第百十八話「大河を越えて」
「まだそれ見てるの?」
ぽつりとした声が背後から聞こえた。俺が船の揺れに身を任せながらスマホを眺めていると、すぐ後ろからクェルが顔を覗き込んでくる。
「ああ、クェルか」
視線を上げて周囲に目をやる。
リームさんは荷馬車の横で、荷物の紐を確かめている。細かく数を数え、記録しているらしい。
ダッジたち三人組は、揺れる船の上でも器用に寝ていた。ズートが横になり、バンゴがその隣で鼾をかいている。ダッジだけは起きている……と思ったが、目を閉じて微動だにしない。寝てるのか、寝たふりか、よく分からない。
川の向こう岸が近づいてきていた。
あと十数分もすれば、いよいよビサワだ。
「それ、楽しいの?」
クェルが俺の手元を覗き込んでくる。スマホの画面には、地球の青空を映した写真が表示されていた。
「ん、まあね。眺めてるだけだよ」
「ふぅん」
そんな曖昧な返事とともに、クェルは俺の横に腰を下ろす。
肩と肩が触れ合う。
クェルの肩は小さくて、意外と温かかった。
船の揺れに合わせて、彼女の栗色の髪の毛がふわりと揺れ、頬に触れる。
それだけで、胸の奥が少しだけざわついた。
何度も彼女を担いで走った。
その身体を支えて、時に背負って崖を駆け上がったこともある。
あのときは、そんなことを考える余裕すらなかった。
だが、今。静かな川の上。
無言で並んで座るこの空間に、不思議な感情が生まれていた。
クェルの横顔は、いつも通りだった。
小麦色の肌に、光の反射がちらつく。
整った目鼻立ちに、小さな牙。
耳の先には、ふさっとした毛がわずかに揺れていた。
ただ――今日は、どこか違って見えた。
向日葵のように明るい彼女の中に、少しだけ影を感じる。
柔らかく、でもどこか寂しげな風が吹き抜けたような、そんな印象だった。
「……故郷が近いのか?」
口をついて出た言葉は、俺自身の推測だった。
以前、彼女は話してくれたことがある。
スタンピードに飲み込まれ、壊滅した故郷の話を。だからこそ、彼女は冒険者になったのだと。
「そうだね。ここからなら大体、一週間くらいの距離かな」
クェルはそう答えると、ふっと笑みを浮かべた。
「私とケイスケが走って行ったら、一日か二日くらいだけどね」
その声は明るかったけれど、その瞳の奥には深い想いが沈んでいるように見えた。
「この依頼が終わったら、行ってみるか?」
俺の問いに、クェルは軽く首を振る。
「いや、いいよ。ヴァイファブールでは基本的に自由行動とはいっても、護衛が必要な場面はあるでしょ? 安全に帰るまでが依頼だよ」
「そっか」
「まー、あの連中は、好き勝手やりそうだけどね」
「確かに」
俺たちは同時にダッジたちの方を見た。
器用に重なり合って寝ている三人組。
静かな寝息が響いていて、まるで子供の昼寝みたいだ。
……あの三人が「護衛」として頼れるかどうかは、正直微妙なところだが、実力だけは本物なのは分かる。
すると、唐突にクェルが俺の耳に顔を寄せてきた。
「……気を付けなよ? その魔道具のこと、あいつも気づいてるからね」
息が耳にかかって、思わず身体が強張る。
だが、それ以上にその言葉の意味が、ずしんと胸に響いた。
クェルは俺から離れ、何でもなかったように立ち上がる。
小さな背中に風が当たって、マントがひるがえった。
……ダッジが、スマホの存在に気づいている?
