第百三十六話「浄化の光」
灰色の魔物を倒したあとも、周囲に立ちこめていた瘴気は一向に消えなかった。
肌がぴりつくような感覚と、鼻を突く腐臭。それに、目には見えないはずなのに、もやのようにまとわりつく靄。
「瘴気は厄介なんだよ。あとは時間で減っていくとは思うけどね」
クェルが苦笑いしながらそう言った。
瘴気って、なんなんだ? 体に悪いってのは直感でわかるが、それ以上のことは何も知らない。
『瘴気は、悪いものだぞ』
カエリの言葉が、いつになく曖昧だ。だが、たしかに「悪い」としか言いようのない空気が、辺り一帯に広がっていた。
『私たちでも、瘴気の中ではうまく力を出すことができませんわ』
『うんー、なんだか気持ち悪いー』
『……ん』
アイレ、シュネ、そしてポッコまでもが嫌悪を示している。精霊がこんなふうに揃って不快を訴えるなんて、今までなかった。
「なんとかできないのか?」
時間と共に薄れるという話だが、どれだけの時間がかかるのか、誰にも分からないらしい。精霊たちに尋ねても、明確な答えは返ってこない。
瘴気と浄化――。
浄化……解毒も浄化の一種だよな。俺はふと、思いついた詠唱を口にしてみた。
『命の精霊よ。この地に充満する悪しき瘴気を清め、浄化せよ。プリフィケーション』
すると俺の手のひらから、淡い光が広がる。空気の中に浮かんでいた黒い霧のような瘴気が、光に触れるたびに少しずつ、薄れていく。
「おおっ! いけるか?」
「えっ!?」
思わず声が出る。だが、広がっている瘴気の範囲に対して、魔法の影響はごくごく狭い。
焼け石に水、という言葉がぴったりだった。だけど心なしか空気が綺麗になっているような、そんな気がした。
ひとり小さな達成感を味わっていると、クェルが俺に近づきながら、じっと手元の光を見つめていた。
「……ねえ、その魔法、もしかして瘴気を消してる?」
「ん? うん。やってみてるけど、どうにも効率が悪そうだ」
「瘴気を、綺麗にしてるの?」
「いや、うん。そうだって言ってるけど、どうかしたのか?」
俺の言葉に、クェルの目が一瞬大きくなったように見えた。
けれどすぐに伏せがちに目を細め、なにかを噛みしめるようにして黙り込んだ。
浄化魔法の効果が薄いこともあって、俺は魔法を解除する。相変わらず俺の魔力が減ったような感覚はない。いくらチートといえど、この魔力の多さはありがたいが、少し心配にもなる。
「ひとまず、ここから離れよう。念のため、今の浄化の魔法を皆にもかけるから、一か所に集まってくれると助かる」
瘴気が比較的薄い場所まで移動し、クェル、レガス、他の飛竜たちにも順番に魔法をかけていく。
「クェル、とりあえず、ヴァイファブールまで帰るか?」
「……」
無言のままのクェルが気になったが、返事を待つ間もなく、レガスがはしゃぐように声を上げる。
『オレ、ノセル! ケイスケ、ノセル!』
レガスが誇らしげに翼を広げる。あれに乗って街中を飛べば、ただじゃ済まないだろう。目立つなんてもんじゃない。けど、街の近くまでなら――。
「クェル、レガスが街まで乗せてくれるってさ。……って、どうしたんだ? さっきから」
そのとき、クェルがふっと俺を見た。
「ねえ、ケイスケ」
「うん?」
「さっきの瘴気を浄化する魔法だけどさ」
「ああ、ちょっと力不足で、効果は低かったけど、あれがどうかしたのか?」
あのままじゃ、あの場所が綺麗になるまで何日かかるか分からない。効果範囲を考えても、時間がかかりすぎる。
けれどクェルは、なぜか魔法のことばかりを気にしていた。
「……あの魔法、私にも使えないかな?」
「え?」
思わず聞き返してしまった。
クェルが魔法を使いたい、なんて言うのは初めてだ。
クェルの本領は、肉体強化。『爆足のクェル』と二つ名がつくほどの超人的な瞬発力を誇る冒険者だ。詠唱が必要な体外魔法は苦手――いや、そもそも「使えない」と自分で言っていたはず。
「私の故郷は、スタンピードで滅んだって、言ったよね?」
帰路、レガスの背に揺られながら、クェルがぽつりと口を開いた。茜色の空の下、彼女の声音はいつになく落ち着いていて、逆に胸がざわつく。
「ああ」
俺は短く返事をする。クェルの視線は前を向いたままだった。
「スタンピードって、魔物の群れなんだよ」
それは、単に数が多いというだけのものじゃない。溢れるほどの魔物が、濁流のように押し寄せて街や村を呑み込む、破壊の奔流。それを“スタンピード”と呼ぶのだと、前に聞いたことがある。
クェルの言いたいことは、すぐにわかった。
