1.事件
「面倒な事この上ない。」
朝からこのセリフを何度聞いただろう。
お嬢様は不機嫌そうに新聞を読みながら、またその言葉を口にした。彼女の目が新聞の活字を追いながら、眉間に少ししわを寄せているのが見える。
仕方ない。
今日はウィリアム王子殿下との月一回のお茶会の日だ。
先月、議会でお嬢様と王子の婚約が承認されたせいで、月に一度は交流を持つことが義務付けられている。
「そんなに面倒なら、行かなきゃいいんじゃないですか?」
つい本音が呟くと、ガサッという音とともにお嬢様がこちらをじろりと見てきたのがわかった。
視線を合わせないように目線を反らす。
なんか、視線が痛い。
「らしくもないことを言うな。」
お嬢様は冷たくそう言い放ち、またガサッという音が聞こえた。
ちらっとお嬢様の方を見ると、お嬢様はまた新聞を読んでいた。
「だって、王子殿下とのお茶会、俺はお留守番じゃないですか。」
お嬢様の従者なのに、なぜか王子殿下とのお茶会には同伴NGをくらっている。
解せん!
お嬢様ははぁーっとあからさまなため息をついて、
「そう拗ねるな。今日はお前の大好きなレストラードが来るかもしれないぞ。」
と言った。
「レストラード警部ですか? なんで――」
コンコン。
俺の言葉を遮るようにドアがノックされた。
誰だろう?
ドアを開けると、そこには、いかつい顔にグレージュの髪をハットに無理やり詰め込んだ男が立っていた。深緑のコートの下にはヨレヨレのジャケットにシャツ、そしてしわだらけのネクタイを締めた――それはまさに、レストラード警部だった。
お嬢様って予言者なの?
「よう。」
驚く俺をよそに、警部は気安く挨拶をする。
「どうしたんですか?」
と尋ねると、警部は軽く肩をすくめて
「お嬢に用があってな。邪魔するぞ」
とズカズカと部屋に入ってきた。
「ハロッズの事件の件だろう?」
お嬢様は新聞をたたみながら、こちらに顔も向けずに言った。
「はっ。相変わらずだな、お嬢は。」
「なんですか、ハロッズの事件って?」
話に参加するために質問する。
たぶん今、俺だけ蚊帳の外。
「今日の新聞に載っていた。有力な新聞社の全てが一面で警察の捜査を非難している。」
お嬢様の言葉に、警部は顔を歪めて頭をガシガシと掻いた。
「よりにもよって、無差別の毒殺事件だ。手がかりはあって無いようなもんだしな。」
「どういう事件なんですか?」
警部に席を進めて質問すると、事件のことを教えてくれた。
事件は4日前にハロッズ百貨店で起こった。その日、4階の特設ホールで貴族やジェントリを招いたチャリティーイベントが開催されて、豪華なディナーが振舞われた。ところが、ディナーの後、参加者が急に体調不良を訴え、そのうち3人が死亡、5人が重傷で現在入院中、軽傷者が多数発生したっていうのが、事件のあらましだ。
「貧困層の支援って言っても、参加者はジェントリ以上だがな。」
事件の概要を語ったあと、警部が顔を顰めて、付け足した。
「亡くなった被害者は?」
お嬢様が問いかける。
「子爵家の夫人、ジェントリの銀行家、それにハロッズの従業員だ。」
警部が書類を手にしながら答える。
「その情報は新聞にはなかったな。」
お嬢様が軽く眉を寄せ、宙を見据えて呟いた。
「そもそも、情報統制で極秘捜査してたのが、どこかから漏れちまったんだよ。今日になって新聞が事件を報じた。」
警部は頭をガシガシ掻きながら、明らかに苛立っていた。
すごい事件だな。
聞いた感じだと、警部が言っていたように無差別の毒物混入事件って感じだ。
狙われたイベントを考えると、めちゃくちゃ大変な事件だ。
「その従業員って、つまみ食いでもしたんですかね?」
お客さん用のディナーなんて、普通、従業員は食べないよね。
お嬢様は俺の方を鋭い目で見た。
うー。場違いな質問だったかもしれない。
「死亡した被害者の所見は?」
「ほらよ。」
お嬢様の問いに、警部はカバンから書類の束を取り出して、お嬢様に手渡した。
お嬢様の後ろから俺も書類の束を覗き込む。
「もしかして写真ですか?」
紙に貼り付いた白黒の用紙に独特の光沢がある。写っているのは、顔がしわくちゃになった女性――たぶん犠牲者だろう。
「普段は予算がどうこうとうるさい上の連中も、こんな大事件じゃ文句の一つもなく写真を許可したぜ。」
警部がぼそりとこぼす。
写真って、一枚とるのも結構な額するもんなー。
他の写真に写ている男性二人も、同様に顔に変に皺が寄っていた。
「ストリキニーネか。」
お嬢様が書類を読みながら言った。
ストリキニーネって…
「殺鼠剤とかに使われてるやつですよね?」
俺が尋ねると、警部が「そうだ」と頷く。
「お嬢の言う通り、死亡した3人にはストリキニーネ中毒の所見があった。検死官もストリキニーネ中毒を断言した。」
「毒物はどこから検知されたんだ?」
お嬢様が尋ねる。
「それが妙でな。食事をすべて調べたが、ビーフシチューからヒ素が検出されただけだった。」
ん?
「ストリキニーネじゃないんですか?」
「そうだ。」
「なるほどな。重軽傷者の症状を鑑みるに、ヒ素が使用されたのも間違いはなさそうだ。被害者たちは嘔吐、下痢、激しい腹痛を訴えているが、ストリキニーネ中毒では消化器系への影響はほとんどない。」
と、言うことは?
