第百七十七話「工事現場の報告」
休憩中の俺に、エージェがすっと近寄ってきた。
いつもの無表情に見えるが、わずかに背筋を伸ばしている。何かあったのだろう。
「マスター。本日の工事進捗についてご報告いたします」
「おお、頼む。あいつら、順調か?」
「はい。まず、進行距離は累計で六十メートルに達しました」
「おお……けっこう進んだな。あの小さい体で、よくやるよ」
思わず口元がほころぶ。だがエージェは淡々と次を告げた。
「――ただし、三件の特記事項が発生しております」
「三件?」
俺は思わず姿勢を正す。エージェは指を一本立てた。
「第一に、落盤事故です。第十七日目、深度二十メートル付近にて発生しました。大型個体二匹が瓦礫に埋没しましたが、軽傷で済んでおります。ポッコが即座に補強を施し、再発防止策として小型個体による先行偵察が導入されました」
「……ヒヤッとするな。軽傷で済んでよかったが……。二股猫はどうしてた?」
「隊を鼓舞し、瓦礫を齧り砕いてみせました。その行為により士気は速やかに回復。全体の規律も維持されました」
「……あいつ、頼もしいな」
胸の奥が少し熱くなる。エージェは間髪入れずに、二本目の指を立てた。
「第二に、天然モグラとの遭遇です。深度三十メートル地点にて、体長三十センチほどのモグラと接触。初期は小競り合いがありましたが、二股猫の示唆により敵対は回避。モグラは自ら掘削した横穴へ退避しました」
「……モグラか。まあ、向こうからすれば不法侵入者だもんな」
「その通りです。現時点で共生の兆候はございません」
最後に三本目の指が立つ。
「第三に、蟻の侵入です。体長三センチの大型蟻、推定数百。侵入口は土砂置き場。鼠部隊が迎撃し、二匹が戦闘不能となりましたが、残存戦力で押し返すことに成功。現在は蟻の死骸を片付け、壁を補強済みです」
「蟻まで来るのか……。外界と繋がってきた証拠かもしれないな」
「可能性はあります。戦闘後、鼠たちはひげを擦り合わせて慰め合う行動を取り、結束が強化されたようです」
「……なんかもう、工事現場の職人だな、あいつら」
思わず笑ってしまった。小さな鼠たちが胸を張って働く姿が目に浮かぶ。
エージェはいつもの調子で締めくくった。
「以上が現時点での報告です。総じて計画は実行可能範囲内。引き続き、進展が見込まれます」
「了解。……ありがとう、エージェ。俺も負けてられんな」
俺は深く息を吐き、再び机上の設定画面に向き合った。鼠たちが懸命に掘るように、俺も俺の仕事を進めなくてはならない。
それにしてもなんだか最近、エージェとの距離が日に日に近くなっている気がする。もちろん、気のせいだと思いたい。……思いたいのだが、妙に胸騒ぎがするのも事実だ。
そもそもエージェはダンジョンコアを埋め込まれた存在だ。俺と同じように物質を生成する力を持っている。俺が生成したスーツを普段着てくれているのはありがたいんだが……時折、コーヒーやお茶を零しては着替えることになる。そして、その新しい服がやけに裾が短かったり、ぴったりしすぎていたりするのは気のせいなのか?
エージェ自身が自分から望んで何かを口にすることはない。俺が「一緒に飲もう」と言った時だけ、口を付ける。だから、零すという行為そのものに必然性はないはずだ。なのに……。
普段は完璧な秘書のような振る舞いをしているくせに、こういう時に限ってポンコツのようになる。……これはきっと人間味が出てきた、ということにしておこう。深くは考えまい。
「マスター、コーヒーをお持ちしました」
そんな俺の思考を打ち破るように、背後からエージェの声が響いた。
「ああ、ありがとう」
俺はモニターに視線を向けたまま応える。コーヒーやお茶は、俺が必死になって過去のデータを掘り起こして再現したものだ。コーヒー通ってわけじゃないから、再現度は正直「それっぽい」レベル。でも、それで十分だった。今の俺には、香りや味を追求する余裕はないし、ただ一息つける飲み物であればそれで満足だ。
エージェの足音が近づいてくる。最近の彼女はハイヒールを履くことが多い。これがまた、抜群に似合っている。長い銀髪、褐色の肌、モデルのような体躯に、カツンカツンと響くヒールの音。思わず視線が吸い寄せられるほどだ。
だが、難点もある。そう、バランスを崩しやすいのだ。
「マスター、こちらに置いておきますね……きゃあっ」
次の瞬間、棒読みのような悲鳴と共に、がしゃんという嫌な音が耳を打った。熱い液体が机に広がり、すぐに俺の膝へと滴り落ちる。
「……あっちぃ!?」
俺は反射的に立ち上がり、椅子を弾き飛ばす勢いで机から離れた。コーヒーの熱が下半身を直撃して、声を上げずにはいられない。
「ああ、マスター。申し訳ありません」
エージェはすぐさまタオルを取り出し、濡れた部分を拭こうと近づいてくる。……だが拭く場所が問題だった。机に座っていた俺の足の付け根、つまりは――下半身だ。
「ちょ、ちょっと待て!」
俺は後ずさりする。だが、エージェの手は止まらない。しかも妙に準備が良すぎる。間髪入れずにタオルを出すなんて……もしかして最初から零す気だったのか?
