第百三十二話「空翔る癒し手」
「うひいいいっ!?」
予想はしていた。いや、していた“つもり”だったのだ。
でも――実際に飛竜の背にしがみついて空を飛ぶことになると、頭の中で作っていた覚悟なんて一瞬で吹き飛ぶ。
顔に叩きつける風はまるで凶器だ。針の束を全力で投げつけられているような、そんな痛みが皮膚に突き刺さる。呼吸も乱れ、目を開けるだけでも涙が滲んでつらい。なにより怖いのは――手綱がない。
そう、この飛竜、完全に野生だ。鞍もなし、捕まるのは背の突起や鱗の縁だけ。バランスを崩したら一瞬で真っ逆さまだ。ほんの少しでも翼の角度が変われば、体ごと宙へ投げ出されそうになる。
さっきまでの移動は、飛竜に掴まれて運ばれるだけだった。あれはある意味、ジップラインに乗っているような感覚で、体を預けるだけでよかった。今は違う。自分でしがみつき、全身の筋肉で必死に振り落とされないよう耐え続けている。
「アイレ! 俺が落ちないように、なんとか頼む!」
『わかりましたわ!』
返事が届いた瞬間、体を包む空気の感触が一変した。
さっきまで針のようだった風が、ふわりと柔らかくなる。まるで厚手の毛布で全身を包まれたような感覚だ。揺れのたびに背中を支えるような力を感じる。これは――アイレが風の流れを操って、俺の体を安定させてくれているのだろう。
ありがたい。ほんとにありがたい。
飛竜の動きも、幾分か落ち着いた。どうやら気流に乗って水平飛行へ移ったらしい。さっきまでの荒い上下動が和らぎ、腹の奥で固まっていた緊張が少しだけほどける。ようやく周囲を見渡す余裕が出てきた。
俺の左右、そして背後にも、複数の飛竜が編隊を組むように飛んでいた。太陽を背に受けたそのシルエットは力強く、美しい。翼が一斉に角度を変え、先頭の一体が大きく旋回する。そのまま崖の中腹――岩肌を穿ったような巨大な穴へと進路を取った。
俺の乗る飛竜も、その動きに合わせて翼を傾ける。遠心力で体が外側に引っ張られるが、風のクッションがそれを抑えてくれるおかげで、落ち着いて動きを合わせられた。
巣穴に降り立った瞬間、熱い息と湿った獣臭が押し寄せてきた。
そして――そこには既視感のある光景があった。
ぐったりと横たわる飛竜。呼吸は浅く、体は小刻みに震えている。尻のあたりからは血が滲み出し、乾いた赤黒い筋を岩肌に描いていた。体の大きさの割に、その声はひどく弱々しい。
「……同じ症状か」
この場面は、もう見た。だから、迷いはなかった。
右手に治癒の魔力、左手に解毒の魔力。それぞれ別の流れを同時に意識して制御する。思考の奥底で二つの川を並行して流すような感覚――普通なら混ざって暴走しそうなものだが、なぜか俺にはできる。便利すぎるチートだと自分でも思う。
掌を傷口と毒の回る経路にかざし、魔力を流し込む。
――ぽん、と音を立てるように、尻の穴から血塊が押し出された。
同時に、苦しげだった呼吸がゆっくりとしたリズムを取り戻す。目の焦点が戻り、濁っていた瞳にわずかに光が差した。
「……よし、ひとまず一件落着」
巣の隅では、番と思われる別の飛竜が低く鳴き、首をすり寄せていた。その声は、まるで感謝と安堵が入り混じったように柔らかい。
だが、終わりではなかった。
次の巣へ――そう促され、俺は再び飛竜の背へ。
さっきよりは少しだけ慣れ、体の力を抜いて風に身を任せられるようになっていた。
二体目、三体目……治療したのは、どれも雌の飛竜だった。
「……この毒、どうやって感染したんだ? 水か、食べ物か……?」
独り言のつもりが、意外にも返事があった。
『ドク! ヘンナマモノノ、ドク』
「魔物……?」
ピンときた。
「灰色で、手がいっぱいの魔物か?」
『ソウ、ソレ!』
確定だ。俺たちが探していた灰色の化け物――あいつが、飛竜たちを苦しめている元凶。
しかし妙だ。どの巣でも倒れているのは雌ばかり。
「なんで……番の片方だけ? しかも雌だけ?」
『ワカラナイ……デモ、メス、バッカリ』
メスだけに作用する毒? 繁殖期特有の弱点か、それとも……。疑問は残るが、今は立ち止まって考えている時間はない。
やるべきことは一つ――目の前の命を救うことだ。
そこからは怒涛の時間だった。
飛んでは治す。治しては飛ぶ。
魔力の配分を一瞬でも誤れば、どちらかの魔法が弱まり、命を救えなくなる。だが繰り返すうちに、俺は魔力の流し方と当てるべき部位の最適解を掴んでいった。
気づけば、一つの巣での作業時間は三分を切っていた。
それは、苦しむ声を一秒でも早く止めたかったから――ただ、それだけだった。
「――終わったー!」
最後の一体を癒やし終えたとき、空はすっかり茜色に染まっていた。
翼をたたみ、巣に戻る飛竜たちのシルエットが、赤く輝く空を背景にゆっくりと揺れている。吐く息が白く、鼻腔には温かな獣の匂いが残っていた。
これで、ようやく本来の目的に戻れる。
「アイレ、クェルの居場所はわかったか?」
『ええ、今は一人で主を探しておられますわ』
「じゃあ、安心させてやらないとな」
『そのほうがいいかと』
巣の縁へ歩き出した、その時だった。
『ノッテク!』
声をかけたのは、最初に俺を運んだ飛竜だった。
「いいのか?」
『モチロン、イイ! ノッテホシイ! ホマレ!』
――誉れ、か。
自然と笑みがこぼれた。飛竜たちは、俺に感謝してくれている。その気持ちに応えるため、俺は再び背に飛び乗った。
アイレの風が、クェルの居場所を的確に示す。崖の麓、木々の隙間を軽やかに駆け抜ける影――あれがクェルだ。
俺はドーピーで喉を強化し、全力で叫んだ。
「クェルゥゥゥ! 俺だああああ!!」
その瞬間、彼女の肩の力がふっと抜けたのが、空からでも分かった。きっと声は届いた。
「あそこにいるクェルの前に着地できるか?」
『ダイジョウブ!』
飛竜が翼をたたみ、滑るように降下する。風が耳元で唸り、髪を乱暴にかき回した。木々の間を縫い、砂煙を巻き上げながら着地――。
顔を上げると、驚きに目を丸くしたクェルが俺を見ていた。
最後までお読みいただきありがとうございます!
あなたの貴重なお時間を物語に使っていただけたこと、とても嬉しく思っています。
ちょっとでも楽しんでいただけたなら、何よりです!
もし「いいな」と思っていただけたら、
お気に入り登録や評価をポチッといただけると、とても励みになります!
コメントも大歓迎です。今後の執筆の原動力になりますので、
どんな一言でも気軽に残していただけたら嬉しいです。
これからも【悠久の放浪者】をどうぞよろしくお願いします!