第百六十六話「コアとマスター」
目が覚めた。深い水の底からゆっくりと浮かび上がってくるように、意識が形を取り戻していく。重たいまぶたを押し上げた瞬間、光が差し込み、視界が白く滲んだ。
光は蛍光灯のような、どこか懐かしい、人工的な光。
『主、大丈夫ですか?』
『主、目覚ましましたー』
『ん。良かった』
ぼやけた視界に映り込んだのは、見慣れた三つの小さな姿。アイレ、シュネ、そしてポッコだった。心配そうに、けれど安堵した顔で俺を囲んでいる。
「……ああ」
俺は頭を押さえながら身を起こした。身体の節々が重い。夢を見ていたのだ。
ハタノの声が、笑顔が、あまりにも鮮明に甦る。くだらない話をして笑っていた、あの日本の日常が。胸の奥がじんわりと痛んだ。
あいつ、そういえばあんな顔してたっけな……。
少し悪ぶったところもあったけど、基本的に嘘をつくことができない正直者。
背は高いのに態度は低い、表しかないようなやつだった。
余韻に浸っていたそのとき、不意に聞き覚えのない声が耳を打った。
「目を覚まされましたか、マスター」
女性の声。
だが柔らかさの裏に、どこか張りつめた緊張感を帯びている。俺は思わず顔を上げ、声の主を探した。
視線の先に立っていたのは、あのダークエルフの少女だった。
でも何かが違う……。
「君は……」
「私を解放してくださり、お礼を申し上げます。マスター」
少女は深々と頭を下げた。その髪は以前の灰色ではなく、月光を思わせる銀色に変わっている。肌は相変わらず褐色のまま。しかし胸に埋め込まれていた魔石は、今や真っ白に澄んだ光を放つムーンストーンのような綺麗な色合いへと変わっていた。
顔を上げた彼女の相貌は息を呑むほど整っていた。銀色の瞳が俺を真っ直ぐに見つめる。どこか異国めいた、エキゾチックな美しさ。
視線を逸らした先、彼女の身体には光沢のある黒の衣服が纏われていた。裸ではないことに、正直ほっとする。
だが同時に気づいてしまう。衣服越しでも隠しきれない胸の豊かさに。
……いやいや、落ち着け。
どこからそんな服を調達したのか疑問に思いつつ、俺は努めて平静を装い口を開いた。
「……目が、覚めたんだな」
「はい、マスター」
「体調に問題はない?」
「はい、マスター」
受け答えはしっかりしている。言葉も通じる。それ自体はありがたい。だが――。
「……ごめん、その“マスター”ってなに?」
素直な疑問を口にする。何故彼女が俺をそう呼ぶのか。
少女は迷いなく答えた。
「マスターとは、貴方がこのダンジョン『G184N987E478』――通称『灰色の岩迷宮』の管理者であることから、その呼称をさせていただいております。マスター」
「……なんて?」
一瞬、理解が追いつかない。だが彼女の言葉を繰り返すほどに、俺は思考を停止した。
「貴方がこのダンジョン『G184N987E478』――通称『灰色の岩迷宮』の管理者であることから、その呼称をさせていただいております。マスター」
「ダンジョンの、管理者? 俺が?」
「その通りです」
……俺が、ダンジョンの管理者?。
呆然と呟く俺に、アイレが横でふうっと息を吐いた。
『ですわね。主の魔力の流れが、この迷宮と完全に同期していましたもの。つまり、主は本当にこの場所を掌握した、ということですわ』
『うん。私も見たー。主の光が、この迷宮の奥まで届いてましたー』
『ん。根まで、繋がった』
精霊たちが口々に補足する。
俺がやったことといえば、ダンジョンのボスを倒して、目の前の少女の胸の魔石を浄化したこと。
「いやいや……嘘だろ」
呟いた言葉は、自分でも情けないほど頼りなかった。しかし少女――いや、元・囚われのダークエルフは真剣な眼差しで言葉を重ねる。
「マスター。貴方が新たな管理者として選ばれたことに間違いはありません。どうか、この迷宮を導いてください」
選ばれた? 導く?
俺はそんなつもりは毛頭なかった。ただ生き延びるために戦っただけだ。けれど結果は、俺をここへと押し上げてしまったらしい。
「……本当に、俺が?」
「はい、マスター」
銀色の瞳が一切の疑いなく頷いた。その純粋さに、俺の心は揺さぶられる。まるで、すでに全てを託す覚悟を決めた者の眼差しだった。
「君は……?」
「私は、ダンジョンコア――『G184N987E478-C』……を埋め込まれた存在です」
「埋め込まれた?」
「はい」
その一言に俺は息を呑んだ。
少女が……いや、このダークエルフの少女そのものが、ダンジョンの核だというのか。
「……人間じゃ、ないのか?」
「わたくしは人として生まれました。ですが、その記録は断たれました。今の私は器にすぎません」
冷静に告げる口調の奥に、わずかに沈んだ色がにじんでいた。
「名前は?」
気が付けば、俺は問いかけていた。
少女は一瞬きょとんとした顔をしてから、小さく首を振る。
「……ありません。記憶は……コアを埋め込まれる以前のものは、消失しています」
静かに告げられたその言葉は、妙に重く胸に沈んだ。
彼女は名前も、過去も、すべて失っていた。ダンジョンに囚われ、ただコアの器として存在するしかなかった。
――俺もまた、この世界に来たときはすべてを失っていた。名前以外の、ほとんどの記憶を。
「……俺と同じだな」
ぽつりと呟いた言葉に、少女の銀の瞳がわずかに揺れる。数秒の沈黙ののち、彼女は小さく頷き、柔らかく答えた。
「光栄です」
どう考えても光栄な状況ではないのに、その一言に俺は思わず笑ってしまった。なぜだろう。彼女が同じだと言ってくれたことが、妙に嬉しかったのだ。
だが、名前がないのは不便だ。呼びかけるたびに「お前」「君」と言うのも、どこか他人行儀で冷たい。
しばらく考え、俺はふっと息を吐きながら言った。
「エージェ。君は今日から、エージェだ」
「……エージェ」
彼女はその音を反芻するように、何度も口の中で転がした。やがて、銀の瞳にかすかな光が宿る。
「……承認。以後、わたくしはエージェと名乗ります」
その瞬間、彼女の輪郭がはっきりとした気がした。
ダンジョンコアの器という無機質な存在から、エージェというひとりの個へ。名を得たことで、初めて彼女は自分の形を取り戻したのだろう。
エージェは落ち着いた声で、このダンジョンの仕組みを説明し始めた。
「ダンジョンコアは、所謂コンソールのようなものです。侵入者を撃退する最低限の仕組みは自動で稼働しますが……」
そこで言葉を区切り、まっすぐ俺を見つめる。
「構造の変更や新しい要素の追加といった能動的な操作は、コアそのものにはできません」
「つまり……」
「できるのは、コアの管理者――すなわち、マスターのみです」
俺は思わず息を呑んだ。
ダンジョンを変えられるのは、この少女ではなく、俺自身。責任の重さが、ずしりと肩にのしかかるのを感じた。
運営が始まったのだ。
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