第百六十一話「迷宮の奥底へ」
この迷宮に落ちてから更に十日が経過した。
日付はスマホで確認できる。時間の感覚が狂いそうになっても、秒針を刻む音が現実を繋ぎとめてくれる。
とはいえ、相変わらずの状況だ。見渡す限り灰色の石の壁と溜まった瘴気、そして得体の知れない魔物。出口らしい出口は一向に見えない。
そんな中、昨日のことだ。スマホの通知音が鳴った。久しぶりのアップデートだ。
広大でどこまで広がっているかもわからないダンジョンの中。いい加減気が滅入っていたところに気持ちを切り替えるのに丁度いいものだった。
表示されたのは、オートマッピング機能の追加。
「マジか! やった!?」
まさに現在の俺が欲していた機能で、驚いて声を出してしまったくらいだ。
マッピング機能は、俺が歩いた道を自動的に地図に起こしてくれる。つまり探索の履歴を逐一記録してくれるわけだ。これはもう使うことはないだろうと諦めていたスマホのマップ機能に、まさかこんな形で再利用されるとは。
異世界チート万歳だ。
ちなみに現在はダンジョンの情報しか当然表示されていないわけだが、外に出れば周辺地図を自動で掻き起こしてくれるものになるらしい。
これで脱出の糸口が掴める。そう思った瞬間、胸の奥から込み上げる安堵で膝が笑いそうになった。
思わずその場に座り込み、壁を背にして天井を見上げる。
『良かったですわね、主』
『これで進みやすくなりましたー』
『ん。迷わない』
ここ数日は精神的に疲弊していることを自覚していた。
精霊たちにも心配をかけてしまったことだろう。
だが、同時に考えてしまう。これだけの機能があれば、この迷宮そのものを調べ尽くすこともできるのではないか、と。特に、今回の大氾濫の原因を探ることすら。
落ちてきてから既に二週間近く。生き延びることに必死で周囲を見る余裕すらなかったが、俺はこの環境に慣れ始めていた。
スマホのスキル欄を確認すると、先日獲得した『飢餓耐性』はいつの間にかLv2に上がっている。おかげで食料が尽きても腹は減らない。水は魔法やシュネの力でどうとでもなる。となれば、ここでの滞在は長引いても致命的にはならないだろう。
ならば――。
「この迷宮の最深部を目指そう」
俺は決断した。
下へ、さらに下へ。きっと上へ出ても、あの瘴気の渦の中に出るだけだ。なら出口を探すよりも、源を辿る。そこに原因があるはずだから。
『承知しましたわ!』
『わかりましたー!』
『ん、了解』
幸い、魔物相手には浄化の魔法が通じる。いくら異形で不気味な連中でも、光速を超える動きなどできない。浄化の光を浴びせれば、融けて消え、濁った魔石だけが残る。
ただ、中には厄介な相手もいた。大広間のような空間に踏み込んだとき、四方から素早い魔物に囲まれた。
広すぎて浄化の光が追いつかない。仕方なく通路へと誘い込み、逃げ場を潰してから叩いた。
あのときは本当に、精霊たち三人がいてくれて助かった。アイレが風で押し戻し、シュネが水で動きを鈍らせ、最後にポッコが壁をせり上げて退路を断った。
俺の浄化はその隙に放たれた。あれは一人では到底不可能だった。
そんなふうに、一歩ずつ確実に前へ進む。時間はかかるが仕方ない。安全第一。それがこの迷宮で生き残る唯一の手段だ。
それにしても、このダンジョンはゲームでよくあるものとは全く違う。宝箱も罠も存在しない。あるのはただ無機質な迷路と瘴気、石の壁と床、そして魔物だけだ。
冷たい石造りの通路を歩くたび、どこまでも同じ景色が続く錯覚に囚われる。
「宝箱のひとつでもあれば、精神的にも全然違うんだけどな……」
進んでも進んでも、目に入るのは灰色の通路、もしくは部屋。
『主、この先に下へ下る階段がありますわ』
「了解、じゃあ行くか。……次は地下30層か」
スマホのマップを確認すると、どれだけ潜ったのかが確認できる。
しかし、あくまでも自動マッピング機能が追加されたときからの情報でしかないから、現状どれくらいの位置にいるかまではわからない。
それでも、現在位置を把握できるというのはありがたいものだ。
「……なんだか、少しずつ様子が変わってきているよな?」
そして30層。
俺は階段を下りた先の景色を見て、精霊たちに話しかけた。
『確かに、通路の形状などが違っていますわ』
『斜めだったりー。小さな段差があったりー、ですねー?』
『材質は変わらないよ』
そう、それまではただ真っすぐの壁、平らな床という感じだったのに、それが歪んできているような気がするのだ。
現に今下ってきた階段も、何段か段の幅や高さが異なっている場所があり、つい転びそうになってしまった。
「やっぱり気のせいじゃないか……。何があるかわからないから、慎重に行こう」
皆に、何よりも自分自身への言葉を口にする。
精霊たちの頷きを見て、俺自身も頷き返した。
大体だが、ダンジョンを一層下るのに要する時間は、平均六時間。一時間足らずで下層への階段が見つかるときもあれば、そうでないときもある。
もうここまでの探索で、通路と部屋と魔物以外のものはないことがわかっているから、隅々まで調べてみるようなことはしなかった。
「これがゲームなら、確実に全フロアを調べつくすんだけどな……」
取り忘れなどのアイテムがあったら嫌なタイプなのだ、俺は。
下へ下へ――。
やはり深部へ潜るにつれて空気が変わっていった。壁に不気味な模様が刻まれ、地面からは異形のオブジェクトが突き出ている。触れると蠢くような感触があり、思わず手を引いた。まるで、誰かの悪夢の中に迷い込んだようだ。
『……嫌な感じですわね』
アイレが風の音をまとわせながら周囲を警戒する。いつも冷静な彼女ですら緊張を隠さない。
『水溜まりがありますけどー……。重いですー……。濁ってる感じで最悪ですー……」
シュネは通路に時々ある水たまりに不快感を示している。壁や床の隙間からじわじわと水気が染み出しているが、それは澄んだものではなく、どこかどす黒く粘性を帯びていた。
ポッコは何も言わない。ただ一歩、俺の前に立つ。その沈黙が逆に心強い。
「ヒヒヒヒヒ……!」
時折こうして、魔物の声がダンジョン内に響く。
深部には、こうして奇声をあげる魔物も増えてきた。
『主……まだ遠いですわ』
「……わかってるけど、まじでやめてほしい」
直接的な被害はないが、心臓に悪すぎる。
俺は彼らに周囲を固めてもらいながら歩を進めた。
もし精霊たちがいなければ、俺の心はとうに折れていた。
二週間以上も地下を彷徨い続け、太陽の光を見ることもなく、ただ不気味な通路を歩き続ける。普通なら気が狂っていてもおかしくない。それでも俺が進めるのは、隣に寄り添ってくれる存在があるからだ。
深部へと潜るたび、スマホのマップは少しずつ広がっていく。無機質な線で描かれるその図は、確かに俺たちの足跡だ。未知の空間を切り拓いている証。その光に縋るように、俺は下へ下へと進む決意を固めていった。
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