18
現在、リセロットたちの目の前には白だけがあった。空は白い雲で覆われていて、地は一点の曇りもない雪が占めている
柔らかい雪の上を歩き、リセロットの迷子レーダーだけを頼りに進む。
立ち止まることは出来ない。そこで埋もれてしまうからだ。
「アーサー、大丈夫ですか?」
「う、ん……リセロット、なんだか俺、すっごく眠たい」
「…………」
男の矜持がなんだというのは、今は忘れていただこう。
リセロットはアーサーを担ぎ上げ、走り出した。
アーサーはぐったりとしていて、体は氷のように冷たい。
風の流れに逆らうように走る。視界が不明瞭で、自分が何処にいるのかすら分からない。
ゴオオと一際強い風が吹いた。飛ばされそうになるのをぐっと堪える。
「どこか、休める所は――」
必死に走っていれば、雪で包まれた世界で、茶色が映った。
目を凝らせば、茶色い家があり、僅かにオレンジ色の光が漏れている。
「アーサー、建物が見つかりました。あと少しです」
「あ……う、ん」
アーサーが死にそう。
身につけていたマフラーを取り、アーサーに巻きつける。
もう一度抱え直してから、リセロットは全速力で走り出した。
◇◇◇
扉を叩けば、お爺さんが出ててきた。元々の体はヒョロリとしているのだろうが、着ぶくれしていて体の原型は分からない。
お爺さんは凍えたアーサーを見て、すぐに中に入れてくれた。
暖炉の前にアーサーを転がす。
真っ赤な指先を握りしめその瞼が動くのを待っていれば、熱で溶けた雪の雫が乗ったまつ毛が震える。
雫は頬を伝い、ふかふかのカーペットに吸い込まれていった。
「……リセ、ロット」
「大丈夫ですか?」
まだぼんやりしているアーサーは、宙を向きながら呟く。
「なにか、男としての矜持を失ったような、気がする」
「気の所為ですね」
「なにか……」
「気の所為ですね」
彼のなけなしの矜持を守ってやろうと否定を続ける。
アーサーの唇に赤みが戻ってきた所で、お爺さんがカップを二つ持ってきた。
「茶だ。熱いから気をつけて飲め」
「なにからなにまで、ありがとうございます」
お爺さんは軽く会釈をしてから、リビングに置いてある一人掛けのソファに座った。毛布を膝に掛け、眼鏡と本を手にする。
どうやらそれが、お爺さんのいつものスタイルなのだろう。
すっかり本の世界に行ってしまったお爺さんに、礼をする。
カップ越しに伝わる熱はじんわりと温かく、アーサーも嬉しそうに飲んでいる。
唇を尖らせ息を吹き、ちょっとずつ飲み進める。それを繰り返していたアーサーは、リセロットがまだ飲んでいないことに驚いた。
「飲まないの?」
「熱いものは苦手です」
リセロットの返答に、アーサーは不思議そうに形の良い眉を上げた。
「あれ?」
「なんです」
「いや、初めて俺がリセロットの家に行った日、言ってたよね? 『ずっとお湯を沸かしているので、熱いお茶、飲めますよ』って」
カップに息を丹念に吹き込みながら「ああ」とリセロットは頷いた。
「良く憶えていましたね、そんなこと」
「リセロットのことだから」
「そうですか」
リセロットは揺れる茶の水面を見つめる。
「……博士が、熱いお茶を好きだと言っていたんです」
「…………」
「戦争が終わったと聞いて。いつ帰ってくるか分からなかったから、ずっとお湯を沸かしていたんです。帰ってきた博士に、すぐ熱いお茶を出してあげられるように」
顔を上げれば、水面のようにアーサーの表情が揺れていた。ゆらゆらと、何処か覚束ない表情をしている。
アーサーはなにかを言いたそうに口を開いてから、それを誤魔化すように茶をすすった。
「……博士を、ずっと待っていたんだね」
「ええ。きっとそういうことなんでしょう」
瞼を閉じれば、あの笑顔がいつでも側にある。
「それに、もう一度会って、言いたいこともあったんです」
「そっか」
「……アーサー?」
気づけば、アーサーは床にカップを置き、膝を抱え座っていた。
揺さぶれば、力なくアーサーはカーペットの上に倒れる。
額に手のひらを重ねれば、リセロットは熱の高さに息を呑んだ。
あの寒さの中にいたのだ。熱を出しても可笑しくない。
どうしようかと悩んでいると、いつの間にかお爺さんが側にいた。
アーサーを軽々と抱える。
「客人用のベッドがある。そこで今晩寝れば、明日には熱は下がっているだろう」
「すみません」
「行くぞ」
お爺さんの後ろをついていけば、一室に辿り着く。
中にはベッドとテーブルが一つずつ置かれていて、窓には厚いカーテンがかかっていた。
お爺さんは布団を捲り、アーサーを寝かせた。毛布と毛布が重なり、その上に厚い布団が乗る。ベッドがこんもりと盛り上がった。
苦しそうなアーサーの額を撫でていると、肩を掴まれた。
「熱いからといって布団をとれば、ここでは命取りになる。可哀想に見えるかもだが、そのまま寝かせろ」
「なるほど。勉強になります」
気難しげな顔のお爺さんは、リセロットを招いた。
「側にいられても寝れないだろう。行くぞ」
「はい」
不規則な寝息に後ろ髪引かれながら、リセロットはその場を後にした。
◇◇◇
