第百五十八話「暗闇の底」
本話から、四章に入ります!
――音が無かった。
響きも、反響も、ただ沈黙だけが支配している。
――光が無かった。
灯したはずの光は、ひと息のうちに闇へ呑まれる。
手を伸ばしても届かぬ、厚い幕のような黒。
ここはどこなのか。
荒廃した大地の果てなのか。
滅んだ都市の上なのか。
はたまた深い穴の底なのか。
問いかけても応えはなく、答えは闇の中に沈んでいく。
ただひとつ確かなのは、この暗黒が生きているということ。
瘴気は濃く、淀み、まるで意志を持つかのように蠢いている。
この場所は海に似ている。
光さえ届かぬ、深海の底。
冷たく、重く、押し潰すような圧力が胸を締め付ける。
ただ降っていた。
風の精霊であるアイレのおかげで、落下するというより、緩やかに降りている。
これが自然のままに落下していたら、俺はぐしゃりと潰れてしまうだけだろう。
「……にしても、真っ暗、だな」
思わず独り言が漏れた。視線を上げても、そこにあるのは濃い瘴気が渦巻く闇だけだった。紫がかった霞のようなそれは、薄ければまだ光を透かして青空の気配を感じさせてくれるのだろうが、ここまで濃く淀んでしまうと一切を閉ざす壁になる。上を見ても横を見ても下を見ても、まるで空間そのものが失われたような圧迫感に包まれていた。
俺が使い続けている浄化の魔法だけが、ぽっかりと半径五、六メートルほどの安全圏を照らしている。淡い光に浮かぶのは、俺自身と精霊たちの姿、そしてただの闇。そこが俺たちに許された唯一の「領域」であり、それ以外は全て瘴気に呑み込まれた未知の空間だった。
アイレたち精霊はこの瘴気の中では力をうまく発揮できない。風を司るアイレでさえ、本来なら容易に制御できるはずの風を操るのに難儀しているほどだ。だが、それでも彼女は俺の落下速度を和らげるために全力を注いでくれていた。その献身には、ただ感謝しかない。
俺は浄化の光を切らさないよう、神経を張り詰めながら落下を続けていた。闇に閉ざされた空間を、いつまで経っても底の見えない井戸へ落ち続けているような感覚。もし魔法が途切れれば、この光の輪はあっという間に掻き消され、瘴気が押し寄せてくるだろう。
魔物の姿はまだ見ていない。だがそれは、安心の材料にはならなかった。飛翔できる魔物だっているはずなのに、ここでは一切の気配がない。瘴気に隠れているのか、それとも寄りつけない理由があるのか。
……いや、違う。気配はある。大きく蠢く、何かの気配が。
分からないからこそ、恐ろしい。俺の心臓は落下の衝撃とは別のリズムで脈打ち続けていた。
どれくらい落ち続けただろうか。時間の感覚はすっかり麻痺していた。速度がどの程度なのかも分からないし、闇のせいで距離を測る目安もない。それでも、少なくとも三十分は過ぎていたように思う。
やがて、足元に確かな衝撃が伝わった。乾いた土の硬さ。ようやく、俺は地面に降り立ったのだ。重心が安定すると、心臓の鼓動が少しずつ落ち着きを取り戻す。だが、そこで待っていたのは別の恐怖だった。
――音が、無い。
周囲を支配していたのは、完全な静寂。自分の呼吸音や、浄化の光が淡く鳴る気配すら耳に重く響くほどに、あたりは無音だった。闇と静寂――その二つに囲まれたこの場所は、まるで世界から切り離された異空間のようだ。
「アイレ、周辺の状況って、わかるか?」
俺は思わず頼った。彼女の風なら、この閉ざされた空間の様子を探れるのではないかと。
『申し訳ありません……わかりませんわ』
アイレの声は悔しげだった。瘴気の壁が、彼女の感覚を完全に遮断しているらしい。
「じゃあ、シュネはどうだ?」
『私も同じですー』
水の精霊であるシュネの間延びした返事が返ってくる。水を自在に操る彼女でさえ、この環境では無力らしい。
「じゃあ、ポッコは?」
少し間を置いて、土の精霊であるポッコの重たい声が闇の中に響いた。
『ん……なんとなくわかる。瘴気が土にもしみ込んでるから通りにくいけど、多分空気よりまし』
「ほんとか!?」
思わず声が上ずる。わずかでも突破口があるなら、それに縋らずにはいられない。
『ちょっと時間かかるけど、いい?』
「いいぞ。頼んだ」
光の届かない場所を知る手段があるだけでもありがたい。ポッコの鈍重な返事に、心が幾分救われた。
待つ間、俺は浄化の光を保ちながら足元を探った。土の色は瘴気に呑まれて確認できないが、触れた感触は乾いて硬い。つま先で軽く掘ろうとすると、すぐに石のような硬いものに当たった。これは大きな岩なのか、それとも岩盤なのか。判断はつかないが、少なくとも柔らかな土壌ではない。
浄化の光を絶やせば、すぐに瘴気が押し寄せてくるだろう。まだ直接触れてはいないが、この濃密さからして碌なことにはならない。思考が鈍るか、あるいは肉体に何かしらの害を及ぼすのか。想像するだけで背筋が冷える。
ありがたいことに、自分の魔力量は減っていく気配がない。瘴気が魔力を蝕んでいるような感覚も今のところはない。それだけでも、この状況で呼吸を整えられる理由になった。今ほど自分が人並み以上に魔力を抱えていることに感謝したことはない。
それでも――この静寂は怖い。
光の外に広がる闇は、何かが潜んでいてもおかしくない。耳を澄ませば澄ますほど、何もないこと自体が異常に思えてくる。魔物が寄ってこない理由はなんなのか。寄りつけないのか、それとも別の何かに支配されているのか。答えは闇の向こうに隠されている。
俺は唇を噛みしめ、光をさらに強めた。頼れるのは自分の魔力と、精霊たちの存在、そしてわずかな手探りの感覚だけ。ここからどう進むか、その判断を誤れば――この瘴気の中で二度と日の光を浴びることはできないだろう。
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