第百十七話「ビサワの風、魚の香り」
ビサワ。
その名を聞くだけで胸が少しざわつく。未知の地への期待と、それを包む厚い霧のような不安とが、ないまぜになって。
「百を超える種族が暮らしている」
そんな話を聞いたのは、ミネラ村での暮らしの中でだったか。
深い森、険しい山、乾いた砂漠——一つの種族が支配するには、あまりにも環境が多様で過酷すぎる。
それゆえに、自然と「奪い合い」より「分け合い」が文化として根付いたのだという。
だが、穏やかであることと、無抵抗であることは違う。
かつて人間の軍が幾度となく侵攻を試みたそうだが、ラプトル大河を越えた先の大湿原で、例外なく敗走した。
「自分たちが害されるとなったとき、彼らは業火のように燃え上がる」
誰かがそう言っていた。なんだか、わかる気がする。
ビサワにはエルフやドワーフ、鬼人、小人といった「亜人」たちをはじめ、竜人、獣人といった大きな種族の括りがある。
その中には、かつての俺が「モンスター」と信じて疑わなかった存在も含まれていた。
たとえば、ゴブリン。
冒険者ギルドで討伐依頼を見たことがないのが不思議で、ハンスさんに尋ねたことがある。
その答えは「この辺りにはダンジョンがないからな。ゴブリンの発生自体がない」とのことだった。
ダンジョンで生まれた魔物や魔獣は、倒せば肉体は霧散し、魔石だけが残る。
しかし、ダンジョンから逃れ出て、年月を重ねたものは「実体」を得る。
どれほどの時間が必要なのか、俺には想像もつかない。
スケルトン、ゾンビといったアンデッドの存在も含めて、ダンジョンは今なお謎に満ちた世界だ。
金級冒険者『千里』は、そのダンジョンを研究するために冒険者となり、やがて頂点にまで上り詰めたという。
今ごろ、どこかのダンジョンの深部で、彼もまた未知と格闘しているのかもしれない。
そんなことを考えていると、騒がしい声が宿の玄関から響いてきた。
「へへっ、見ろよこの顔!」
「やっぱオレたち、やればできんじゃねーか!」
声の主はダッジたち。どうやら今日の依頼で良い報酬を手に入れたらしい。
上機嫌な三人が顔をほころばせて食堂に入ってくると、場の雰囲気は一気に明るくなった。
夕食の時間。
宿屋の食堂で、リームさんが杯を掲げる。
「明日にはビサワに入る。これも皆の働きのおかげだ」
それを合図に、皆がグイと酒を呷った。
俺の手元にも同じ酒がある。名前は「ブルール」
この地方の特産で、柑橘に似た果実から作られた、ほんのり苦くて甘い冷酒だ。
口当たりがよく、乾杯にはぴったりだった。
次々に料理が運ばれてくる。
中でも目を引いたのは『ラプトルゴンドル』という巨大魚の香草焼きだった。
ざっと見て一メートルはある。これを頼んだのはクェルだ。
爆足のクェル。銀級冒険者であり、肉体強化魔法の使い手。
日焼けと小傷跡の残る肌、栗色のミディアムショート。
その豪快さに反して、仲間に気を配る不思議なバランス感覚を持っている。
普段は金遣いが荒くない彼女だが、こういった場では惜しまず奢ってくれる。
「みんなで食べようよ!」
クェルの一声で、ダッジたちが歓声をあげた。
「さすが爆足!」
「ありがてえぜ!」
「……うまそうだ」
俺もつられて笑ってしまう。
彼女はウザ絡みや無茶ぶりが多くて、冒険者仲間から敬遠されがちだけど――。
こうやって皆と同じ釜の飯を分け合う姿を見ると、彼女の人柄が少しずつ理解できる気がする。
そんなクェルはとにかくよく食べる。
小柄な体のどこにそんな量が入るのか、毎回不思議に思う。
バンゴやズートのような巨漢ならともかく、クェルの食欲はそれ以上だ。
俺自身も肉体強化魔法を使うことが増えて、食べる量が明らかに増えたけれど、まだまだ足元にも及ばない。
「明日からが本番だな」
リームさんが静かに言う。
この旅が、無事に終わりますように。そう願わずにはいられない。
宴の席が続く中、ふと俺は窓の外に目をやった。空には月が三つ、静かに浮かんでいる。視線を落とせば、遠く水面に朧げな三つの月が写っていた。
目的地の『ヴァイファブール』まではあと三日。
今回の種族会合は、そこで開かれる。年に二回、春と秋に持ち回りで開催されるらしく、前回はもっと奥地だったそうだ。
ビサワでは、こうした会合を中心に交流と経済をまわしていて、イベント会場には誰でも入れる仕組みだ。外部には開催地の情報は出さないが、リームさんは春の開催地を把握していて、今回はそこを目指しているというわけだ。
翌朝、そんな話を思い返しながら、俺たちはガレー船のような大型の渡し船に乗っていた。馬車も積めるし、ダッジたちの大八車も余裕で乗せられる。もちろん、それなりの金額を払ったけど、そこは彼らも文句を言いながらちゃんと支払っていた。
で、驚いたのがこの船の動力だった。
なんと――動物が曳いている。
ラプトワ大河の水は茶色くて透明度は皆無。全体像はよく見えないが、水中で巨大なあざらしのような生き物が、十頭ほど、船を曳いているのだ。
「オウッ! オウッ!」
そんな鳴き声が絶え間なく響き、十頭もいればさすがにうるさい。でも、なんというか、のどかだった。
進みはゆっくりだが、重たい荷を引いてると考えれば、十分に速いのかもしれない。俺は船縁に腰をかけながら、旅の道のりをぼんやりと思い出していた。
ハンシュークを出て、南下。途中、町をひとつ、村を三つ経由してきた。最後に寄った村を出たのは、ちょうど二日前だったか。
そういえば――スマホのアップデートがあった。
久しぶりすぎて、正直、ちょっとテンション上がった。魔道具のふりをしてこそこそ確認していたら、案の定、クェルに見つかった。
「それ、何ができるの?」
俺はごまかしつつ、「記録したり確認できる」とだけ答えた。通信やネットなんて、この世界じゃ夢のまた夢だからな。
でも、今回のアップデートで新しく追加された機能には、さすがに驚いた。
『魔法詠唱登録機能』
つまり、詠唱をスマホに登録しておけば、短縮コマンドで魔法が使えるというものだ。
例えば、光球――『フォティノ』を登録しておけば、「光球」と言うだけで発動する。しかも、省略名は任意に設定できる。
「極端な話、『ピカッ』でもいけるな……」
思わず口に出して、ひとりで苦笑した。
この機能、うまく使えば戦闘時に詠唱の隙をなくせる。魔法と相性がいいなら、本当にとんでもない戦力アップになるかもしれない。
「だが、目立ちすぎるのも怖いな……」
スマホの正体がバレたら、間違いなく厄介なことになる。だから、慎重に使うべきだ。詠唱魔法の短縮……これは、俺の力を次の段階に引き上げる鍵になるかもしれない。
そんなことを考えながら、ゆっくりと大河を渡る船上で、俺は目を閉じた。
湿った風が、どこか嗅ぎなれない臭いとともに、俺の背中を撫でていった。
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