第百六十九話「拠点」
魔力を取り戻したエージェは、まるで機械仕掛けのように迷いなく、ダンジョンの修復へと作業を進めていった。
俺が最初に着手したのは、このコアルームの改装だった。というのも、ダンジョンの最深部にありながら、あまりにも殺風景で、ただの石室と呼ぶのも躊躇うような味気なさだったからだ。どうせここを拠点に過ごすなら、少しでも人間らしい生活の場にしたい。
「壁は……そうだな、白い土壁にしよう。床は木目調で。天井も白で統一だ」
頭の中に浮かんだイメージを、エージェに伝える。指示を出すと彼女は即座に従い、岩壁は滑らかに変化していった。天井から吊り下げられた白い照明が淡い光を放ち、どこか懐かしい空間が広がっていく。ベッド、机、椅子、棚、そしていくつかの食器類。さらにトイレと小さな風呂、それに簡易的なキッチンまで備え付ける。
気が付けば、それはまるで日本のアパートの一室のようになっていた。俺の記憶に焼き付いている、ごく当たり前の生活空間だ。
「……なんか、本当にアパートみたいだな」
『少し不思議な趣の部屋ですわね』アイレがしげしげと壁を見回し、口元に微笑を浮かべる。
『うん……でも、落ち着くよねー』シュネが照明の下に手を伸ばし、きらきらした目で呟く。
『ん』ポッコは相変わらず言葉少なに、しかし満足そうに床を軽く叩いていた。
精霊たちもどうやら気に入ったようだ。俺にとっても、これは大きな安心だった。ここに来てからずっと緊張と危機にさらされ続けていた心が、ようやく柔らかいクッションに沈み込むように落ち着きを取り戻す。
そして何より俺を震わせたのは――食料の存在だった。
「まじか……!」
そこに用意されていたのは、シンプルなパンだけ。それでも俺にとってはこの上ないご馳走だった。飢餓耐性スキルがレベル3に達していたため、食べなくても行動に支障はない。だが、だからといって空腹感が完全に消えるわけではない。食べなくても生きられることと、食べたいという欲求は別物だ。
パンを手に取る。表面は硬めだが、噛めばふわりと小麦の香りが広がる。およそ二か月ぶりの食事――その重みは言葉では言い尽くせない。
「うま……! うま……!」
涙が出そうだった。本当に、それほどまでに心と体が飢えていたのだ。もし普段通りの食卓であれば、味気なく思ったかもしれない。けれど、この状況での一口は、どんな高級料理よりも心に沁みた。
満たされると、不思議と周囲を見る余裕が出てきた。ダンジョンは回復しつつあり、元の姿を取り戻し始めている。ということは、魔物も再び生まれ始めるということだ。
灰色の岩迷宮に現れる魔物は獣と虫。少なくとも、瘴気に染まった怪物じみた存在ではなく、本来の範疇に収まる。俺は小型の魔物なら徘徊を許可することにした。
「鼠と蛇、ムカデにサソリか……」
魔物は大体二十センチから三十センチくらいの大きさ。外見は灰色で、赤い目。それ以外は普通に自然界にいそうな見た目だ。
砂鼠と砂蛇、岩ムカデに石サソリ。ネーミングは石とか砂とか、本当にこのダンジョンに特化した魔物たちだ。
そんな魔物たちだが、実際に通路で遭遇してみると面白いことに気づいた。魔物はこちらに襲い掛かることなく、そのまま素通りしていくのだ。
「本当に、ダンジョンマスターには襲い掛からないんだな」
『主に牙を向くことはありませんわ』アイレが言う。
少し試しに近づいてみても、牙を剥くどころか、存在すら認識していないかのように通り過ぎる。これはありがたい仕様だ。
ただし、ひとつ残念なこともあった。試しに砂鼠の魔物を狩ってみたものの、その肉を食べようとした瞬間、体は淡く光を放って霧散してしまった。肉体が魔素だけで構成されているから、食べることはできないのだ。
ダッジたちが以前ダンジョンの話をしてくれたときのことを思い出す。魔物は霧のように消えてしまうと。
でも確かダンジョンの魔物も時間が経てば肉体を得ることができるとも聞いたような気がする。
「ダンジョンの魔物が肉体を得るには、どれくらいの時間が必要なんだ?」俺はエージェに尋ねる。
