第百六十八話「魔力の充填」
「さて、今後の方針だ」
俺は深く息をつき、胸の奥にたまった澱を吐き出すようにしてから、エージェへと向き直った。
最奥――ダンジョンコアルーム。名をそう呼ぶにはあまりにも殺風景な石の間で、俺たちは向かい合う。
「はい、マスター」
銀糸のような髪が淡く揺れ、エージェは静かに答えた。声音には相変わらず温度がない。けれど、その褐色の頬をかすめる微細な影の動きが、彼女がただの器械仕掛けではないことを告げているように思えた。
「まず、最終目標は……俺の地上への帰還だ」
言葉にした途端、胸の奥にずしりと重みがのしかかる。俺は逃げるだけじゃない。帰らねばならない。
「そして――ダンジョンの復活だ」
その一言に、エージェのまぶたがわずかに震えた。ほんの一瞬、感情の影が走ったように見えたのは気のせいだろうか。
「……承知しました」
「ただし、俺にとってはダンジョンの復活は副次的なもんだ。だが……エージェにとっては、そうじゃないだろう?」
問いかけると、彼女はわずかに目を伏せた。銀色の瞳が、硬質な光を失い、思考の底に沈む。
「……はい」
かすかな肯定。ほんのそれだけの言葉が、彼女にとっての真実を雄弁に物語っていた。
俺は唇を噛む。瘴気のあふれ出た地上、魔物の跋扈する荒野。なぜ、あんな災厄が起きたのか。俺が問いを投げかけると、エージェは間を置かずに口を開いた。
「原因は――『千里』ハルガイトです」
無機質な声。だがその名を聞いた瞬間、俺の脳裏にはあの狂気じみた瞳が鮮烈に浮かぶ。
「ハルガイト……あいつか」
ダンジョンに対する盲執。浄化の魔法に向けられた異常な執着。奴は冒険者でも学者でもない。ただの狂人だった。そう断じざるを得ない。
俺が低く吐き捨てると、エージェは小さく瞬きをし、言葉を継いだ。
「まず、私について説明します」
「エージェ自身のことを?」
「はい。この肉体は、ハルガイトによって用意されたものです」
その告白に、思わず息を呑む。
「どういうことだ?」
問い詰める俺に、彼女はまっすぐ視線を返した。金の瞳が、鏡のように俺を映す。
「この体の持ち主だったダークエルフの少女は……ハルガイトによって、強制的にダンジョンコアを埋め込まれました。その結果、精神は発狂し、人格は崩壊。ダンジョンそのものが暴走し……瘴気と魔物を地上へとあふれさせたのです」
乾いた石壁に響く声は、あまりにも冷ややかで、あまりにも淡白だった。
「……エージェは、その少女の記憶を継いでるのか?」
「断片的に。ですが、多くは失われています。出自や家族……すべて、今では霧の中です」
彼女は淡々と答えながらも、指先が無意識に胸元を握りしめていた。褐色の手の甲に、白い爪が食い込む。
「……誘拐、されたのか」
「推測ですが……恐らくは」
「人体実験……ってことか」
「……はい」
唇の奥から、熱いものがせり上がってくる。怒り。憤り。だが、それだけで世界を立て直せるわけじゃない。
「奴の狙いは何だった? ただの実験じゃないはずだ」
問いかけると、エージェはわずかに首をかしげ、思索を挟む仕草を見せる。
「恐らくは――ダンジョンの完全掌握」
「完全……掌握?」
「はい。ダンジョンマスターとなっても、すべての権限を得られるわけではありません。利用はできても、支配はできない。……ハルガイトは、もっと上位の権限を望んだのです」
淡々とした声。けれど、最後にわずかに言葉が揺らいだ。
それは彼女自身が、その“支配”という言葉に怯えを覚えているからではないか――そんな気がして、俺は無意識に拳を握りしめていた。
「……ともあれ目下、現在の問題は、私の魔力不足です」
「エージェ、というよりは、ダンジョンのか?」
「はい」
現状、ダンジョンコアの魔力リソースは空に近い。瘴気と魔物にすべて注ぎ込まれ、今は残滓すら乏しいという。ある程度自由に機能させるには膨大な魔力が必要だ。だが、魔力は空から降ってくるものではない。
「ダンジョンの魔力は魔素から生成されます。そのリソースを確保するには外部から生物や物質を取り込む必要があります。しかし今はそれができない状況です」
通常稼働しているダンジョンなら、侵入者の魔力や物質を取り込んだり、自然に流れ込んでくる大気中の魔素を吸収したりして補填できるらしい。
「瘴気と魔物が邪魔、ってわけか」
「はい。しかし……」
エージェは一度、言葉を切った。その銀の瞳がこちらをまっすぐ射抜いてくる。機械的なはずの視線なのに、どこか熱を帯びているように錯覚する。
「しかし、マスターならば……魔力を満たすことが可能かもしれません」
「俺なら……? どういうことだ?」
「マスターの魔力を、私に直接与えていただければ。コアを通じて魔力の補充が可能です」
……なんだか、急にエロ漫画みたいなセリフを言い出したぞ、この子。
「さあ、マスター。マスターの魔力をどうぞ私に」
すっと彼女が一歩、こちらに身を乗り出してくる。長い銀髪がさらりと流れ、褐色の肌の上に光の粒子が反射して瞬いた。美しい……いや、そうじゃない。状況を冷静に考えろ、俺。
「え、いや、その……」
俺が一歩後ずさると、エージェもまた一歩踏み出す。
「さあ」
