頭上から降り注ぐ木漏れ日は、まるで水面を覗いているかのように揺らめいている。その光を浴びた周囲の水面が、きらきらと銀の粒を撒いたみたいに光る。幻想的――その一言しか出てこなかった。
「すごいな……」
声が勝手に漏れた。まるで俺の中のウルズ様のイメージが、そのまま景色になったかのようだった。
「もう間もなく、集落だ」
背後からヘクトルさんの声がする。「あまり歩き回らないでくれると助かる」
「わかりました」俺は素直に返事をする。
だが、隣でクェルがすかさず口を尖らせた。
「わかったけど、ちょっとくらいならいいよね?」
その声音は完全に「遊ばせてほしい子供」のそれだ。ヘクトルさんは苦笑し、肩を竦める。
「そうだな、少しくらいなら大丈夫だ」
しかし、と言葉を続け、鋭い目をクェルに向ける。
「目付け役をつけさせてもらうから、振り切るなよ?」
「え? やだなあ、私、そんなに信用ない?」
クェルがわざとらしく頬を膨らませる。だがヘクトルさんは、その性格をよくわかっているらしい。疑いの眼差しを崩さなかった。
――まあ、無理もない。俺だって、クェルを放っておけば間違いなくどこかへ突っ走るだろうと予想できる。
『ケイスケ、賭けるー? あの人の目をかいくぐって走り出すのに三分もかからないに一票ー』
「やめろ。そんな賭けに巻き込まれる俺の身にもなれ」
リラの軽口をあしらいながら、俺たちは倒れた巨木の上を歩き出した。
苔を踏むたびに、しっとりと沈み込む柔らかさが足に伝わる。森の奥からは鳥の鳴き声が重なり合い、どこか遠くで水が流れる音も聞こえてきた。音が少し遅れて響くのは、巨木や水面に反射しているせいだろうか。耳に優しく、胸にまで染み渡る。
風が吹き抜けると、針葉樹の枝葉がざわりと鳴り、木漏れ日が波のように揺れる。
空気はひんやりとしているのに、湿った苔の匂いや木の香りが鼻をくすぐり、不思議と心地よい。
「はぁぁ……やっぱ外の空気って最高!」
クェルが大きく伸びをして、思いっきり深呼吸をした。腕をばたばたさせながら走り出しそうな勢いだ。
俺も自然と口元が緩んでいた。
「ほんとだな。空気が……甘い」
口にしてみると、なんだか馬鹿みたいな感想に思える。けど、それしか言葉が見つからなかった。
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