第百三十話「飛竜のかどわかし」
「というか主、番なら俺たちができたのに」
カエリの何気ない一言に、俺の手がぴたりと止まった。
「……それは思いつかなかったな。次からはお願いするかもしれない」
『おう! 僕たちは寝ることなんてないからな! 任せてくれよ!』
鼻息荒く張り切る声に、つい苦笑してしまう。
夜の番なんて、そもそも俺たちがするべきだとばかり思い込んでいたけど、確かに精霊たちは眠らない。物理的な疲れもないし、集中力も切れない。これからはそういう役割も任せていけばいいのかもしれない。旅の効率を考えると、なかなか悪くない発見だった。
そんなことを考えながら、俺はまだ毛布の中で丸まっているクェルをつつく。彼女は小さく唸りながら、ゆっくりと目を開けた。
「ん~……もう交代ぃ……? まだ寝てていい……?」
子どものような甘えた声と、無防備な寝顔。栗色の髪がふわりと跳ねていて、寝癖がひどい。戦っているときの切れ味鋭い身のこなしと、今の姿が同一人物だとは思えないほどだ。
「起きてくれ。もう交代の時間だ」
「うぅ……あと三分……いや五分……むにゃ……」
「はい、却下。三秒で起きろ。でないと──」
「ひえっ、分かった分かった起きるーっ!」
脅しをかける前に飛び起きた。まあ、そのへんの勘だけはやたらいい。
それから俺は仮眠を取り、夜明けと同時に再び目を覚ます。火を消して野営の跡を片付け、簡単な乾パンとスープで朝食を済ませると、ようやく気持ちも落ち着いた。
この静かなひとときが、次に訪れる混沌の前兆だったとは、このときまだ誰も気づいていなかった。
予定通り、俺たちは魔物の探索を始めることにした。
「さて、歩くか」
「おっけー! 体ほぐすのも兼ねて、ね!」
とはいえ、俺たちがやるのはあくまで“徘徊”であり、実際の索敵は精霊たち──特にアイレとカエリの仕事だった。彼らの探知能力は非常に優秀で、半径数キロ以内なら微細な反応も拾ってくれる。
『主、この辺りには反応ありませんわ。もう少し奥に行ってください』
『あいよ。了解』
念話で返し、隣のクェルに伝える。
「クェル、もう少し奥に行ってみよう」
「ん、了解。足場も悪くないし、進みやすいね」
渓谷は深く、底には冷たく澄んだ川が流れていた。水面には朝の光が反射し、ちらちらときらめいている。ときおり水飛沫が飛び、小さな虹が浮かぶのが見えた。
周囲は広葉樹を中心とした豊かな森で、ところどころに針葉樹が混じっている。地面には湿った落ち葉と苔が広がり、足音が吸い込まれていくようだった。空気は少しひんやりしていて、深呼吸すると肺の奥まで冷たさが染み込んでくる。
その上空には──。
「キュエエッ!」
「キエエエー!」
何匹もの飛竜が、渓谷の上を旋回していた。大きな翼をはためかせ、時には岩肌すれすれを飛び抜け、時にはこちらを一瞥するかのように、低空でぐるりと旋回していく。
「……なんか、ほんとに喋ってるみたいだな」
「飛竜って頭いいんだっけ? ……ってか、また来たよ。あーもう、うっとうしいなー」
一際大きな影が、俺たちのすぐ横をすれすれに通過していった。突風のような風圧で体が一歩押し戻される。視界の端に、大きな翼と鋭い爪がちらりと映る。
「びっくりさせられるよな……。わざとやってるのか?」
「あいつら、威嚇してるのかな? それとも単に遊んでんのかなー」
「クェルはどう思う?」
「んー……なんとなくだけど、嬉しそうなんだよね。こう、テンション上がってるっていうか……興奮してる?」
なるほど。確かに、彼らは飛び抜ける前に鳴き声を上げている。キュエエッ、と甲高く、弾んだ声色で。まるで、俺たちの反応を見ているようだった。
俺たちは上空を警戒しながらも、歩を進めた。数度の通過を経て、次第に驚かなくなり、しまいには──。
「無視無視」
クェルが顔を上げることすらやめて、無関心を決め込む。その様子を見て、俺も真似をする。案の定、飛竜たちは何度も上を通過するだけで、特に害はなかった。
「あははは……。まあ、それが正解っぽいな」
俺たちは探索を続けた。森の風景に大きな変化はなく、精霊たちからも新たな反応はない。鳥のさえずりと風の音、そして周期的な飛竜の鳴き声。繰り返される同じリズムに、意識が少しずつぼやけていく。
──それが、油断だった。
「キュエエエ!」
まただ、と俺は思った。どうせ今回も──そう思って、完全に無視した。
しかし次の瞬間、世界が傾いた。
「……は?」
ふわり、と身体が浮く。いや、引っ張られた。何かが俺を、強引に持ち上げていた。
「うおおおおおおい!? ちょっ、なんだこれ、攫われてる!? マジかよ!!」
背中の服が引きちぎれそうなほど引っ張られている。視界が一気に開けて、足元の大地があっという間に遠ざかっていく。周囲の木々がミニチュアのようになり、風が耳元をビュウビュウと唸っていた。
『主!? 主、しっかり! 飛竜に攫われています!』
アイレの声が念話で飛び込んでくる。だが、そんな冷静な報告など、このパニックの前には焼け石に水だった。
「クェルーッ!!」
絶叫とともに、地面を見る。そこには豆粒のように小さくなったクェルが、ぽかんと口を開けて突っ立っていた。
「なにやってんのケイスケーーーッ!? おいこら飛竜、ちょっと降りてこいコラーーー!! ぶっ飛ばすぞゴラァ!!」
クェルの大声が聞こえてくるが、流石の彼女もこの高さまでは跳んでも届かない。
『主! いま、風の精霊で減速の術式を準備しています! 落下に備えてください!』
「落下!? やめろやめろおおおお!? 落ちるとか嫌だってば!!」
『……冗談ですわ』
「こんな状況で冗談やめてくれぇぇぇぇぇっ!!」
俺の悲鳴は、渓谷の空に虚しく響き渡った。体はまだ上昇を続け、飛竜の腹がすぐそこにある。まさか、本当に連れて行かれるとは……。
どうするよ、これ……。
「キュエエ……」
飛竜が小さく俺に向かって鳴いたような気がした。
まるで、「申し訳ない」とでも言うように。
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