「ちょ、ちょっと待て」
気付けば俺は壁際まで追い込まれていた。崩れかけた岩壁の冷たさが背中に触れる。逃げ場はない。エージェの銀の瞳が、距離ゼロで俺を見据えていた。
そしてエージェが口を開く。
「さあ、マスター。私のコアに、魔力を」
そう、コアに魔力を流し込め、と――。
「――ん? コアに?」
「はい」
そう言ってエージェが示したのは、自らの胸に埋め込まれた白いコア。そこからはかすかな光が漏れ、今にも消え入りそうに揺らめいていた。
「そのコアに、俺が触れて、魔力を注げばいいのか?」
「はい」
なんだ、俺の脳味噌が勝手にいやらしい方に解釈してただけか。完全に妄想じゃないか。
……エロ漫画な脳みそは俺のほうだったみたいです、
触れながら魔力を流すだけ。理屈はシンプルだ。俺は人一倍……いや、恐らくはチートのおかげで規格外の魔力量を持っている。いくらでも彼女に魔力を流すことはできるはずだ。
「わかった。じゃあ、やってみるぞ」
俺は慎重に手を伸ばし、彼女の胸元のコアにそっと触れた。ひんやりとした感触。その中心に、微かに脈打つ生命のようなものを感じる。
「……いくぞ」
まずは恐る恐る、弱く。魔力を指先から送り込む。
「マスター、その調子です。魔力が流れてきています」
静かな声。けれど、わずかに柔らかさが混じっていた。
「……もう少し強くでも、大丈夫か?」
「はい、問題ありません」
その言葉を信じ、俺は流す魔力量を少しずつ増やしていく。コアの白い輝きが、ほんのりと強まった。
「マスター。問題ありません。魔力が……ん。流れてきて……います」
エージェの様子が変わってきた。言葉が途切れ途切れになり、声にわずかな震えが混じる。銀の睫毛がかすかに揺れ、頬に朱が差したように見える。
……なんだか、嫌な予感がしてきたぞ?
無表情のエージェは、やはりどこか機械的だった。言葉の一つ一つが定型文のように滑らかで、抑揚もほとんどない。俺が何を問いかけても、彼女は短く答えるだけで、そこに感情の揺れは見えなかった。
ただ――俺の魔力を送り込むたびに、エージェの頬が赤らみ、どこか耐えるように身を震わせているのが分かった。明らかに反応しているのに、それでも顔は無表情のままだ。まるで心と身体が噛み合っていないみたいに。
「……大丈夫か?」
つい声をかけると、彼女は一拍置いてから答えた。
「大丈夫です」
その声もどこか硬い。俺は訝しみつつも、それ以上追及することをためらった。が――。
「……マスター。もっと強くしても……んん! 大丈夫、です」
息を詰めるように言い切るエージェに、俺は思わず目を瞬かせた。
「……本当に?」
「ん……! はい」
大丈夫だと言い張るので、俺はさらに力を込めた。だが正直なところ、俺自身が彼女の反応に目を奪われていた。無表情でありながら、身体は小さく身じろぎを繰り返し、呼吸は荒くなっていく。そのギャップが、俺の中で妙な好奇心を刺激していたのだ。
「あ……あ……!? マスター、魔力が流れてきています。休息に流れてきています……!?」
エージェの胸元――そこに埋め込まれたコアが眩しく輝きを放ち始める。淡い光が次第に強くなり、やがて閾値を越えたかのように明滅を繰り返す。
「ん……っ、あ……!? ああぁ……!? これ以上は、過剰です!? 過剰デス!? あ、ああぁあああ!?」
「や、やば!?」
俺は慌てて手を離した。直後、エージェの身体がビクンと大きく震え、そのまま糸が切れた人形のように座り込んでしまう。
『主、やり過ぎですわ……』
アイレが呆れた声を響かせる。
『あふれ出てましたー』
今度はシュネがのんびりと、けれど確かな指摘をする。
『ん』
最後にポッコまで短く同意した。三者三様に突っ込まれて、俺は肩をすくめるしかない。
「……ごめん」
俺の言葉に、精霊たちはそれ以上責め立てることはしなかった。ただ静かに見守っている。しばしの間、場にはエージェのかすかな呼吸音だけが満ちていた。
やがて――。
「……再起動しました」
小さな呟きと共に、エージェの瞳が再び開く。ゆっくりと立ち上がると、彼女は俺の前で深々と頭を下げた。
「マスター、ありがとうございました」
相変わらず表情は変わらない。だが、その仕草には確かに礼が込められていた。
「えっと……やり過ぎたかもしれない。すまなかった」
俺は頭を掻きながら謝罪の言葉を口にする。
「いいえ。確かに供給量は過剰だったかもしれませんが、おかげで魔力は満たされました」
「そ、そうか」
彼女が平然とした声でそう告げると、俺は胸をなでおろした。が、その直後――。
「またお願いいたします」
「また!?」
エージェはまるで当たり前のように言い放った。その無機質な声音に驚きつつも、俺は言葉を失う。だが、本人が必要だというのなら否定する理由もない。
ただ。
もしかして、あの反応がクセになったりはしないだろうな……?
無表情のまま立つエージェを見つめながら、俺はそんな不安を胸の奥に押し込む。
「……とても、良かったです……」
エージェのそんな言葉は、俺には届かなかった。
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