第百三十七話「秘密と呆れと、信頼と」
朝の森は、夜の名残を引きずるように静かだった。
淡い光が木々の間から差し込み、白い靄が低く漂っている。鳥たちが遠くで鳴き交わす声が、まだ寝ぼけたような空気を震わせていた。
俺は、昨夜の焚き火の残り火を見つめていた。赤い炭が灰の中でかすかに脈動し、吐き出す熱が指先に伝わってくる。小さくはぜる音が、耳の奥で規則正しく響いていた。
「クェル。ちょっと、いいか?」
声をかけると、少し離れた場所で長剣を肩に担いでいた彼女が振り向いた。
片足で灰を軽く蹴り、残っていた熱を散らすような動作をしている。その動きは何気ないが、火の始末を知っている者の手際だった。森暮らしの経験からくる無意識の癖かもしれない。
「ん? どうしたの、ケイスケ。朝っぱらから真面目な顔して……まさか、プロポーズか?」
からかうような声音。唇の端が僅かに上がり、目尻には薄く笑みが滲んでいる。
俺は即座に首を横に振った。
「違うわ」
「即答ぉ!」
小さく肩をすくめたクェル。冗談を言っているつもりなのだろうが、その目は俺の表情を真っ直ぐに探っていた。どうやら、俺が何か話そうとしていることは察しているようだ。
「昨日の浄化魔法だけどさ、詠唱……改善の余地があると思うんだ」
「うんうん、あるある。めっちゃ噛むし、途中で意味わからなくなるしね」
軽口で返すが、俺の意図とは少し違う。
「そういうことじゃなくて、構文としての改善。あと、もっと単純にできる方法があるかもしれない」
俺は手を上げ、指先で空を切るように操作した。
視界に半透明の画面が現れ、指先の動きに合わせて光が流れる。長年の癖のような動きでメニューを辿り、「詠唱省略」モードへ。そこから《浄化》を選択する。これで今後は『浄化』と呟くだけで魔法が発動する――はずだった。
「ケイスケ、今、なんか手元動かしてたよね? 何してたの?」
「え? 普通にスマホ……操作……って、クェルには見えてないの?」
驚いて、手にした端末をそのまま彼女の目の前に差し出す。
しかし、クェルは目を瞬かせただけで首を傾げた。
「何も持ってないよ? 手ぶらじゃん」
……まさか。
脳裏に、酔って眠りに落ちる直前の夜が蘇った。あのとき、思いつきで『光学迷彩』の詠唱をスマホにかけたのだ。あまりに適当で意味のない行為だったからすっかり忘れていたが――どうやら、それが今も有効らしい。つまり、クェルの目には俺のスマホは存在しないことになっている。
「いや……見えないならいいんだけどさ。実は、ちょっとしたチート……いや、裏技を思いついたんだ」
「ふぅん? どうせまたとんでもないことでしょ?」
少し呆れたように笑うクェル。俺はそこで、詠唱省略機能のことを正直に話した。
話す間、胸の奥に妙な罪悪感が広がっていく。これまで必死に詠唱を練習してきた彼女の努力を思えば、こういう「抜け道」を使うのは気が引けた。
だが、クェルは怒らなかった。むしろ――。
「ケイスケってさ……ほんとは何者?」
静かに放たれた問いに、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
いくつもの場面で、自分が常識外れなことをしてきた。それを見てきた彼女にとって、この質問は自然な流れなのかもしれない。
深く息を吸い、俺は言葉を選んだ。
「……俺は、記憶喪失なんだ。昔のことはほとんど思い出せない。でも、ひとつだけ確かな記憶がある。この世界の住人じゃないってことだ」
クェルの視線が鋭くなる。だが、その奥にあるのは疑いではなく、ただ静かな受け止めだった。
「ある日突然、目を覚ましたらこの世界にいた。だから、この世界の常識も知らなかった。精霊との契約だって偶然のようなもんだった。……そして、俺にはどうやら特別な力があるみたいなんだ。スマホとか、今言ったようなチート機能とか」
言っていて、自分でも嘘くさいと思う。けれど、これが事実だ。
「なるほどね。ケイスケが非常識な理由が、やっとわかった気がする」
クェルは小さく笑い、首を傾げた。その声には、軽蔑も警戒もない。
「クェルなら……言いふらしたりしないよな」
「当たり前じゃん。ていうか、言ってどうするのよ? そんなこと言われたって、誰も信じないし。私だって、ちょっと前までだったら笑って終わってたよ」
彼女のあっさりした口調に、張り詰めていた肩の力が抜けた。
「で? まだ隠してることは? この際だから、ぜーんぶ言っちゃいなよ」
「……詰めてくるな、おい」
苦笑しつつも、俺は観念した。
少しの沈黙の後、口を開く。
「実は……契約してる精霊、リラとカエリだけじゃないんだ」
「……やっぱりね」
クェルの即答は、驚きとは無縁だった。
その顔は「知ってた」と言わんばかりで、俺は肩をすくめるしかない。
俺は他の精霊たちを順番に顕現させた。
まず風の精霊アイレが、柔らかな空気の揺らぎと共に現れる。
『はじめまして、ケイスケ様の風の契約精霊、アイレですわ』
次に、水の精霊シュネが、透明な水の滴をまとってふわりと浮かぶ。
『こんにちはー』
最後に、土の精霊ポッコが無言で地面から半身を出し、小さく頭を下げた。
それらを見ても、クェルの反応は変わらない。呆れたように笑い、肩を軽く落とした。
「いやもう……なんなんだろ、ケイスケって。ちょっとやそっとじゃ驚けなくなってきたよ」
「……ごめん」
「ま、でも隠し事なくなったなら、よし!」
腰に手を当て、ぱっと笑顔になる。その明るさが、胸の奥まで温かく染み渡った。
「でさ、その詠唱省略ってやつ。私も試せるの?」
「多分、俺が登録すれば……いけると思う」
「じゃあお願い、こっちは実利を取るよ!」
笑いながら、彼女は焚き火跡の灰をもう一度蹴った。
その仕草を眺めながら、俺は心の中で小さく呟く。
――また少し、前に進めたな。
この奇妙な世界で。少しずつ。だけど確かに。
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