第百五十五話「瘴気の前で」
どれだけの時間が経ったのか。馬車の揺れがふっと止まった瞬間、俺の体は小さく前に傾いた。
結局、やはり馬車自体が魔道具なのか、脱出することは敵わなかった。
硬い座面に押しつけられていた腰を上げると、すぐに外から短い声が響く。
「出ろ」
ごつごつとした低音。扉の鍵が外され、きい、と鈍い音を立てて開く。
昼の光が、狭い車内に容赦なく差し込んできた。
思わず目を細めながら馬車を降りる。地面は乾いた土で、草はまばら。鼻の奥をつく、鉄と腐臭が混じったような嫌な匂いが漂っていた。
そして、顔を上げた俺の視界に――。
「……」
言葉が出なかった。
そこには、ぐるぐると渦を巻く黒い靄が、地平線の先まで覆い尽くしていた。
靄の中には、時折どす黒い稲光のようなものが走る。それが空間を焼き焦がしているように見えるのは、俺の目の錯覚ではない。
――瘴気の渦だ。
つい先日、レガスの背に乗って上空から見た、ビサワの大氾濫の中心地。あの瘴気の塊と、同じ景色。
いや、間違いなく、同じ場所だ。
……なんで、俺はこんな所に?
疑問が胸を満たした瞬間、背後から声が落ちてきた。
「君は、あの瘴気をどうにかできるのだろう? やってみせろ」
やはり――俺の能力について知っている。
それを知っているということは、昨日の首長会議の内容を耳にしているはずだ。
だが、目の前の男は供も連れず、一人きり。馬車も御者なしで、まるで幽霊のように現れた存在感の薄さだ。
「……あなたは、何者ですか?」
俺の問いに、男は一拍置いてから鼻で笑った。
「君が知る必要はない……と言いたいところだが、いいだろう」
ゆっくりと頭にかぶっていた布を外す。
現れたのは、茶色い長髪。目元が陰になってよく見えないが、年齢は中年に差し掛かったあたりか。頬は少しこけ、神経質そうな表情をしている。モノクルを左目につけ、その様相は冒険者というよりも、学者のような印象だ。
「私の名はハルガイト。金級冒険者の『千里』といえば伝わるか?」
「千里……って、あの、ダンジョン研究者の?」
「なるほど、知っているか」
――知っている。
ダンジョン学の権威で、その研究の功績によって金級の称号を得たとされる冒険者。
もともと冒険者になった理由すら「ダンジョンを研究するため」だと噂される、変わり者の学者肌だ。
「……なんで、そんなダンジョン研究者が俺を? しかもこんな、拉致まがいのことをしてまで?」
当然の疑問をぶつけると、ハルガイトは肩をすくめ、モノクルを光に反射させて薄く笑った。
「理由は単純だよ。あの『不破の深淵』の瘴気を祓う鍵だと聞いたのでな。急遽、私の研究のために来てもらったのだ」
「研究のため……? 人を拐ってくるのが?」
「学問に犠牲はつきものだ。君が特別だからこそ、こうして呼んだのだよ。誇るといい」
口調は穏やかなのに、内容は一切人の心を慮っていない。
俺は無意識に眉をひそめた。
「……どこでその話を?」
俺が調律者で、瘴気に対して浄化の手段を持つ――そんなことを知っているのは、クェル以外だと昨日の会議の出席者だけだ。
俺の実験を直接見た人間もいない。
つまり、こいつは――。
考えを読み取ったように、ハルガイトは鼻を鳴らす。
「詮索は無意味だ。情報は流れる。人の口に戸は立てられん」
「つまり、会議の中に、あんたと繋がってる奴がいる……」
「ふむ? そう断定するのは早計だが……否定はせんよ」
あっさりとかわされた。
「そんなことはどこでもいい。それよりも、目の前に瘴気が満ちている土地があるぞ? これをお前はどうする?」
俺の問いには答えようとしない。
……やはり会議を盗み聞きでもしていたか。あるいは、もっと内側にいる協力者から情報を得たか。
金級冒険者といえど、目の前の男が善人だという保証はない。
いずれにしろ金級冒険者ということは、見た目とは違ってそれ相応の実力があるはずだ。
こんな場所で、逆らうことは得策じゃない。
「……浄化の魔法を使う」
「浄化? 聞いたことがないな? 王都の魔法研究者どもでも研究しているとも聞いたことがない。君はどうしてそんな魔法を知っている? 君は何者だ?」
やはり、クェルが言っていた通り、この世界には瘴気を浄化する魔法は存在しないらしい。
魔法研究者も知らない技術を、俺が「開発した」と言ったところで、信じるはずもない。
だから――。
「……どこで覚えたのかは知らない。俺は記憶喪失だからな」
「記憶喪失、か。都合のいい言葉だな」
「信じなくてもいい。だが、魔法は本物だ」
数秒の沈黙。やがてハルガイトは「ふん」と笑った。
「まあいい、君の過去などどうでもいい。私は結果さえ見られれば満足だ。さあ、早速その魔法を使ってみろ」
促されるまま、瘴気の渦へと向き直る。
「ひとついいか?」
「なんだ?」
「瘴気を浄化すると、恐らく魔物が向かってくる可能性がある。その対策は大丈夫か?」
「魔物……? そうか、瘴気に異常があれば察知されるのか。ふむ、面白い。記録しておこう。魔物相手なら、そうだな、誤魔化しようはある。気にせず使うがいい。さあ、早く」
「……わかった」
俺は深く息を吸い、右手を瘴気へとかざした。
視界の端で、風の精霊アイレが顕現しそうになっては引っ込み、水の精霊シュネがそわそわと周囲を見回している。土の精霊ポッコは相変わらず姿を見せない。
『カエリ、聞こえるか?』
クェルのもとにいるであろうカエリに念話を送る。
しかし、いつもならすぐに返ってくるはずの返答はなかった。
『カエリ? 念話が聞こえないのか?』
何度か送ってみるが、やはり返答はない。
「なんだ? さっさとその魔法を見せるんだ」
なかなか魔法を使わない俺にヒルガイトの催促が飛ぶ。
俺は仕方なく魔法を使う準備をする。
胸の奥で魔力の流れを整える。
俺の声が、空気を震わせる。
『命の精霊よ。この地に充満する悪しき瘴気を清め、浄化せよ。プリフィケーション』
魔法は発動し、手のひらが淡く光り出した。
光は水面に広がる波紋のように前方へと流れ、瘴気を少しずつ薄くしていった。
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