第百五十二話「調律者」
その前に、とウルズ様は言った。
「以前は不躾な目を向けてしまい、申し訳ありませんでした。あれには、理由があったのです」
目の前で、黄金の髪をわずかに揺らしながら、ウルズ様が静かに口を開いた。
その声音は、澄んだ湖面に落ちる一滴の水のように、ゆっくりと俺の耳に染み込んでくる。
「……理由?」
気がつけば、俺は聞き返していた。ウルズ様の視線は真っ直ぐで、逃げ道なんてどこにもない。
枝角に散りばめられた宝石が、窓から差し込む光を反射してきらめいた。その美しさに、話の内容が頭に入りきらない。
「それは……預言の“調律者”であらせられるケイスケ様が、雑踏の中で私を眺めていたものですから。つい驚いてしまったのです」
「……は?」
ウルズ様の視線の理由。それは予想外の答えだった。
いや、ちょっと待て。予言? 調律者?
俺は困惑するも、ウルズ様は続ける。
「予言にはこうございました。――我らの地に調停をもたらす者が現れる。汝、精霊の声を聞き逃すな。信じ、そして目を見開け。近傍の有象無象に惑わされることなかれ……と。調律者の出現は、我ら……いえ、この世界の悲願でございます。なにとぞ、我らをお導きください」
そう言って、彼女は深く頭を下げた。隣にいたマヌス様も同じく頭を垂れる。
目の前の光景についていけない。
……調律者って、なんぞ? 導けって、いきなり言われても困るんだが?
調律者――。
俺は頭の中で、その単語を何度も反芻した。調律って、楽器を合わせるあれだよな? 世界の調律? それを俺が?
いやいや、意味がわからない。無理だろ。
「えーと……ほんと唐突で、何が何やらって感じなんですが、その……調律者が俺だと?」
「左様でございます」
間髪入れずに返ってきた。即答だ。
それも、まるで疑う余地など一切ないという声音で。
「……俺はそんな大層な存在じゃないと思うんですが。人違いじゃ?」
「間違いありません」
ウルズ様は断言する。瞳は揺るがず、澄んだ湖のように静かだ。
……まつ毛、長いな。いや、現実逃避してる場合じゃない。
「なんでそう思うんでしょう? その確信の理由を、教えてもらえますか?」
「ご尤もです。もちろんお話いたします。その前に……マヌス、茶を」
促され、マヌス様が席を立った。部屋の隅には衝立があり、その向こうが簡易的なキッチンになっているようだ。
どうやら立場はウルズ様の方が上らしい。マヌス様の動きに迷いはなく、慣れた様子で湯を用意する。
しばらくして、香ばしい香りが漂ってきた。
マヌス様が盆を持って戻ってくる。小さな器に注がれた茶と、添えられた木の実のような菓子。
俺たちの前にある小さなテーブルに、それらが丁寧に置かれる。
「どうぞ、カタタの茶です」
「私たちの森で採れる茶葉です。お召し上がりください」
視線が、俺を試すように注がれてくる。……これは飲まないと失礼っぽい。
器を持ち、鼻を近づける。芳醇な香りが、今まで嗅いだことのないほど濃く、しかし嫌味のない甘みを含んでいる。
一口含むと、舌の上でふわりと広がり、喉を通るときにはすっと軽くなる。紅茶のようでいて、もっと深い余韻がある。
「……うまい」
思わず本音が漏れた。
「お口に合ったようで、何よりです」
マヌス様がわずかに口元を緩める。その笑みは控えめで、けれど柔らかかった。
茶の温もりで少し肩の力が抜けたところで、ウルズ様が改めて話を始めた。
「調律者とは、我ら玄鹿族の巫女であり、この里の首長である私に授けられた予言に現れた存在です」
その声には、わずかな熱がこもっていた。
「土地、そして世界を正しいものに調律するために遣わされた者――そう告げられました。ですが、調律者が何を成すのかは、予言の中でも曖昧です」
ウルズ様は一瞬視線を落とし、それから俺をまっすぐ見据える。
「ですから私は、ビサワの地に現れた“不破の元・深淵”を思い浮かべました。あの深淵から溢れ出た瘴気と魔物……それは私たちの土地を奪い、多くの命を奪いました」
俺の脳裏にも、レガスと見たあの光景がよみがえる。
地平線まで広がる瘴気、陽光を遮る灰色のもや。生き物の気配が消えた、死んだ土地――。
「予言は告げました。深淵の迸発は人為的なものだと。何者かが、深淵に干渉したのです」
その言葉に、背筋がわずかに冷えた。人為的――つまり、誰かが意図的にあの地獄を作ったということか。
「だからこそ私は民に伝えました。状況は変わったのだと。そして……奪還作戦が存在することも」
奪還作戦――それは、クェルが口にしていた「クミルヒースの土地」を取り戻すための戦い。