「じゃあ、死亡した被害者たちだけストリキニーネをどこからか摂取したってことですか?」
俺の質問に、警部とお嬢様が鋭い視線を向けた。
「無差別殺人という線は、薄そうかもな。」
お嬢様はお茶を一口飲んでそう呟いた。
「でもよ。ストリキニーネの混入経路は不明、毒は違っても大勢が被害にあってんだぞ? 無差別じゃなきゃ、なんだってんだ?」
「『ABC殺人事件』では、無関係の他者を殺害することで、犯人の動機をカモフラージュしたというトリックが使われている。動機がなければ、殺人を犯すはずがないというのが、一般論だからな。」
「それって、本当は殺したい人を疑われずに殺すために、全然関係ない人も殺したってことですか?」
「そうだ。まぁ、フィクションだがな。今回の事件、お前が言うようになぜ、従業員が被害者になったのかを突き止めるのが鍵だろう。」
「どういうことだ?」
「ほんとはその従業員がターゲットだったってことですか?」
警部と質問が被って、二人で顔を見合わせる。
「捜査資料を確認する限り、死亡したその従業員を除く被害者は、全てイベントの参加者だ。彼がターゲットだったのか、たまたま被害者になってしまったのかはわからんが、いずれにせよ、行動パターンの異なるこの被害者がどうしてストリキニーネで死亡したのかを突き止めることで、混入経路を辿るのが近道になるだろう。この事件を単純な『上流階級を狙った無差別殺人』と断定するには、不確定要素があまりにも多い。なぜわざわざ二種類の毒を使用したのか、ストリキニーネとヒ素を摂取した被害者達の相違点は何か、ストリキニーネの混入経路はどこか。」
陽射で瞳を緑色に煌めかせたお嬢様は、ぼんやりと宙を見ながら独り言のように言った。
「死亡した被害者達に接点はあったんですか?」
お嬢様の言葉を考えると、もしかしたら最初からその三人だけを殺すつもりだったのかも…
「今のところはねぇな。そもそも階級も性別も何もかもが違うしな。」
警部はそう答えて頭をガシガシ掻いた。
「ストリキニーネは手に入れやすいが、一方で苦みが強く、食事に混ぜても口に含んだ際に異変に気付かれる可能性が高い。ビーフシチューのような味のしっかりしたものに加えれば問題ないかもしれないが…そちらからヒ素が出るとはな。」
「ヒ素は、味とかするんですか?」
「ヒ素はほとんど無味無臭だ。だからこそ、『毒殺のキング』として長年、暗殺やらに使われてきた。」
ひえっ。
「ヒ素はカモフラージュだと思うか?」
「現状では、わからんな。だが、ヒ素の被害者達は死んでも死ななくてもいいと思っていただろうことは分かる。」
警部の問いにお嬢様はそっけなく答えて
「わざわざストリキニーネを使用する意図がつかめんな。」
とまた呟いた。
お嬢様は再びお茶を一口含み、優雅な仕草でカップを置いた後、静かに口を開いた。
「毒殺の場合、犯行が計画的であることがほとんどだ。衝動的な犯行とは異なり、毒殺には時間と準備が必要となる。」
「計画的ってことは、やっぱり犯人はこの事件に時間をかけて準備したってことか?」
と、警部が興味深そうに質問した。
お嬢様は軽く頷きながら続けた。
「毒殺犯にはいくつかの特徴がある。一般的に、毒物は力のない者が好んで使用する傾向があると言われている。ドロシー・L・セイヤーズの『毒を食らわば』でもその傾向がえがかれているが、直接的な暴力を使わずにターゲットを殺害することができることから、『毒殺は女の仕業』と言われることが多い。が、今回のケースでは『一度に多数を対象にできる』という利点から毒物が使われたとも考えられる。」
一呼吸置いて、お嬢様は続けた。
「使用された毒物が二つとも手に入れやすいというのはネックだな。毒物の入手経路から犯人を特定するのは困難を極めるだろう。そうすると、わざわざ二つの毒を準備して使用したその意図を探るべきだ。」
確かに。
ストリキニーネは殺鼠剤として売られてるし、ヒ素も農薬とか緑色の絵の具に使われてるくらいだし。
お嬢様はさらに考え込むように指を顎に当てた。
「もしくは、ストリキニーネとヒ素は別々の犯人によって混入されたか…。」
お嬢様の言葉に警部はぎょっとした顔をした。
「おいおい。まだ被疑者を一人も特定できてないんだぞ。事件前に厨房へのアクセスが可能で、毒物をシチューに入れられた人物を捜査の対象にしてはいるが、目撃情報もほとんどないしよ。従業員も身元がしっかりしてるやつばっかりで、被疑者になりそうなやつはいねぇし。」
「可能性の話だ。」
お嬢様は軽く受け答えたけど、深く考え込んだ様子だった。
警部ははぁーっと大きくため息をつくと、手を合わせて
「わりぃが、お嬢。今回も協力してくれねぇか? 頼む。このとーり。」
と言った。
警部は手をすりすりして、まるで拝んでいるようだ。
必死だなぁ。
お嬢様は、推理だのに詳しいくせに、あんまり捜査には乗り気じゃないんだよね。
「意見を述べてやっただろう。頑張るんだな。」
「頼む。お嬢のお気に入りの例の店のアフタヌーンティー奢るから。」
たぶん、お嬢様が行きたいってずっと言ってる人気店のことかな?
スコーンが絶品だって噂で、価格もバカ高い他の店と比べればお手ごろだからか、毎日すごい行列の店だ。
「俺が、並んで、席も取る!」
そう言った警部はすごい眼力だ。
お嬢様は、渋い顔でため息をついてから言った。
「二か所付き合え。最近できた店のチョコレートも飲みに行きたいからな。」