短編8 「雨」
雨が降っていた。
ざあざあと、いつまでも。
黒い雨は降り続けていた。
シェルターから逃げ出した。
二人で、手を取り合って。
外を目指した。
一面の黒い雨だった。
防護服をバタバタと殴るその汚染雨に汚れながら、二人は手を繋いで走った。
生きようとした。
アンドロイドの公安部隊がシェルターに突入する寸前、それに気づくことが出来たのは二人だけだった。
青年と少女は、シェルターで生き残っていた他の全ての人間を犠牲にして、自分達だけ逃げた。
逃げた。
だいぶ走っただろうか。
ざあざあと、雨が降っている。
白い防護服はそれでドロドロに汚れていた。
放射線の危険値を示すアラームが鳴っている。
防護服を着ていても、尚遮断できない強い放射線。
青年と少女は、それに少しずつ蝕まれていた。
二人にはもう、行く所はどこにもなかった。
彼らには、未来も、希望も何もなかった。
在ったのは今。
今、ただこうして手を繋いで、滅びゆく世界を前に立ち尽くしている。
黒。
黒。
黒。
黒い雨。
黒い空。
黒い地面。
黒い水溜り。
少しして、青年が少女の手を引いた。
二人は、雨が凌げるガレキの山の中に体を潜り込ませた。
◇
青年は、防護服のヘルメットを脱いだ。
そして大きく息を吸う。
もう、酸素量が残り僅かだったのだ。
少女もヘルメットを脱ぎ、荒く息をつく。
彼女は、ポタポタと体中から黒い雨を垂れ流しながら、小さく笑った。
「はは……」
「…………」
「終わったね、私達……」
少年はヘルメットを脇に投げ捨てると、少女を強く自分の方に引き寄せた。
そして汚染された空気の中、彼女の唇に自分の唇を合わせる。
少女は少し驚いた顔をしていたが、やがて彼の求めるままに虚脱し、貪るようにその口を吸った。
雨が降っていた。
ざあざあと、全ての音を掻き消すように。
しばらく後、青年と少女は膝を抱えてガレキの中、寄り添っていた。
少女は青年の肩に首を預けている。
青年は手を伸ばし、少女の肩をそっと抱いた。
言葉は、もう要らなかった。
二人に残された時間は幾ばくもなかった。
汚染雨は霧のようになり、周囲に放射能を撒き散らしている。
吸い込んだ彼らの顔色は悪く、心臓の動悸が段々と緩やかになっていくのが分かる。
少女は手を伸ばした。
青年はそれに応え、彼女の手を握った。
強く。
強く。
黒い雨が降っている。
何もかもを否定するように。
彼らの脆弱な存在を、消し去ってしまうかのように。
「……あたしね、戦争が終わったら行きたい所があるんだ」
唐突に、掠れた声で少女は言った。
青年が彼女を見下ろして、言う。
「どこに?」
「もう一度、太陽を見たいの」
「…………」
「太陽がある場所に行きたいなぁ」
「行けるさ」
青年は小さく咳をしてから答えた。
「雨はいつか止むんだ。いつか。だから、あの黒い雲の先に、俺達は行ける」
「…………」
少女は泣きそうな顔で青年の手を握った。
「私達は、もうじき死ぬんだよ? 行けないよ」
「…………」
端的に告げられた事実。
その重さを、雨が掻き消していく。
圧倒的に。
絶望的に。
雨音は、止まない。
「約束しよう」
青年は少女の肩を強く引き寄せて、囁くように言った。
「二人で太陽の所に行くんだ。この雨を突き抜けて、俺達なら行ける」
「もう……体が動かないんだ」
「俺もだよ」
やつれた顔で笑って、青年はくしゃくしゃと少女の髪を撫でた。
「だから、こんな体はここに置いていくんだ。体がなければ、俺達に戦争なんて関係ない。この黒い雨だって、放射能さえも関係ない。俺達を否定するものも、阻むものも何もない」
「…………」
「だから約束しよう」
青年は、少女の目を見てゆっくりと言った。
「二人で、行こう。雨の先に」
少女は呆然としたように青年を見ていた。
そしてやがて、ニコリと微笑んで小さく頷く。
雨が降り続ける。
何もかもをも洗い流すように。
ざあざあ、ごうごうと音を立てて唸る。
それは青年と少女の存在を絶対的に否定していて。
あまりにも巨大する壁だった。
しかし、二人は幸せそうに手を握り合い、寄り添い合っていた。
二人にはもう未来はない。
逃げ続ける体力も、身を守る抗体も。
何もかもに見放された、世界に二人だけの男女。
神がもしいるとしたら。
神でさえも、彼らを見捨てているのだろう。
だが、二人は幸せそうだった。
また口づけをして、少女は目を閉じた。
その体からゆっくりと力がなくなっていき。
やがて、彼女は青年に体を預けるように脱力した。
短く息を吐いて、ズルリと力を失って地面を滑る。
死んだのだ。
あっさりと。
放射線被曝で、急速に体内細胞が破壊された末のこと。
口の端から血液の赤い色が流れている。
ポタリ。
ポタリ。
流れる赤い血液は、黒い水溜りに落ちて、淀んだ泥となって消えた。
青年がそこで、大きく吐血した。
自分の口を手で押さえて、彼はそれをぼんやりと見つめた。
そして息を引き取った少女の亡骸をしっかりと抱いて、空を見上げる。
雨は止まない。
当たり前のことだが、降り続けている。
青年は、空を見上げたまま掠れた声を発した。
「待ってろよ。俺もすぐにそっちに逝くから」
◇
ざあざあと降りしきる汚染雨の中、複数の動く影があった。
人間を駆除するアンドロイド部隊……公安だった。
彼らはライトを周囲に向けながら、探索を続けていた。
そのうちの一人が、ガレキで空洞ができている部分に目を留める。
防護服のヘルメットを外した男女が、抱き合って事切れていた。
「何か発見したのか?」
アンドロイド兵士の一人に言われ、彼は振り返って言った。
「いえ、残存人類の反応はありません」
◇
雨が降っていた。
ざあざあと、いつまでも。
黒い雨は降り続けていた。
圧倒的に。
絶望的に。
雨音は、止まない。
神がもしいるとしたら。
神でさえも、彼らを見捨てているのだろう。
だが、二人は幸せそうだった。
二つの亡骸は手を握り合い。
体を寄せ合い。
まるで一つの生物になろうとしているかのように、繋がっていた。
強く。
強く。
雨は。
その手を溶かすことだけはできない。
雨にさえも。
それを否定することは、できない。