彼女が強く望み、胸に抱いていた悲願でもある。
俺は湯気の向こうに、あの小柄な背中を思い浮かべた。いつも明るく振る舞っているが、笑顔の奥に押し込めた決意を、俺は知っている。
「要するに、あれを解決するのが俺だと?」
「はい」
ウルズ様の口から告げられた言葉は、重すぎて、俺の頭の中で何度も反芻される。
短く、しかし迷いのない返事。その声には、まるで未来をすでに見通しているかのような確信があった。
確かに、手がかりは掴んだ。浄化の魔法は確かに効果がある。瘴気を浄化できる可能性はゼロじゃない。
この世界では占いが単なる娯楽じゃなく、信頼できる情報源として扱われているのも知っている。
預言なんてものの重みも、少しは理解しているつもりだ。
……でも。
俺が黙っていると、ウルズ様が首をかしげるようにこちらを見た。
その金色の髪が、灯火を受けてさらりと揺れる。
「……何か他に気になることでもございますか?」
「……いえ、ただ単純に、自信がないんです、けど?」
俺は思わず本音を漏らす。
突然「調律者」などと言われても困る。
色々と説明は受けたけど、正直、何もピンとこない。
確かに最近、瘴気に対抗できる魔法を開発した。
それがこの世界でどれほど難しいことか、なんとなくはわかっている。
でも、あの濃厚な瘴気を俺ひとりで解決できる力なんてない……。
世界の調律? 壮大すぎて、笑えてくる。
ウルズ様は、小さく、しかしはっきりと笑った。
その笑顔は人を安心させる柔らかさを持ちながら、同時に、何かを試すような強さもあった。
「それでも、貴方様が調律者であることは確かです。私の精霊が、教えてくれましたから」
「精霊?」
「はい。私は精霊の契約者でもあるのです」
予想外の答えに、思わず背筋を正す。
精霊の契約者――その言葉の響きは、俺の中の冒険心をほんの少しだけ刺激した。
ウルズ様の契約精霊は、波の精霊。
音波や、あらゆる「揺らぎ」を司る存在だという。
その精霊――ホリッパフムが、俺が調律者だと告げたらしい。
「そうなのです。精霊には、貴方様が特別な存在だとわかっていました」
ちなみに、ウルズ様自身にはホリッパフムの姿は見えていないそうだ。
ただ、声や意思だけが直接頭に響くという。
「子供の頃に契約したので、少し可愛らしい名前で……」と、照れたように微笑む姿は、威厳ある首長というより一人の女性の顔だった。
俺は少し迷ってから、アイレを紹介した。
『アイレと申します。ホリッパフムもどうぞよろしくお願いしますわ』
アイレの澄んだ声が俺の頭の中に響く。
どうやら精霊同士、互いの存在は自然に認識できるようだ。
俺にも姿は見えないのだが、やはり適性がないから、なのだろうか?
「そういえば、お聞きしたいんですが」
「なんでしょう?」
ウルズ様が小首をかしげる。
その仕草ひとつ取っても、妙に優雅で絵になる。
「波の精霊がいるということは、波の魔法なんてのも、あるんですか?」
俺の質問に、ウルズ様は少し考えるように目を伏せ、彼女は答えた。
「……波の魔法は体系的な魔法としては存在いたしません。私が知る限り、あるのは精霊魔法と呼ばれる、契約者のみが使用できる魔法だけです」
精霊魔法。
また新しい単語だ。
教会でマデレイネ様に魔法を習ったときも聞いた覚えはない。
体系がないということは、詠唱もない。ということか?
確かに精霊に頼めば、契約者は詠唱なしで魔法を使える。俺もアイレ達とやり取りするときはそんな感覚だ。
そんなことを考えているうちに、不意にあくびが込み上げた。
慌てて口を押さえるが、どうにも止まらない。
緊張感のある空気が一瞬ゆるむ。
「フフ……。そういえば、もう夜も遅いですね。今夜はぜひともこの天幕にお泊りになってください。……マヌス」
「はい。来賓用の寝所がございますので、そちらに」
流れるように手配が進んでいく。
俺は「いや、帰る」とも言えず、自然な流れで泊まることになった。
案内役のマヌス様に「すみません、お世話になります」と頭を下げると、彼は軽く首を振った。
「私のことは、どうぞマヌスと。敬称は不要でございます」
いやいや、そんな気安く呼べる相手じゃない。明らかに立場も格も上の人物だ。
俺は苦笑しつつ、お願いする。
「じゃあ……マヌスさん、でお願いします」
マヌス様――いや、マヌスさんは、ふっと口角を上げた。
そのわずかな笑みは、鹿のように静かで、森の奥深くの空気のように落ち着いていた。
こうして、俺は巨獣の背中の上で、一夜を迎えることになった。
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