第百八十二話「水森の里へ」
池から上がり、魔法で体を乾かしたあと、近くの倒木に腰を下ろす。地上の空気はまだ少し冷たいが、久しぶりに頬を撫でる風が妙に心地よい。
すると、思いがけない人物が姿を現した。迎えに来ていたのはクェルだけではなかった。
「久しいな。壮健そうで何よりだ」
低く落ち着いた声が耳に届く。振り返ると、犬の獣人の中年男が数人の兵を従えて立っていた。武骨な体つきと真っ直ぐな眼差し――すぐに思い出す。
「えっと……ヘクトルさん?」
「うむ」
水森の里の衛兵隊長。以前、ウルズ様の護衛を務めていた人物だ。俺が少し戸惑っていると、横からクェルがにやりと笑う。
「ぬふふ、ちゃんと根回ししておいたんだよー。私が一人で連れ回すより、隊長さんに任せた方が安心でしょ?」
どうやらクェルとヘクトルさんは、ここまでの間に情報交換をしながら協力関係を築いていたらしい。意外な組み合わせだが、こういう真面目な人ともうまくやれるのは、クェルの図太さというか人懐っこさゆえだろう。
「まずは移動する。馬車を用意してある。乗ってくれ」
案内されて外に出ると、林の陰にごつい馬車が待っていた。装飾もなく、実務一点張りの堅実な造り。いかにもヘクトルさんらしい。
中は四人がけの座席。俺とクェルが並んで腰掛け、正面にヘクトルさん。兵士たちは馬車の周囲を固めるように控えている。
「どこへ向かうんです?」
「水森の里だ。ウルズ様とマヌス殿が待っている」
その名を聞いた瞬間、思わず息を呑む。無意識に困惑が顔に出てしまったらしい。ヘクトルさんは少し眉を下げ、それから真っ直ぐに頷いた。
「君が知人に挨拶をしたい気持ちは理解している。しかし、まずは里へ来てほしい。事情を聞いた上で、しかるべき形で皆に知らせるのが良いと判断されたのだ」
そう言うと、衛兵隊長はごつい体を折って真正面から頭を下げてきた。誠実そのものの仕草に、俺は言葉を失う。
……真正面から頭を下げられてしまったら、もう何も言えない。
クェルにもまだ、俺が突然姿を消した理由をきちんと話していない。下手に打ち明ければ、彼女はどんな行動に出るかわからない。半年もの間、俺はダンジョンの中で過ごしてきた。そこのところの詳しい話を、話さないわけにもいかない。
ただ――ここで全てを語るのは違う。ヘクトルさんの言う通り、ウルズ様とマヌスさんの前で説明する方が筋が通る。特に、クェルの故郷が滅んだ理由については。
だから馬車の中で語ったのは、核心を避けた話だけだ。ダンジョンマスターになってどうにか通路を作り変えたこと、鼠や精霊たちと過ごした日々、灰色の不気味な魔物たちのこと。クェルは俺の隣で腕を組み、時折ちらりと視線を向けてくるが、追及はしない。その態度から察するに、彼女なりに事情を感じ取ってくれているのだろう。
重たい空気を破ったのは、やはり彼女だった。
「そういえばさ! リームさんの奥さん、無事に赤ちゃん産まれたんだよ。男の子!」
「……そうなんだ。良かった!」
思わず笑みがこぼれる。あの人はずっと心配していたから、本当に胸をなで下ろした。
「ね、可愛いんだよー。ふわふわで、きゅーって小さくて! 抱っこしたら泣き止んじゃってさ、私のこと大好きに違いない!」
「……それは泣き疲れただけだと思うぞ」
ヘクトルさんがぼそりと突っ込む。その声音に、兵士たちが小さく笑いを漏らした。馬車の中の緊張が、ほんの少し和らぐ。
俺はそんな空気に救われるように、深く息を吐いた。地上に戻った実感が、ようやく胸に広がり始めていた。
――そのとき、頭の中に軽やかな声が響いた。
「イテルさんも、無事だったのか?」
「ん? 勿論生んだ直後は大変そうだったけど、今は元気だよ!」
「そっか」
ほっと胸を撫でおろす。
『様子見てたけど、私が見てたから大丈夫だったよー!』
それは本当に、きっとリラのおかげだ。
そんなリラの声を聞いて思い出す。
「……リラ? あ、そうだ」
そうだ、リラにはずっと声を届けられなかった。けれど今なら――。
『……リラ、聞こえるか?』
リラにパスを繋げ、念じるように呼びかけると、すぐに弾けるような反応が返ってきた。
『えっ!? ケイスケの声が聞こえるー!? えっ? えっ? なにこれ!? こんなことできるようになったのー!?』
『うん、すごいだろ?』
『すごいすごーい! ケイスケ、やるねー! ちょっとカッコイイかも!』
妙に浮かれた声に、思わず笑ってしまった。危うく声が漏れそうになったが、ちょうどリームさん夫婦の話題だったので、周囲から怪しまれずに済んだ。