たしかに、これまで人目につかないように細心の注意を払ってきた。
だが、ダッジは斥候職。観察眼と探知の力は、冒険者の中でも随一だ。
人の行動や持ち物に敏感なのも、当然と言える。
俺は思わずスマホをポーチの中にしまった。
この世界では異質なそれは、俺にとっても命綱の一部。
迂闊に誰かに奪われたり、利用されてしまえば、取り返しのつかないことになる。
クェルの忠告は、さりげないが明確だった。
その言葉の裏にある、彼女の思慮深さを思い知らされる。
「……ありがとな、クェル」
小さく呟くように言うと、彼女は振り返りもせずに手をひらひらと振って応えた。
やがて、船はゆっくりと対岸に着く。
船底が軽く岸に触れ、揺れが止まる。
乗船者たちがざわざわと荷物をまとめ始めた。
対岸――ビサワの大地。
船を降りた瞬間、空気が変わったのを肌で感じた。
川を越えたここは、これまで俺たちが歩いてきた領都周辺とはまるで違う空気が流れていた。
乾いた風。低く唸るような地鳴り。遠くに見える奇妙な建築物や、独自の文化を感じさせる旗や紋章。
まず目に入ったのは、多くの獣人たちの姿だった。
サンフラン王国側でもそれなりに見かけていたけれど、あちらはあくまで人間が大多数。こちら、ビサワでは逆に獣人が大半を占めていた。犬耳や猫耳、角のある者、羽の生えた者まで実に多種多様。彼らが入り混じって行き交うさまは、どこか幻想的ですらあった。
しばらく見とれていた俺は、リュックを肩に背負い直して前を歩くクェルの背を追う。舗装のされていない土の道に足を取られないよう注意しつつ、周囲の様子をうかがった。
建物は木造が多く、壁は土で塗り固められていて、サンフラン側の石畳の倉庫街とは趣がまるで違う。空気が乾燥しているせいか、風が吹くたび土埃が舞い上がって視界がかすむ。
だが、活気はあった。
露店には香草や干し肉、色とりどりの果物や香辛料が並び、獣人の商人たちが威勢よく客引きをしている。並べられた商品そのものは、対岸とそう大きくは違わない。それでもこの土地の空気と人々の勢いが、まるで異世界に踏み込んだような感覚を与えてくる。
「入国手続きはもう済ませたから、俺たちはそろそろ出発だ」
そう言ったのはリームさんだ。持ち込んだ荷物の申請も終えたらしく、あまり長居をするつもりはないらしい。確かに、目的地はまだもう少し先だ。
「さて、ここから先はちょっと気をつけて。下手したら魔物も出るからね」
軽い調子でそう言い放ったのはクェルだった。背丈は低いが、背負った長剣と軽装の鎧姿がよく似合っている。
「え、魔物?」
俺は思わず聞き返す。というのも、サンフラン側では魔獣の存在は聞いていても、魔物の話はほとんど出なかった。
「そう、魔物。ビサワの『大氾濫』の原因となったダンジョンから出てきたやつ。基本的に一定の場所から出られないように結界が張られてるけど、完璧じゃないから時々すり抜けてくる」
「でも、その場所ってここから遠いんじゃ……?」
「遠いよ。でも、魔物だからね。どこでも出てくるよ」
俺は息を呑んだ。魔物――魔獣とはまた別の脅威。ギルドで多少調べてみたけれど、その正体はよくわからなかった。姿も性質も、個体ごとにバラバラらしい。
「魔物か……俺たちは見たことあるぜ。ダンジョンの中でだけどな」
そう言ったのはダッジだ。俺と同じく船を降り、荷物をまとめながらにやけた顔でこちらを見てくる。
「おお。まあ、そんなに強いやつじゃねえよな」
巨漢のバンゴが腕を組みながらうなずき、ズートが無言でそれに続いた。
「ちなみに、それってどんなやつだった?」
「階層も浅かったからな。ゴブリンとかオークとか、狼とか、まあ色々だ。人語を話すわけでもなく、姿形は見慣れたやつだったな」
なるほど、やはり魔物といっても千差万別らしい。中には既存の動物や魔獣に似た姿をしているものも多いようだ。
だが、それだけではない。
魔物の中には、人と獣が融合したような異形の存在や、顔がいくつも生えた異様な怪物、あるいは何百本も触手を持つ肉塊のような、言葉では形容しがたい存在もいると聞いた。それらは災厄を呼ぶ存在として、恐れられている。
「ここら辺に出るやつは、ちょっと違うよ」
クェルが、珍しく語気を強めて言った。
「言ったでしょ、大氾濫のとこのやつだって。姿形はもちろん、ダンジョンの浅層で出てくるようなやつとは全然違うからね。油断してると、ほんとにやられるよ?」
軽口を叩くことの多いクェルにしては、真剣な表情だった。つまりそれだけ、警戒すべき相手ということだろう。
クェルほどの冒険者がそこまで言うのなら、今の俺では到底太刀打ちできない相手かもしれない。剣を握る指に力が入った。
「そっちに深入りしないようにするのが先決だな」
小声でそう呟くと、クェルがこちらを振り返った。
「ま、少なくとも今のルートなら出る確率は低いよ。だから緊張しすぎないで。恐れすぎると、逆に寄ってくるっていうからね」
「ジンクスみたいなもんか」
「そうそう」
そう言って、彼女はにっと笑った。
クェルを先頭に、リームさんの馬車、ダッジたちの大八車、そして俺は道を進み始めた。
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