「お答えします。マスター。魔物が肉体を得るには、まずダンジョンから出る必要があります。そして、外界で有機物を取り込み、さらに一定以上の時間を外で過ごすことが条件です。平均値としては、生まれてから十・八五年で肉体を獲得するというデータがあります」
「十年以上……随分とかかるんだな。じゃあ、最短記録は?」
「最短では、九か月十二日六時間。個体は蛇型の魔物でした」
「九か月……」
想像してみる。もし肉を食べたければ、九か月待つ必要がある。そこまでして魔物の肉が食べたいか……? しかも現状このダンジョンではその希望が全くない。外界の有機物を取り込むことができないから。
だが、ひとつ安心できる情報もあった。瘴気の中に無数に潜んでいる魔物たち――あれらが肉体を得る可能性は極めて低いというのだ。なぜなら、有機物、つまり動物や植物がほとんど存在しない環境だから。条件を満たせない以上、彼らは永遠に霧のような存在であり続けるだろう。
「それに、人間の張る結界も一応は機能しているとのことです。小型の魔物や肉体を持たない魔物には効果が低いですが、肉体を得た個体に対しては大きな抑止となります」
なるほど。瘴気の海に漂う影たちが現実に歩み寄ることは、まずないというわけか。少なくとも、今の俺が恐れる必要はない。
改装された部屋で椅子に腰かけ、まだ口の中に残るパンの余韻を噛みしめる。こうして一息つくのは、いつ以来だろうか。三週間もの間、ただ生き延びるために走り続けてきた。だがようやく、生活の輪郭を取り戻せそうな気がする。
もちろん、これからやるべきことは山積みだ。だが、ほんの少しでも休息を得られるなら、それは大きな前進に違いない。
拠点を得た俺はまずはダンジョン内の掃除にとりかかった。
とりわけ、低層階の修復を主に。深層から通路を修復し、大穴を塞いでいく作業だ。
もちろんその際には瘴気と魔物の除去が必要となるので、俺が所謂掃除役を担っている。
ただ、ダンジョンの修復も一朝一夕でできるわけではない。俺は低層とコアルームの往復でそれなりの時間を割かねばならなくなった。
「低層階までの直通通路を作ったとはいえ、なかなか時間はかかるよな……。特に行きで」
『そうですわね。帰りはただ落ちればいいのですが』
直通通路は、いうなればところどころに突起のある、ただの縦穴だ。
ダンジョンマスター専用の通路ということで、暫定的に設置した。
低層に行くのにはアイレに上昇気流を起こしてもらって、竪穴の突起部に足をかけて登っていく。帰りは落ちるだけ。落ちるときはもちろんアイレにお願いして着地させてもらっている。
「この世界には、瞬間移動の魔法とかないのか?」
『あるにはありますよー。ただ、生物はできませんー』
『ん。魂がおかしくなる』
何気なく言ったことだが、あるにはあるらしい。
しかし生物はダメなのか……。
ポッコがさらっと怖いことを言うが、理由はその言葉がすべてなのだろう。
「……魂が壊れるって、どうなるんだ?」
『その人がその人じゃなくなってしまいますわ』
『人は狂っちゃうと思いますー』
『ん。滅茶苦茶』
明確な答えはなかったが、とにかくやばいことはわかった。
そんな会話をしながら、コアルームに帰着する。
「おかえりなさいませ、マスター」
「ただいま」
鉄の扉を開けると聞こえてくるのは、エージェの声。
一見アパートのような部屋を背景に、その一言だけで不思議と心が温かくなるから不思議だ。
俺は徐にベッドに腰を下ろしてエージェを見やる。
「とりあえず、今日は一層目の穴は塞いだってことでいいのか?」
「はい。まだ二層から四十七層まで大穴が貫通していますが、内部に取り残されている瘴気、魔物も問題なく除去できるでしょう」
「それは良かった。これで少しは落ち着けるか……」
「お疲れ様でした」
そのねぎらいの言葉に、少しだけ俺の肩の荷が軽くなったような、そんな気がした。
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