第百三十四話「沼に潜むもの」
俺達はレガスの背に乗り、空を駆けた。風を裂いて進むそのスピードは凄まじく、数十秒で目的地が見えてきた。
眼下には、まばらに木が茂っている土地が広がっている。森と呼ぶには木々が足りないが、かといって荒野とするには草や緑も多い。強いて言えば──そう、サバンナだ。広く、開けていて、どこか乾いた印象を与える大地。
『主、あの池のあたりですわ』
「……あの池か?」
俺が指を差すと、アイレが頷く。
「カエリ、熱反応はあるか?」
『んー。生き物みたいな熱は感じないぞ。完全に隠れてるな、これ』
「……ってことは、やっぱ池の中か」
無意識に眉が寄った。あの池の中にいるというのか。どこか不穏な気配を漂わせていた池。透明度の低い水面。魚の死骸が何匹も浮かび、虫一匹いない。淀んでいるだけじゃない。何かが、この池全体を支配しているような、重苦しい空気を感じた。
『主、周囲にも反応はありませんので、やはり魔物は池の中、ですわ』
「……なるほど。じゃあ、念のため──シュネ、池の中、探れるか?」
『わかりますよー。確かに魔物は、あの池の底に潜んでますー』
「確認、ありがとう」
『いえいえー』
俺たちは飛竜の背から降り、池のほとりに静かに着地する。瘴気を感じ取ったクェルが、腕を組んだまま鼻をひくつかせた。
「ケイスケ、これが魔物の瘴気だよ」
言われるまでもない。池から立ち上る空気は明らかに異常だった。目に見えるわけじゃない。でも、肌が拒絶反応を起こす。呼吸をするたびに体内に何かが入り込むような、そんな錯覚。
カエリがカンテラの中でつぶやいた。
『これは、結構濃いな……。耐性がなきゃ近づくだけで気持ち悪くなるかも』
俺とクェル、そして飛竜は、できるだけ距離を取って観察を続ける。
と、そのとき。池の水面が不意に波打った。風はない。自然現象とは考えにくい。
「来る……!」
クェルが長剣に手をかけた。そして池の中央、死んだ水の中心から、異様な影が姿を現した。
──魔物だ。
一目見て、脳が警鐘を鳴らした。
生理的嫌悪感。ぞわりと背筋を走る寒気。目を逸らしたくなるような異形。
灰色のぬめりを帯びた肉体。胴体からは大小さまざまな腕が、数えきれないほど生えている。長い腕、短い腕、太い腕、細い腕。胴体のあらゆる部位から、まるで樹木の枝のように無数の腕が伸びている。
頭はない。足もない。足があるべき場所にも腕。首があるはずの位置にも腕。
腹は縦に裂けており、そこには歯がびっしりと並んでいた。ぎざぎざの、まるでノコギリのような歯列。吐き気がこみあげるほど、気持ち悪い。
その姿は、まるで出来の悪いホラーゲームに出てくるような、気味の悪いモンスターそのものだった。
「うわぁ……これは……」
思わず、クェルが引いた。
「なんか……無理……」
普段どんな状況でもヘラヘラしているクェルですら、言葉を詰まらせている。正直、俺も似たような気分だった。見ているだけで体のどこかがおかしくなりそうな、そんな生理的な嫌悪。
でも──。
「行くぞ。あれが毒を撒いた張本人なんだろ?」
俺の言葉に、レガスが「ギィ」と低く唸った。
怒りは、恐怖をも凌駕する。そうだ、今は俺がいる。毒なんて怖くない。やるべきことは、ひとつだけだ。
「ケイスケ、来るよ!」
クェルの鋭い声が、俺の背を押した。反射的に跳んだ。直後、地面がぐしゃりと潰れる音。さっきまで俺がいた場所には、魔物の巨体が突っ込んできていた。
ドゥン! と地面が爆ぜる。
クェルの“爆足”だ。強烈な踏み込みによって地面を砕きながら、一気に魔物の側面へと回り込む。
「ヤアアアアアッ!!」
いつも飄々としている彼女が、咆哮と共に剣を振るう。重たい風切り音のあと、魔物の腕がひとつ、吹き飛んだ。
さらに、二本目、三本目。
だが――。
「くっ……きりがない!」
落ちたはずの腕の切断面から、新たな腕がにゅるりと生えてくる。再生速度が異常だ。
「……駄目だね、ただ切っただけじゃ、再生してきりがない」
俺の隣に着地したクェルが、剣を肩に担ぎながら息を整える。
仮称――グレイアームズ。とりあえず、そう呼ぶことにしよう。
『オレタチモ タタカウ!』
上空から、レガスの声が響く。飛竜たちが一斉に魔物に襲いかかっていく。
巨大な爪が腕を引き裂き、ちぎり、放り投げる。何体もの飛竜が連携して、巨体を地面に転がしていく。
「よしっ……!」
だが希望が差したのは束の間だった。魔物は転がされながらも、細長い腕をいくつも地面に突き刺して、動きを止めた。
アンカーのように、腕で自身を地面に縫い付けている。
「飛竜の攻撃でも、もう押しきれない……」
実際、飛竜たちの攻撃はその表皮をかすめる程度になり、もはや小さな腕をもぎ取るのが精一杯になっていた。
「ちょっとどいて!」
クェルが飛竜たちを退かせ、自ら斬りかかる。だが結果は同じ。
灰色の肉に剣が食い込んでも、切断には至らない。表面が硬化している。
「完全に……膠着状態か」
飛竜たちも疲弊の色を見せはじめ、距離を取って旋回するようになっていた。
瘴気が濃くなっている。足元の土が、まるで腐ったようにドロドロに変色しているのがわかる。空気が重たい。息を吸うたび、喉や肺が汚染されているような気がする。実際この瘴気に混じって、飛竜たちを侵した毒が混じっているのだろう。
「……やばいね」
クェルがぽつりとつぶやく。
「え?」
「このまま倒せなければ、瘴気は増すばかりだし……。あいつ、今も進化してるよ」
魔物――いや、グレイアームズを見れば一目瞭然だった。
さっきよりも腕の数が増えていた。特に地面に突き刺している細長い腕は、数が倍以上に膨れ上がっている。まるで触手のようだ。しかも太さも増していて、岩をも砕きそうな迫力を帯びている。
「防御特化にシフトしたってことか……?」
俺のつぶやきに、カエリが言った。
『あいつ……適応してる……! こいつ、戦いの中で進化してるぞ、主!』
その言葉にゾクリとした。
瘴気をまき散らすだけでなく、外敵の攻撃を分析し、即座に対応している。
「これが、魔物……?」
最後までお読みいただきありがとうございます!
あなたの貴重なお時間を物語に使っていただけたこと、とても嬉しく思っています。
ちょっとでも楽しんでいただけたなら、何よりです!
もし「いいな」と思っていただけたら、
お気に入り登録や評価をポチッといただけると、とても励みになります!
コメントも大歓迎です。今後の執筆の原動力になりますので、
どんな一言でも気軽に残していただけたら嬉しいです。
これからも【悠久の放浪者】をどうぞよろしくお願いします!