リビングに戻ったリセロットは、改めて頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます。そして今更ですが、私はリセロットと言います。寝込んでいる彼はアーサーです」
「……そうか。久しく人と会っていなかったから、俺も名乗るのを忘れていたな。オークリーだ、よろしく」
「はい」
そこで腹の虫がなく音が聞こえた。
オークリーがお腹を押さえている。
「なにかお作りしても良いですか?」
「良いのか?」
「はい、どの材料なら使って良いかを教えていただければ」
オークリーがリセロットを手招きする。
キッチンの奥に続く扉を開ければ、冷えたそこには食べ物が入っていた。
「ここにあるものなら、なんでも使って構わない」
「分かりました。では、シチューでも作りましょうか」
オークリーのお腹がもう一度鳴った。
「……シチューか。楽しみだな」
「得意料理ですので、楽しみに待っていてください」
ソファに座って待っているよう促すと、オークリーはソワソワとしながらも渋々ソファに座り本を開いた。だが気がそぞろがようで、ページは一ページも進まない。
リセロットは早く作らなくては、と早速調理に取り掛かる。
人参やキャベツを食べやすい大きさに切り、塊肉も一口サイズにする。
バターを溶かした鍋に塊肉を入れ、氷が溶けるよう弱火で炒める。そこに人参とキャベツも入れ、人参が柔らかくなったら小麦粉を入れた。
ゆっくり、焦がさないように小麦粉を練っていく。
「これくらい、ですね」
水と牛乳を入れた後、慣れた手つきで味を調えたリセロットは、一口味見をしてから火を止めた。
とろとろしたシチューからは、温かく美味しそうな匂いがする。
すっかり本を机の上に置き、こちらをチラチラ見ていたオークリーに、リセロットは皿を見せた。
「どれくらい食べますか? 沢山ありますよ」
「出来るなら沢山ついで欲しい」
「分かりました」
後でアーサーに届ける為に一人分を鍋の中に残し、リセロットは席に着く。
既に着席したオークリーが、木のスプーンを握りながら今か今かと待っていた。
「では、いただきます」
「ああいただきます」
外ではまだ雪が降っているのに、家の中は温かい。
暫く無言でお互い食べていると、ポツリとオークリーが呟く。
「こういうのも、悪くねえな」
「オークリーは、何故一人なのですか?」
木のスプーンですくった人参をふぅふぅ冷ます。
「こんな冬の中なら、誰か人の助けがあった方が良いのでは?」
「……こんな雪の中を過ごす奴らに、他の誰かを助けようなんていう奴はいねえよ。半端に助けたら、相手だけじゃなく、自分まで死ぬような所なんだ」
轟々と雪が降っている。
冷えたアーサーの体を思い出す。
簡単に人の命など奪えてしまう雪の中は、自分以外のモノを見えなくする。
「そんなに大変なのに、私たちを助けてくださり、ありがとうございます」
「良いんだよ。元々、迷った奴らの為に食料は多く備蓄してるんだ」
「優しいんですね」
なんの飾り気もない言葉にオークリーは顔を赤くすると、「食べ終わったら、あいつの所にも運んでやれ」とシチューを食べながら言った。
やはり優しい。
寒さとは真逆の感情は、とても温かい。
温め直したシチューを器によそい、アーサーの下へ行く。
扉を開けると、規則的な寝息が聞こえてきた。
傍に行き、額に手を置く。熱はだいぶ下がったようで、明日の朝にはすっかり下がっているだろう。
起こそうか悩んでいると、アーサーがじわりと目を開ける。
「リセロット……」
「大丈夫ですか、アーサー。ご飯、食べれます?」
「……うん」
のそりと体を起こしたアーサーの口に、スプーンですくったシチューを寄せる。
「自分で食べれるよ、リセロット」
「では、どうぞ」
スプーンを手に持たせるが、アーサーの手が震え、皿に盛られたシチューの上に落下した。
「ごめん」
項垂れるアーサーを慰める。
「こういう時くらい、頼ってください」
差し出したスプーンを見つめてから、パクリ、とアーサーがシチューを食べた。
「早く元気になってください。博士の下まで、あと少しですし」
知らず知らずのうちに、リセロットの頬が緩む。
刹那、アーサーの表情が凍りついた。
「アーサー?」
応える代わりに、リセロットの肩に手を置いた。
異変を感じ取ったリセロットが、シチューを床に置き、アーサーの手に自らのを乗せる。
「どうしたのですかアーサー、なにか変です――」
「ごめん、リセロット」
リセロットの呼吸が止まる。
アーサーは顔をくしゃくしゃに歪め、涙を流していた。
「ごめん、ごめんなさい。博士の死体は、もう何処にもないんだ」
「……? どうしてそんなことが分かるのですか」
嗚咽を上げるアーサーの体を揺さぶれば、「ごめんなさい」と彼は繰り返す。
「俺は、隣国の人間なんだ。冷たい、寒い国で、生まれたんだ」
段々、涙で言葉は不鮮明になる。
だけど確かにリセロットには聞き取れ、目の前が真っ暗になった。
――俺が、博士を殺したんだ。
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