第百三十一話「飛竜の頼み事」
風が容赦なく顔を叩く。身体が宙に浮いているという現実が、遅れてやってきた恐怖とともに脳裏に押し寄せてきた。
強い風にさらされながら、俺は飛竜の大きな爪に捕まれたまま空を飛ぶ。でも、変な話だが、不思議と不安はなかった。
それはきっと、痛みがまったくないからだ。服をうまく掴まれているから、その尖った爪が俺に食い込んでいる感覚はない。もし俺を食料にするつもりなら、もっと乱暴に扱っているはずだ。
見上げると、巨大な飛竜の腹が空を遮っている。顔までは見えない。
「……おーい、なんのつもりだ?」
ためしに声をかけてみたが、反応はない。まあ、言葉が通じるとも思っていなかったが。
『主、大丈夫ですか? 私がこの無礼な飛竜を落として差し上げますが』
風の精霊であるアイレの声が、怒気を押し殺したようなトーンで頭の中に響く。思った以上に怒っているらしい。しっかり者のアイレにも、そういう一面があるのか。
「いいよ、今のところ害意はなさそうだし。それにしても……どこへ行くつもりなんだ?」
しばしそのまま空の旅を楽しむ。耳に聞こえてくるのは風を切る音ばかり。何匹かの鳥が遥か足の下を通り過ぎていく。
「空を飛ぶって、意外と気持ちいいな」
『主、それでしたら今度は私が』
「うん、また今度ね」
アイレとそんな会話をする余裕すらあった。
しかし空の旅は、突如として終わりを告げた。飛竜が急に速度を落とし、眼下に広がる渓谷へと降下を始めたのだ。
そのまま、岩肌に開いた巨大な巣穴へと滑り込んでいく。やがて、俺は地面にそっと降ろされた。
……今さらながら考えた。まさか、ここで俺を食べるつもりじゃないだろうな?
恐る恐る飛竜を見上げるが、殺気のようなものはまるで感じられなかった。それどころか、何かを訴えかけるような視線を向けてくる。
そして、俺の背中を、その大きな頭でぐいっと押してくる。普通ならその質量に吹っ飛ばされるところだが、意外にも押す力は控えめで、まるで遠慮しているかのようだった。
「わかったよ、わかったから……そう押すなって」
「キュウウ」
小さな鳴き声のような返事。飛竜はすぐに押すのをやめた。
まるで言葉が通じているみたいだ。
「……頭がいいってのは、本当みたいだな」
「キュ!」
俺の言葉に嬉しそうに鳴く。視線を交わすと、確かにそこには意思のようなものが感じられた。
暗い巣穴の中に足を踏み入れる。『光球』を発動して、辺りを照らすと——奥に、もう一体の飛竜が横たわっていた。
「……具合が悪いのか?」
俺をここまで連れてきた飛竜の目が、悲しげに伏せられる。その視線が、横たわっている個体へと向けられた。
まさか、つがいか?
その体はぴくりとも動かず、目を薄く開けているだけだった。
「ちょっと触るぞ? 動かないでくれよ?」
声をかけながら、ゆっくりと近づく。鼻先に、かすかに血の匂いが漂ってきた。巣穴の奥は岩と土に覆われていて、体液が染み込んだような赤黒い跡が点々とある。
外傷はぱっと見る限り見当たらない。俺は血のあとを追い、見つけた。
肛門のあたりから……血?
俺は思わず息をのんだ。
「これは……」
外傷はやはり見当たらない。鱗の下、皮膚が裂けているような様子もなければ、噛まれた形跡もない。
けれど、内側から流れ出てくるような血の色は明らかに異常だった。
「病気か、毒か……?」
俺の呟きに返事はない。当然だ。
目の前の飛竜は、言葉こそ発さないものの、その目に映る苦しげな光と、微かに震える喉元がすべてを物語っていた。
「……よし、やれるだけやってみるか」
俺はそっと手を伸ばし、治癒魔法の詠唱に入る。魔力を優しく丁寧に集め、傷ついた肉体を修復する力を飛竜に向けた。
金色の光が、まるで霧のように飛竜を包み込む。続けて、今度は解毒魔法だ。念のため二重にかけておく。
だが、目に見える効果はない。傷口が塞がるでも、動きが活発になるでもない。
……いや、違う。ほんの僅かに、飛竜の目が開き、口元がかすかに動いたような気がする。
「効いてない、わけじゃないんだな」
そう判断した俺は、繰り返し魔法を施す。治癒、解毒、また治癒――。
すると突然、飛竜が絶叫した。
「ギュ、ギュエエェェ!!」
あまりの鳴き声に俺は後ずさった。巣穴に反響するようなその叫びは、苦痛の極みに達したもののようにも、命の叫びのようにも聞こえた。
身体を震わせる飛竜の腹部が波打つ。そして――。
「……!」
肛門から、内臓のような塊がドロリと地面に落ちた。だが、それは臓器ではなく、固まりきった血の塊だった。腐臭と鉄錆のような臭いが鼻をつく。
その瞬間、飛竜の震えがピタリと止まり、全身から力が抜けたように見えた。
だが――。
「……生きてるな」
飛竜の瞼がゆっくりと持ち上がり、俺を見つめる。
怒りや警戒ではない。……感謝。そう感じさせる瞳だった。
「お前は、こいつの治療をして欲しかったんだな」
振り返って、俺をここに連れてきた飛竜にそう声をかける。
すると、そいつは頭をゆっくりと下げた。まるで礼を言っているかのような仕草に、思わず笑いが漏れる。
「お前ってやつは……律儀だな」
『キュウウ……ソウ』
「……ん?」
その鳴き声――ほんの一瞬、言葉のように聞こえた。「そう」と言ったような……。
けれど、まさかそんなはずはない。飛竜が人語を話すわけが――。
「……!」
気配を感じ、俺は急いで巣穴の入口へと目を向けた。そこには何匹もの飛竜が、こちらを覗き込むように立っていた。
「……君たちはなにかな?」
群れというには多すぎる。五匹、いや六匹か? その全員が、俺に向けて大きな目を瞬かせている。
害意はない。むしろ、何かを訴えようとしているように見える。
俺は背後にいる、ついさっきまで苦しんでいた飛竜のことから察する。
「もしかして、お前たちも……番が毒にやられてるのか?」
そう尋ねた途端だった。
「キュウウ!」
「ギュウギュウ!」
一斉に鳴き声が飛び交い、狭い巣穴がその音で震える。耳を塞ぎたくなるほどの轟音――。
だが次の瞬間、俺の頭の中に、確かに“意味”が届いた。
『タスケテ!』
『ウチモ!』
『シニソウ!』
「……マジか」
どうやら、俺の言語理解チートがここでも働いたらしい。鳴き声の意味が、頭に直接流れ込んでくる。
「……わかった。危ないんだな? みんなの巣に連れて行ってくれ」
俺がそう言うと、前に出てきたのは、最初に俺を攫った飛竜だった。
その巨体をかがめ、俺に肩を見せる。
『オレ、ノル、イイ!』
「……よし、乗せてもらうぞ」
俺は遠慮なく、その肩に飛び乗った。鱗が滑らかで、足場は意外としっかりしている。
次の瞬間、飛竜は崖へと身を乗り出し――そのまま、空へと跳んだ。
風を裂いて、空へ。
その背中に乗って、俺は群れの巣へと向かう。
――毒に侵された飛竜を助けるために。
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