第百六十三話「決着」
視界に影が落ちた。黒い皮膚、二メートルほどの巨体。しなやかで力強い四肢は人の形を模してはいるが、あまりにも歪だ。
真紅の瞳がぎょろりと輝き、真紅の瞳がぎょろりと光り、口角を引き裂くように吊り上げている。笑っているのか、威嚇しているのかすら判別できない。牙がむき出しになり、滴る唾液が床に落ちて煙を上げる。
――第二形態。
奴の腕は異様に長い。関節がひとつ多く、床を擦るほど伸びていた。指先は鋭く尖り、ひと振りで肉を容易く切り裂くだろう。足は人間と変わらぬように見えたが、油断できるはずもない。
頭部にあるのは目と口、そして髑髏のような鼻の孔。耳はなく、そこにもただ孔があるだけだった。
頭髪はない。のっぺりとした肌があるだけだった。イメージとしては、ひょろ長いグレイ型エイリアン。
赤くぎょろついた目が俺を射抜き、口がやけにゆっくりと開かれ、そして禍々しい産声のような咆哮を上げた。
「――――――ッ!!!」
地響きのような衝撃音が肺を突き抜け、鼓膜が破れるかと思う。全身が震え、膝が一瞬だけ笑った。
そして奴の巨腕が、ゆらりと持ち上がったかと思えば、一気に間合いを詰めてきた。
「速っ――!?」
空気を裂く音と共に、頭を狙った鋭い指が振り下ろされる。
「くっ!」
咄嗟に横へ飛ぶ。クェルから叩き込まれた“爆足”の真似事に、アイレの風の補助を重ね、なんとか間一髪で回避できた。振り下ろされた腕は床を叩き割り、石の破片が雨のように飛び散る。
早い。そして力は見た目以上に強力だ。
もし直撃していたら、俺の身体は粉々になっていただろう。
死闘の幕が開いた。
戦法はこれまでと同じだ。アイレが俺の動きを補助し、シュネが浄化の光を水球で増幅させ、その軌道を調整する。ポッコは黒魔鉄の剣を強化し、俺の手に馴染む形へと進化させていた。
だが、効かない。
俺が風の加速で間合いを外しても、奴は難なく追いついてくる。増幅された浄化の光を叩きつけても、まるで無視するかのように突き進む。
「やっぱり、再生してやがる……!」
浄化の光はレーザー光線のように収束されて直撃するが、表面に焦げ跡を残す程度。しかも数秒後にはそれも無くなっている。
第一形態と同じく、再生能力を持っている。
横薙ぎに振るわれた爪を剣で受け止めた瞬間、火花が散る。
「――ぐっ!? 重っ……!」
思わず剣を手放してしまうかと思うほどの一撃だった。手に伝わる衝撃が尋常ではない。
両腕の鋭い爪は金属と同じで、かなりの硬さなことがわかる。
しかもあれは奴の爪。どうにか砕くなりできたとしても、再生できてしまう可能性の方が大きい。
狙うなら足だ。けれど、そんな隙を奴が与えてくれるはずもない。
「あいつの動きを風で縛れないか!?」
『無理ですわ! 瘴気の塊そのもの! 風が届く前にかき消されます!』
「シュネ! 水で動きを止められるか!?」
『やってますけどー! 凍らせる前に溶けちゃいますー!』
頼みの綱が尽きる。焦りが胸を締めつける。
『……危ない!』
アイレの叫びと同時に、奴の右腕を避けた――はずだった。
だが、関節がもう一つ余分にある腕が背後からねじ曲がって迫る。
「なっ――!?」
咄嗟にポッコが石壁を生成。衝撃で壁は粉々に砕け散ったが、威力は確かに減衰した。頬に走った浅い切り傷と引き換えに、俺は命を拾う。
「助かった!」
『ん! 気を付けて!』
息を荒げながら距離を取る。剣先が震え、手の中の感覚が重い。
防戦一方、刃は届かない。俺の体には小さな切創が積み重なり、血がじわじわと流れ落ちていく。汗が滲み、視界がかすむ。
