第百六十話「瘴気の迷宮」
それから、もう五日が過ぎていた。
このダンジョンの中をさまよい続け、地上の空気を吸うことなく過ごして、ようやく五日。
俺のスマホの表示で日付と時間を確認しているから間違いはない。文明の遺物ともいえるこの機械がなければ、きっと時間の感覚なんてとうに狂っていただろう。
地上に残してきた仲間のことが、どうしても頭をよぎる。特にカエリだ。何度も念話を試みたが、一度も繋がらなかった。
距離の問題か、それともハルガイトの馬車の魔法を封じる魔道具のように、瘴気が通信を妨げているのか。俺の推測では後者だ。あの重苦しい空気の中では、声どころか、光すらまともに届かないのだから。
外の様子を確かめたくても、それは叶わない。だから、今はひたすらに地上へ戻るため、出口を求めて歩を進めるしかなかった。
幸いなことに、通路には瘴気が満ちていない場所もある。それに浄化の魔法で一度空間を清めれば、しばらくは澱んだ気配が戻ってこない。休息が取れるのは大きな救いだった。精霊たちも、瘴気さえ払われればある程度の力を使える。小さな灯火や水を出す程度なら問題ない。暗闇と乾きの中で、その存在は心強かった。
――とはいえ、最大の問題は魔物だった。
初めて遭遇したときのことを思い出すと、背筋がぞわりと粟立つ。
暗闇の中から、ぐじゅり、と肉を擦り合わせるような音がしたかと思えば、灰色の小型の魔物が通路を這い出してきた。形容しがたい不気味さ。人型の影を無理やり肉塊に押し込めたような、悪夢じみた生き物だった。皮膚のようなものはなく、ぶよぶよとした肉の塊がそのまま歩いてくるような姿。長さは一メートル、せいぜい二メートルほど。だが数が多く、通路を埋め尽くすように現れた。
とどめに、一度は天井を見上げた瞬間、そこにびっしりと魔物が貼りついていたのだ。大小様々な灰色の肉塊が、無数の目玉をぎょろりと動かし、同時にこちらを見下ろしていた。思わず心臓が止まるかと思った。あのときの衝撃は、軽くトラウマ級で、今でも瞼の裏に焼き付いている。
あのとき俺は、反射的に浄化の魔法を放った。
白光が爆ぜ、奔流となって通路を満たす。肉塊の群れは一斉に痙攣し、悲鳴とも風音ともつかぬノイズを立てながら、音もなく蒸発するように消えていった。残ったのは無数の白く濁った魔石だけ。床にぱらぱらと落ちる音がやけに耳に残った。
そのとき、ようやく確信した。浄化は、ここでは最も有効な手段だと。
ただし、浄化を使わず剣で斬り伏せた場合、魔石は灰色のままだった。灰色の魔石に浄化を施すと、やはり白濁へと変化する。つまり灰色の魔石には瘴気が含まれている。魔物もまた瘴気の産物であり、それごと浄化することで、ようやく安全な形になるのだろう。
魔物の姿は本当に様々だった。
丸い肉塊から手足や目、口が突き出したもの。虫のようで獣のようなもの。ふわふわと漂うクラゲのような存在。壁に張り付いて蠢く無数の眼球。どれもこれも、人間の嫌悪感を直撃する。見た瞬間に吐き気を催し、背筋が凍る。まるで「生きた異物」としか言えない存在。
一度は、地上で遭遇したグレイアームズの亜種とも出くわした。あのときは通路を塞ぐように立ち塞がり、腕を振り下ろしてきた。だが浄化の光を浴びせた瞬間、ずるりと溶け崩れるようにして消滅した。以前の戦いを思えば、この魔法があればもっと楽に討伐できていたのだろう。少し複雑な気持ちになる。
『主、この先の曲がり角に、魔物が潜んでいますわ』
アイレが風で周囲の索敵を担当してくれている。
お陰で奇襲にあうことはない。
「了解、どんな魔物かわかるか?」
『体長一メートルほどの、六足歩行の、獣に似た姿の魔物ですわ』
アイレの言葉にその姿を想像する。
六足って聞くと虫みたいなのかと思ったが、でも獣に似ているという、よくわからない姿をしているらしい。
通路の角では、あいにく浄化の光は届かない。
そしてその魔物が姿を現した。
「……確かに、間違ってはいないけどさ」
思わずそう零すには、理由がちゃんとある。
六足歩行……。確かにそうだろう。その通り、足は六本ある。ただしその上には腰の部分があり、胴体があり、腕が二本生えている。
首から上は犬のようだが、目は並んで四つ――。
「――シャァ!」
俺の姿を見つけた魔物が口を大きく開けて威嚇してくる。
――訂正、目は全部で六つだった。開いた口の中に、子供のような顔が隠れていたのだ。
大きな口の中の能面のような顔。でも口は避けていて、無数の牙がそこに生えている。
ちなみに色は灰色だ。
このダンジョンに出てくる魔物はみんな灰色だった。
「……キモ! 『浄化』」
すぐに浄化の魔法を発動。
俺の手からは太い浄化の光が発せられ、それを浴びせられた魔物は甲高い悲鳴をあげながら消えていった。
残されたのは、白濁の魔石がひとつ。
白濁の魔石は、まだ飲んでいない。
生理的に受け付けない見た目の魔物から出てきた魔石だ。どうしてもそれが頭をよぎり、喉が拒否してしまう。
水は何とかなる。俺自身の魔法でも作れるし、シュネが水を出してくれる。問題は食料だった。
だが、不思議なことに腹は減らない。喉の渇きはあれど、胃袋は空腹を訴えてこなかった。
――これはどういうことなのか。
極限状態の中で俺の体が変化しているのか。瘴気に侵されておかしくなっているのか。それとも、例の“チート”による影響なのか。疑念が頭をよぎり、試しにスマホの画面を開いた。
するとステータス欄に、見慣れない文字があった。
『飢餓耐性(Lv1)』
……やっぱりか。
苦笑が漏れた。こんな状況で笑っていられるのもおかしいが、どうしようもない。
食わずとも動ける。飢えに屈することはない。それだけで、生き延びられる可能性は大きく上がる。
チートとは、本当に便利なものだ。
だが――。
便利であればあるほど、俺はどこかで怖くもある。人間をやめていくような感覚。俺が俺でなくなっていくような感覚。それを、胸の奥底に抱えたまま、また歩き出すしかなかった。
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