第百八話「無情の現実」
残酷な描写がありますのでご注意ください。
「あれが盗賊のアジトだよ」
クェルの指差す先には、木と石で組まれた簡易な砦のような建物が見えた。
塀は木製で、いくつかの櫓が設置されている。
見張りがひとり、入口と思われる場所のかがり火のそばで、あくびを噛み殺しながら立っていた。まるで緊張感がない。塀の中までは見通せないが、想像よりも大きな構造だ。
「ここから先は、会話禁止ね。何かあったら私が合図するから」
クェルがそう言って、手を振る。
「……了解」
俺もそれに応じると、彼女は地を蹴って動き出した。
まるで風のように滑らかな動きだった。クェルは見張りに近づくと、無造作に剣を振る。鈍い音と共に、男の首が落ち、体が崩れ落ちた。
「……っ!」
思わず、小さく声が漏れた。だがそれ以上は出ない。鼓動の音がやけにうるさく聞こえた。
クェルは倒れた盗賊の死体を草むらに引きずり、何事もなかったように手で合図する。俺は気持ちを落ち着ける間もなく、その指示に従って彼女のもとへと進んだ。
――クェルは、殺した。
当たり前のことかもしれない。でも、俺の中で何かがずしりと重くのしかかった。殺しに迷いもためらいも見えなかった。ただ、任務の一部として、当然のように行動していた。
そんな俺の心中を察したのか、リラの声が響く。
『ケイスケ、今は考えない方がいいよー』
それが慰めなのか、忠告なのか、判断はつかなかった。
塀の中に足を踏み入れると、井戸と畑、そして大きな建物が目に入る。櫓の上にはもう一人、見張りがいるようだが、全く動きがない。眠っているのか、それとも酔いつぶれているのか。
俺は周囲を注意深く観察しながら、クェルの後ろについて歩いた。音を立てぬよう慎重に足を運ぶが、板張りの床はきしみ、完璧に音を消すことはできない。
それでも、大広間に入ってすぐ、彼らの警戒心の薄さが分かった。
盗賊たちは十人ほど、食卓を囲んで酒を飲んでいる。談笑し、叫び、怒鳴り合い、女のような甲高い笑い声すら混じっていた。壁にもたれかかっている者、ソファで寝そべる者、どいつも酔っていた。
食卓の奥、重々しい椅子に鎮座するのは、ひげ面の大男。恐らくこいつが親玉だろう。
クェルはそんな中を、まるで風のように歩き、奥の開いた扉へと向かう。何事もなかったように。
奥の部屋から現れた野卑た男はにやつく顔をして広間に入ってきた。
俺はひとつ、深く息を吐く。鼻をつく酒と腐った食べ物の匂いに吐き気がこみあげるが、それよりも彼らの会話の内容の方が気になった。
「終わったか? 次は誰だ?」
「グーノのやつじゃねえか? 今見張りやってんだろ、誰か代われ」
「具合はどうだった? まだ使えるか?」
「あー、もう反応ねえっす。そろそろ処分ですかね」
「十日か……もったほうだな」
攫ってきて十日――その言葉が、俺の中で引っかかった。
言葉が、まるで毒だった。なんの会話なのか。彼らの態度から少し想像すれば容易に理解できた。理解するたびに、脳が焼かれていくような気がした。
そうではないと信じたい。
でもここは盗賊のアジトで、こいつらは盗賊で……。
「最初は泣きわめいて締まりもいい感じだったがな。そうだな、そろそろ処分するか」
「新しいの攫ってこなきゃっすね」
「だな」
処分? 家畜のような扱いだ。
女性がいるのだろう。
攫ってきた女性を、物のように扱って、壊れるまで弄んで、最後は“処分”するというのか。
怒りで手が震えた。拳を握ると、爪が掌に食い込んだ。だが、それすら感覚が鈍く感じるほど、心が冷え切っていた。
あまりに生々しく、あまりに汚い。誰かがこの奥に囚われている。それも、生きているとは到底言い難い状態で。
「ボス。バラすのは、俺にやらせてくれよ」
「あー? まあいいけどよ、先生に聞いてからだな」
「あっ、そっか、忘れてた」
「そういう契約だからな。忘れんなよ? 勝手なことはすんな」
「へーい」
どこか間延びしたその会話が、逆に恐怖を引き立てた。悪びれた様子など一切ない。あいつらは、誰かを道具のように扱い、それを当然のように消費し、処分しようとしている。
クェルが、開け放たれた奥の扉に向かって歩き出した。俺は……正直、足が動かなかった。
行きたくない。見たくない。
『ケイスケ、行っちゃうよー?』
影の中からリラの声がする。それは軽い調子なのに、妙に心に刺さる。
「……わかってる」
呟くように答え、足を動かす。油の匂いと、古い木材の湿気が入り混じる通路。厨房、倉庫、寝室。どれも荒れ放題で、人がまともに暮らせるような場所じゃなかった。
そして、一番奥。
扉の向こう、一歩足を踏み入れた瞬間、鼻を突く臭気に思わず息を止めた。
――生臭い。血と腐敗と、何か得体の知れない、生の臭いが混ざり合っている。
かすかな明かりの中、ベッドの上に横たわっていたのは――女性だった。
両手首を鎖でベッドの枠に固定され、全裸のまま、身じろぎ一つしない。かろうじて胸が上下していることで、辛うじて生きているとわかる。しかし、それはただ「命がある」というだけで、人としての輪郭はほとんど消えかけていた。
肌には無数の痣、裂傷、内出血。口元は半開きで、歯が……ない。歯が、全部抜かれている。
目は虚ろで、光を宿していない。もはや、見えているのかどうかすらわからなかった。
「……もう、駄目だね」
クェルが、小さな声で呟いた。
俺は言葉を失っていた。手足が凍りついたように動かない。あまりに無惨で、あまりに……残酷だった。
この女性は、攫われて十日間――こんな地獄を生きていたのか。
思わず目を逸らした。その視線の先に――さらなる悪夢があった。
『……子供の死体だねー』
リラの声が頭に響く。それでも、認識したくなかった。
そこにあったのは、小さな、小さな遺体。まだ幼児と呼べるほどの歳の子供だった。
体中に無数の痣と裂傷。明らかに……何度も暴行を受けた痕跡。
目を背けようにも、もう目を離せなかった。その小さな体が何をされたのか、想像してしまう。それが、あの女性の……子供だったのかもしれないと、勝手に結びつけてしまった瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
「……っ!」
こみ上げるものを抑えきれず、俺は部屋の奥に駆け込んだ。そして、床に膝をつき、全てを吐き出した。
びちゃびちゃと音を立てて、胃の内容物が床に広がっていく。臭いと、苦しさと、どうしようもない怒りが混ざり合って、涙が勝手にあふれてきた。
見つかるかもしれない? どうでもよかった。
人間の所業じゃない。クェルの言っていた通り、あれは――あいつらは、もはや人間の姿をした何かだ。
「ケイスケ」
クェルが、静かに声をかけてきた。
その声は、いつもの調子じゃない。明るくも、軽くもない。鋭く、まっすぐで、俺の心に刺さる声だった。
「覚悟は、決まった?」
問う声だった。人を殺す覚悟。
震える手で、口元を拭い、涙を腕でこすって、俺は顔を上げた。
クェルの瞳が、まっすぐに俺を見ている。ふざけた笑みも、気安い態度もない。ただ、本気で俺に問いかけている。
「……決まった。殺そう」
こいつらは、もう人じゃない。魔獣でもない。もっと、下劣で……絶対に、生かしておいてはいけない存在だ。
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