15
「博士という名前には、覚えがあるようですね?」
「……ああ、まあね」
「博士は貴女の子供で、間違いないですよね?」
強い色を宿した瞳にたじろぐように、女将は小さく頷いた。
「そうだね。……あの子、まだ自分のこと博士って言っていたのかい」
「――どうして、迎えに来なかったのですか? 博士は、ずっとずっと貴女を待っていたのに」
ゆらりと女将が顔を上げた。
「あの子が六歳の頃、旦那が死んだ。それから我が家は、その日食べる物にすら困るようになったんだよ。子持ちじゃ、接客業などへの就職が難しかった。頼れる親もいなかった。
だから決めたのさ。あの子だけでも、誰かに引き取ってもらおうと。そして、当時あの森に住んでいた魔法使いに頼むことにしたんだ。あの子、魔法の才能もあったみたいだから」
女将はふと窓の外を見つめた。
「それからは、この街に来て、働き初めたよ。旦那も、子供も最初からいなかったことにして。……そうしないと、夜眠れなくて仕事に支障が出たからね」
彼女の顔に、笑みはない。
「生活が安定して、迎えに行くことも考えたけどね。もうあの子はあたしのことなんて忘れただろうし、覚えていても、あたしのことを恨んでいるだろうと思って結局行かなかった」
「――博士は、覚えていましたよ。そして貴女のことを愛していました。それは、貴女の勝手な憶測です」
そこでリセロットはようやく口を開いた。
「博士は、いつか貴女が迎えに来てくれると思っていた。でも来なかった。だから私を作った」
迷子レーダーを、わざわざリセロットに付けた理由。
「魔法で作った、人間に最も近い人形。魔法使いが到達したい最高点。そこまで行けば、きっと貴女が迎えに来てくれると思っていたから」
リセロットは顔を歪め「どうして」と呟く。
「博士の頑張りの、なにが足りなかったのですか? 博士は、片付けも出来ないし小汚いしご飯も一人ではロクに準備も出来ない駄目駄目な人です。だけど決して悪人ではなかった」
「なにが言いたいのかい?」
女将は感情の全てを消している。反対にリセロットは、表情で、握りしめた拳で、感情を表現していた。
「……っ博士はもう死んでしまったんです! 取り返しが付かないんです! そんな博士に言うべきことが、あったでしょう!? 生きている時に言わなくてはいけないこと、言ったら、博士が救われた筈の言葉!」
もう全てが手遅れで。博士は死んでしまったから、既に泡沫となった言葉。
「どうしてその言葉を、早く言いに来てくださらなかったのですか!! そんなにも博士は貴女にとって、どうでも良かったのですか!」
アーサーがリセロットの背中を撫でる。
息を荒げていたリセロットは、背中を撫でられる感触に冷静さを思い出し、女将を怒りではない表情で見つめた。
「博士はもう、死んでしまったんですよ……」
それっきり、リセロットは口をつぐむ。
俯く彼女を見ながら、ゆっくりと、女将が口を開いた。
「ずっとあの森にいたんなら、ずっとあたしが付けた名をしていたなら、確かに会いに行くべきだったかもね」
「――いいえ」
顔を上げたリセロットは、いつものように静かな表情だった。瞳だけが、強い光をたたえている。
「博士が例え、もうあの森にいなくても、貴女の知っている名前じゃなくても、会いに行くべきでした」
「……そうかい」
今度は女将が顔を俯かせる。
その表情は『無』ではなかった。
「では、さようなら。怒鳴ってごめんなさい。私たちは明日、ここを立ちます」
アーサーにそっと背中を押されながら、リセロットは自室へと帰っていく。
女将はその場に立ち尽くしたまま、二人が階段を上る音をずっと聞いていた。
◇◇◇
階段を上る音は、昔、『博士』と呼んでいた我が子が、自分に褒められるのを強請りに来る音と似ていた。
「おかーしゃん。見て〜」
四歳の息子が見せた淡い光を、母親である彼女は笑って褒める。
「さすが『博士』。魔法が使えるなんて凄いわね」
「うん。僕大きくなったら、偉大な魔法使いになっておかーしゃんたちを助けるの」
「ありがとう」
愛しい我が子の髪を撫でながら、彼女は火を止め器にシチューを盛った。
「わあ、今日はシチューなの?」
「そうよ。いっぱい食べてね」
「うん。やったあ」
父親ももう少しで帰ってくる筈だ。
そう思いながら息子の「もっと盛って」という声に応える。
とても幸せで、愛おしい日々だった。
だけど、息子が六歳の時に病が流行った。
高い薬を買うことが出来るなら、治るような病だった。だから貧しい者から死んでいった。
彼女の夫もその一人だった。
流行り病で死んだ者は汚らわしいとされ、一緒くたに土に埋められる。墓さえ作られない。
彼女は夫の身体が埋められていく様を、ずっと眺めていた。
じっと考える。これから自分はどうするべきなのか。
夫が床に伏してから、家計は火の車となった。元々蓄えなんてなかった。
働こうとした。しかし病人が出た家の者を雇いたくないと門前払いされた。
息子の頬がコケてきて、自分の分の食べ物もあげ、彼女の頬はよりコケていた。
助けてくれる人はいなかった。皆自分のことで一生懸命だったから。人に優しくするには余裕が必要だった。