「……つまり、クェルの故郷は、瘴気に包まれている……ってことか?」
「そう。さっきのとこよりももっとひどい、瘴気が渦巻いてる。それに、強力な魔物もね」
グレイアームズを退けた先ほどの場所の瘴気ですら、目に見えぬ圧がのしかかるような不快感があった。あれ以上の濃さとなると……正直、想像もしたくない。
「魔物だけなら、一体一体倒していけばなんとかなるかもしれない。でも、瘴気は別。さっきのくらいの瘴気の濃さなら、多分二、三年くらいで綺麗になるかもしれない。でも、私の故郷は、多分百年かかっても、無理かもしれない」
百年。あまりにも長い年月だ。つまり、それだけ深く、土地ごと呪われているということか。
「瘴気自体は研究者が調べてるらしいけど、効果的に浄化する方法は、確立できてないみたい」
それでも、希望のかけらを見たのだろう。俺の即興で作った浄化の魔法。それは強くはなかったが、実際に瘴気をわずかに晴らした。たしかに目に見えるほどの効果ではなかったが、それでも“効いた”という事実があった。
クェルは俺の顔を真剣に見つめてくる。
「ねえ、ダメかな? 私にその魔法、使えないかな?」
いつも底抜けに明るい彼女からは想像もできないような、真剣な眼差し。冗談もおどけも一切ない、芯からの問いかけだった。
俺は即答を避けて、頼るようにカエリの方へ目を向けた。
「……カエリはどう思う?」
『え? 僕?』
声が裏返ったカエリがカンテラの中で身じろぎする。無茶ぶりだったとは思う。でも、俺には判断ができなかった。詠唱を教えることは簡単だ。だけどクェルが使えるかどうかは判断がつかない。
カエリは眉をひそめるような仕草で、クェルをじっと見つめ、やがて口を開いた。
『……うーん、僕にはよくわからないけど、今のままじゃ無理じゃないか?』
「……そっか」
沈んだ声。クェルのそんなトーンを聞くのは、初めてだったかもしれない。
思えば、グレイアームズの討伐の時も、彼女は普段以上に力が入っていた。今にして思えば、あれはただの仕事ではなく、何かしら私情が絡んでいたのだろう。もしかすると、彼女の故郷に現れた魔物も、似た存在だったのかもしれない。
「……とりあえず使えるかわからないけど、詠唱は教えるよ。それでいいか?」
「うん。教えて」
彼女の返事はすぐだった。光が見えたのだろう。それがどんなに小さくても。
「わかった。ひとまずヴァイファブールについて落ち着いたら教えるよ」
「ありがとう」
普段のおちゃらけたクェルとは違う、しおらしい雰囲気。調子が狂う。
ヴァイファブールの町へ帰還後、ギルドで魔石を提出し、報酬を受け取った俺たちは宿へと戻った。部屋に戻ると、さっそく詠唱の伝授に取りかかる。
「じゃあ、やってみるよ。これは俺が使ったときの詠唱なんだけど」
俺は深く息を吸い込み、手を前にかざす。
『命の精霊よ。この地に充満する悪しき瘴気を清め、浄化せよ。プリフィケーション』
言葉に乗せて魔力を流し込むと、淡く光る光球が空中に現れ、部屋の空気を清めるようにすっと溶けて消えた。
「一応、これが浄化の魔法の詠唱だけど、もっと効率がいい詠唱があるかもしれない」
クェルは腕を組み、ジト目で俺を睨んだ。
「……ねぇ、その言葉の意味だと、ケイスケは詠唱の中身がわかってるように聞こえるんだけど?」
「え……と。まあ……」
視線をそらしながら返す俺に、クェルは盛大なため息を吐く。
「なんかさ、ここにきて、ケイスケの非常識には慣れてきたような気がするけど、ほんとあんたは非常識だよね」
「……それほどでも?」
「褒めてないけど」
「……スマン?」
「謝ることでもないでしょ」
「うん」
いつもはこっちが振り回される側だったけど、今日はどうも逆らしい。いや、いつもがどうかしてるのか。よくわからなくなってきた。
でも、こうして向かい合って、真剣なクェルと向き合っていると、少しだけ彼女の違う一面が見えるような気がして、悪い気はしなかった。
明日から彼女は、自分の故郷を目指して新たな歩みを始めるのかもしれない。その旅の力になれるのなら、俺の魔法も少しは意味があるってことだろう。
「じゃあ、何度か唱えてみようか。魔力の流れも見ておきたいから」
「うん。よろしく、ケイスケ先生」
ニカッと笑うクェル。ようやく、いつもの調子が戻ってきたようだった。
でもその笑顔の奥には、確かに強い決意が宿っていた。
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