そこからは、なるべく自然にとりとめもない話を続ける。リームさんの店が開店したこと、ダッジたちがまたヴァイファブールに戻ってきたこと。表向きは世間話。けれど俺の心は、影の奥から跳ね回るリラの声でいっぱいだった。
『ねえねえ、もっと話してよー! 寂しかったんだから!』
『ああ、俺もだよ』
不意に本音が口をついた。馬車の中の会話は軽口のように聞こえるだろうが、影の内側では懐かしい再会が始まっていた。
「ヘクトルさん、水森の里って、どんなところなんですか?」
馬車に揺られながら、俺は前方に座るヘクトルさんに問いかけた。木々の匂いが鼻を抜ける。森の奥に進んでいるせいか、道は段々と暗さを増していた。
「そうだな。里はその名の通り、水の豊かな森の中にある、美しい場所だ」
低く落ち着いた声。いつもの衛兵隊長らしい調子だ。俺の中で“秘境”という言葉がふっと浮かぶ。確かに、美しいという響きにはそれが似合う。
「水が豊か……って、川とか湖とかがあるんですか?」
「川も湖もある。だが、それだけではない。泉も、滝も、湿原もある。水の巨木の在り様そのものが、里を形作っていると言っていい」
彼の口ぶりは誇らしげだ。なるほど、名に違わぬ場所ということか。俺が頷いていると、クェルが身を乗り出してきた。
「へぇー、私、そういう綺麗なところ好きだよ!」
「クェルも初めてなんだ?」
「うん。実はそうなんだよね!」
彼女の声が馬車の中に明るさを運ぶ。だが、ヘクトルさんは眉をわずかに寄せて、真面目な顔で付け足した。
「ただし、基本的には招かれない限り立ち入ることはできない。場所も秘匿されていて、知るのは限られた者たちだけだ」
「なんでそんなに厳重なんです?」
思わず聞き返す俺。だが、彼は首を横に振った。
「その辺りはウルズ様に直接聞くといい。私の口から語れることではない」
……まあ、そう簡単に核心は教えてもらえないか。
それにしても、玄鹿族の人たちは基本的に里から出ないらしい。前にウルズさんたちが姿を現したのは、かなり珍しいことだったそうだ。つまり、俺が出会ったのは奇跡に近い出来事だったのかもしれない。
「里の者たちに代わって、外と関わるのが俺たちの役目だ」
ヘクトルさんの言葉は簡潔だ。そうか、彼らは外の目となり耳となる存在なのか。
「で、あとどれくらいで着くんです?」
俺は軽く伸びをしながら尋ねた。馬車に揺られてもう二時間は経った。そろそろ目的地が近いんじゃないかという期待を込めて。
しかし、その期待はあっさり裏切られることになる。
「一週間だ」
「……は?」
俺は耳を疑った。いや、空耳かもしれない。だが、ヘクトルさんは真剣な顔で前を見据えている。
「ま、マジですか」
「ふっ。マジだ」
俺は頭を抱えた。いやいや、一週間って。想定外にもほどがある。ここから馬車でのんびりと一週間? 話題があるうちはいいけど、沈黙が続いたらどうすんだ俺。
『あはは、がんばれーケイスケ。退屈は修行の一部だよー?』
影の中からリラがのんきに笑う。軽い声が念話で響いた。
「いや、修行にも程があるだろ……」
小声で呟くと、クェルが俺の肩にポンと手を置いた。目はやたらキラキラしている。
「夜はまた手合わせしよっか」
「そうだな……」
どうやら、暇つぶしの時間は用意されているらしい。肉体は鍛えられるだろうけど、心はどうだ。俺は内心で苦笑する。
『主、こいつ強くなってるぞ! やめといたほうがいいんじゃないか?』
カエリが鼻で笑うように言った。こいつ、相変わらず辛辣だ。
『ふふっ、でも、退屈しのぎにはちょうど良いですわね』
アイレが落ち着いた声で補足する。
『わたしなら、水浴びがしたいですー……』
シュネがぽそりと呟いた。水の精霊だけに、森の中の水辺を楽しみにしているようだ。
みんな言いたい放題だな。ポッコに至っては何も言わず、ただじっとしている。まあ、あいつはああいうやつだ。
「それにしても、一週間かぁ……」
俺は天を仰いだ。思えば、俺には早くハルガイトについての話し合いをしたいという気持ちがあるのに、一週間も先延ばしとは。もどかしいにもほどがある。
「気長にいこうよ」
クェルがにっと笑った。彼女の明るさがなければ、俺はもっと沈んでいただろう。……いや、今でも沈んでるけど。
『一週間……。果たしてケイスケは無事に耐えられるのでしょうか?』
リラの声が芝居がかって響く。やめろ、妙にリアルな予言みたいなことを言うな。
こうして、水森の里への道のりは、俺にとって小さな試練の始まりとなった。退屈という名の大敵と戦う、一週間の旅が――。
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