明くる日の朝。死んだように眠る息子の顔を見て、母親は決意した。
街を出ることを。そして、息子を置いていくことを。
『どんなことがあっても、この子を守ろう』
いつかの夫がくれた言葉を都合が良いように判断して、息子を魔法使いが住んでいるという森の前に連れて行く。
人里から離れ暮らす魔法使いなら病からも逃れられているだろうし、この子に魔法を教えてくれるかもという身勝手な淡い期待を抱いて、この手を引く。
小雨が降っていた。
森の前で手を離された息子は不思議そうな顔をしている。
「おかーしゃん?」
「ここに人が来たら、その人と一緒に暮らしてね。……ごめんなさい、オリヴァー」
走り出した彼女は、離れた所で子の姿を、木に隠れながら見た。
事前に手紙は送っていたが、本当に来てくれるのだろうか。
お願い、と祈る。
そして、森の向こうから一人の老人が来て、暫くした後に息子の手を引き森の奥へと消えていった。
良かった。そう安堵する。
一粒水が、彼女の頬を伝った。次から次に、溢れ出す。
雨が強く降りしきり、町を灰色に染める。
嗚咽を上げる彼女を、雨のヴェールがそっと隠した。
その日の内に、彼女は旅立った。
「私」という一人称を変えた。
喋り方を変えた。
もう夫にも、子にも合わせる顔などなかったから。
それから何十年もの時が過ぎた。
一人、宿の椅子に座りながら空を見上げる。
今日自分が髪を結った少女の言葉を思い出す。
博士は、ずっとずっと貴女を待っていたのに。
――そうだった。あの子は甘えたがりで、いつも自分にくっついていた。そんな子が、待っていない訳がなかった。
博士は、いつか貴女が迎えに来てくれると思っていた。
――本当にごめんなさい。
魔法で作った、人間に最も近い人形。魔法使いが到達したい最高点。
――それを、あの子が作れるようになっていたんだね。凄いね。
そんなにも博士は貴女にとって、どうでも良かったのですか!
――良くはなかった。だけど自分には学がなくて、あの時は自分のことだけで精一杯で、より良い方法を導き出せなかった。
博士はもう、死んでしまったんですよ……。
「――ああ、それなら、会いに行けば良かったねえ」
テーブルの上に、丸い水がポタポタと広がる。
胸が痛くて痛くてしょうがなかった。
「親より先に死ぬなんて、そんなバカがいるかいっ。生きて欲しくて、生きて欲しくて、ただ、それだけだったのにさぁ……っ」
願いは一つだけだった。
自分を恨んで構わない。
罵ってもいい。
むしろ嫌いでいて欲しかった。
ただ生きていてさえくれれば、それだけで良かった。
「あぁ……っ、うああああっ!」
咆哮が、高く高く天に昇っていく。
それを聞いている者が、一人だけ。
リセロットはベッドに体を横たえながら、目を伏せている。
唇を引き結びながら、手を握りしめた。
一人の母親の後悔を、いつまでもいつまでも、彼女は聞いていた。
一つの悲劇の、たった一人の観客だった。
◇◇◇
朝起きて、のそのそとトランクに物を詰めていると、扉が叩かれた。
アーサーの声に、リセロットは「今行きます」と簡潔に返す。
部屋の外にはアーサーが待っていて、リセロットを深く慮る表情を浮かべていた。
「おはようございます。……昨日は、感情的になり過ぎてごめんなさい」
「うん、いいよ」
優しく頷くアーサーにリセロットは安心したように肩の力を抜き、それから一階に行くことにした。
一階では、既に女将が料理を作っている。
今日の朝食は、ロールパンと具沢山のスープだった。
皆が、普段と変わらず仲間内で話しながら、美味しそうに食べている。
「……女将さん、おはようございます」
「ああ、おはよう。良く眠れたかい?」
「ええ」
リセロットが話しかければ、昨夜のことなんてなかったように女将は笑った。
席に着きながら、アーサーと他愛も無い話をして朝食が来るのを待つ。
暫くすれば、女将が二人分の朝食を持ってきた。
「はい。熱々だから気をつけなね」
「お気づかい感謝します」
「ありがとう、女将さん」
皿を机の上に置いてから、女将はエプロンのポッケから小さな紙袋を取り出した。
リセロットの手のひらを握り、その上にポンと置かれる。
シナモンの香りが鼻腔をくすぐった。
「……ねえ、オリヴァーはシナモンクッキー、あんたと暮らしている時も好きだった?」
リセロットはオリヴァーという名は知らない。
だけどその名は博士のモノだと、すぐに理解できた。
「はい。研究に行き詰まった時は、良く食べていました。ずっとずっと、博士はシナモンクッキーが大好きです」
女将は目じりに涙を溜めて笑う。
「そうかい、それは良かったよ。そっちのお兄さんと一緒に、良かったら食べて。――それから、近い内に、あの森を尋ねるよ」
リセロットが息を呑む。
「まだ、心の整理はつかないけど」
「お待ちしております。いつまでも」
女将は水で荒れた働き人の手でリセロットの頭を撫でてから、背を向け厨房へと帰っていった。
「良かったね、リセロット」
「はい」
一枚ずつ、二人で食べる。
さっくりとしたクッキーは、子を想う優しい母の味がした。
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