「マスター、すぐにズボンを脱いでください」
「だが、断る!」
「マスター、すぐにズボンを脱いでください。今すぐ、ここで」
「だが、断る!」
なぜか水戸黄門の印籠みたいな言い合いになってしまう。俺が必死に抵抗しているのに、エージェは両手で俺のスラックスを掴み、力強く引こうとする。信じられないほど腕力があり、振りほどけない。……やっぱりこれは確信犯だろ!?
だが、くだらないコントのような攻防戦は、意外な乱入者によって強制終了を迎えた。
『主、私が乾かして差し上げますわ』
耳元に響いた、澄んだ声。次の瞬間、下半身に心地よい温風が吹き付けられる。スラックスが一瞬で乾いていく感覚。風の精霊――アイレの力だ。
「助かった……」
俺は心底安堵の息を吐いた。湿った不快感が消え去り、火照りも収まっていく。アイレは涼しげな声で続けた。
『まったく……。もう少し注意深く行動なさってくださいまし』
「いや、俺が零したんじゃないんだが……」
反論しつつも、助かったのは事実だ。
結果――。
「…………」
エージェは「スンッ」とした無表情で立ち尽くしていた。だが、心なしか不機嫌さが漂っているように見える。……気のせいかもしれないけど。タオルを手にしたまま固まっているその姿は、妙にシュールだった。
ちなみに、机の上に広がったコーヒーは生成した物だからか、機材には影響がなかった。キーボードもマウスも問題なし。最悪壊れてもまた生成すればいいのだから、別に困りはしないんだが……問題は、どうにも不可解なエージェの行動だ。
これは果たして、ただの偶然なのか。それとも、意図的なのか。俺は心の中で大きくため息をついた。
それから数日が経って、エージェが、またすっと姿を現した。背筋を伸ばし、淡々とした口調で告げる。
「マスター。本日の工事進捗をご報告いたします」
「お、来たな。順調そうな顔してるな……いや顔は無表情か。まあいい、どうだ?」
「進行距離は八十メートルに到達しました。加えて、新たに装備品を支給しました」
「装備品?」
思わず首をかしげると、エージェは静かに頷く。
「はい。二股猫及び鼠部隊全員に――ヘルメットを配布しました」
「……は?」
脳裏に、ちょこんとした鼠が黄色いヘルメットをかぶって、行進する姿が浮かんでしまった。俺は額を押さえる。
「なんでまたそんな……」
「落盤事故の再発防止の一環です。ヘルメット着用により、軽度の落石では負傷を避けられます。作業効率に影響はありません」
「……いや、効率どうこうより、見た目が完全に工事現場なんだが」
「その通りです」
エージェはごく真面目に頷いた。冗談ではなく、事実として受け止めているらしい。
「さらに、作業区域の入り口に新たな標語を掲示しました」
「標語?」
「はい。『安全第一』と記されております」
「……」
俺は天を仰いだ。
鼠たちがヘルメットをかぶり、『安全第一』の札の下で仕事している姿が、あまりにも容易に想像できる。
「なお、作業開始前には『危険予知活動(KY)』を実施しております」
「……ちょっと待て。お前、それどこで覚えた?」
「データベースより。工事現場における安全意識向上活動と定義されております。具体的には、掘削開始前に『本日の危険要素は落盤』『対策はヘルメットと声掛け』などを唱和しております」
「唱和!? 唱和までしてんのか!」
「はい。二股猫が号令をかけ、『ヨシ!』と全員で発声しております」
「…………」
俺は無言で顔を覆った。
笑うべきか、感心すべきか、判断がつかない。
「結果、事故件数は減少。作業効率はむしろ上昇しております」
「……まあ、いいんだけどな。いいんだけど……なんだろう、この気持ちは」
鼠たちが真剣に安全会議をしている姿を想像したら、胸がじんわり温かくなる。彼らはただの魔物生成の産物じゃない。今や、立派な仲間であり、工事の同志だ。
「以上が報告です。なお、ヘルメットの色は黄色に統一しておりますが、二股猫のみ赤色です」
「……現場監督かよ」
俺は思わず吹き出した。
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