少しでも気を抜けば、その鋭い爪が胸を貫く。そんな極限の戦場だった。
「……くそ、打開策がない」
『主、下がって! 真正面は無理ですわ!』
『こっちに来させないでくださいよー……!』
『……次は、守り切れない』
精霊たちの声が焦りで震える。
それでも奴は止まらない。俺の剣は掠りもしない。背筋に冷たいものが走る。だが――俺には、まだ打つ手がある。
そうだ。俺には“肉体再生”のチートがあるじゃないか。
「正直、やりたくないが……」
喉奥で唾を嚥下する。やりたくはない。だが、このままでは確実に押し潰される。ジリ貧で削られ、いずれ命を奪われる未来が見える。
逃げる? そんな余地など、最初から存在しない。扉はいつの間にか硬く閉ざされ、退路を断たれていた。
心臓が高鳴る。決意が固まる。
痛みを恐れず、己の肉を差し出す覚悟を決める。肉を切らせて骨を断つ。古来より伝わる愚直な戦法。けれど、それしか勝機はなかった。
俺の意図はすぐに精霊たちへと伝わった。
「アイレ! シュネ! ポッコ! 三重障壁を頼む!」
『了解ですわ!』
『まかせて!』
『……うん』
風の膜、水の膜、そして石の膜が、重なり合って俺の身体を包む。肌にひやりとした冷気と湿り気がまとわりつき、最後に土の重みが背を押す。即席の障壁。完全には防げない。だが少しでも衝撃を殺せれば十分だ。
俺は一歩、前へ。死を覚悟してなお、前に出る。
「来いッ!!!」
赤い瞳が爛々と輝く。巨腕が唸りを上げ、空気を裂いて振り下ろされる。瞬間、障壁が砕け散り、鋭い指先が俺の腹を穿った。灼熱の杭に貫かれたかのような激痛。視界が白く弾け飛ぶ。
「ぐ、あああああッ!」
喉が裂けるほど叫び、しかし剣を振るう腕は止めなかった。
刃は黒い胸板を割り、肉を裂き、深奥へと食い込む。カエリ不在の精霊剣が低く唸り、刹那、光が奔った。
「今だ! 流せぇッ!!!」
『増幅させますわ!』
『水を通して、奥まで……!』
『……もっと硬く、大きく!』
三人の声が重なり、剣から迸る浄化の輝きが倍加していく。水を走る光が刀身をうねり、土の刻紋が回路を広げ、風が流れを加速させる。
閃光が獣の胸を内から焼き裂いた。黒い皮膚にひびが走り、赤い瞳が狂おしく揺らぐ。
だが、それでも奴は崩れない。呻き、震えながらもなお俺を睨み据える。
「まだだ……! このまま消え去れぇッ!!!」
剣を突き刺したまま、さらに叫ぶ。精霊たちが渾身の力で支え、刀身に魔力をありったけ流し込む。
光は奔流となり、焼き尽くさんと暴れ狂った。
「喰らえええええええッ!!!」
奴が絶叫した。顎が外れるほどに大きく開かれ、俺ごと喰らおうと迫る。灼熱の吐息が顔にかかる。皮膚が焼けただれる。
もうこなったら我慢比べだった。
どちらかが先に力尽きるかの。
「あああああああああッ!!!」
果たして、俺は勝った。
耳を劈く絶叫。赤い瞳が爆ぜ、黒い巨体が崩れ落ちていく。皮膚は灰となり、肉片は光に呑まれ、舞い散り、やがて闇に溶けて消えた。
――静寂。
俺は荒い息を吐き、剣を地面に突き立てた。膝が笑い、腹から血が滴る。
だが、すぐに再生が始まる。肉が閉じ、血が止まり、激痛は次第に薄れていく。己が人でなくなっていくような感覚に戦慄しながら、それでも助かったことに安堵せずにはいられなかった。
「……やった、のか」
震える声が広間に響く。
もはや敵の影はなく、灰が風に舞うだけ。
安堵の刹那、力が抜ける。
重力に引かれ、意識ごと暗闇へ落ちていった。
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