海原雨音
私の名前は海原雨音。
両親を幼き時に亡くし、弟の快斗と、この砂漠地帯で二人暮らし。
私は昔からのんびりな性格で、何か物事に耽ってしまうと、周りが見えなくなってしまう。
鈍くて、周りから、おっとりさんと言われているのも知ってる。
そんな私とは違って、快斗は賢い。
いつも冷静沈着。
姉である私よりも物知りで、何なら、私よりも頼りになる。
そんな頼りない私だけど、二人で平穏に暮らしていた。
でも、ある日、突然、快斗がよそよそしくなった。
他人行儀というか、なんというか、どこか変に気を使っている感じ。
自分の世界に没頭して、周囲に置いてかれる程、周囲の変化に疎い私だが、弟の異変ぐらいは、すぐわかる。
そう言うわけで、それとなく聞こうとしたら、はぐらかされるばかりで、一向に分からず仕舞い。
それで、弟のことを探るなんて、何だか心が引けたけど、、、いろいろ探ってみて、、、
自分の命が狙われていることが分かった。
そして、快斗を含めたみんなが、悪い奴を打倒するために戦っていることも知った。
意味が分からない。
理解が追い付かない。
兎に角、私の身に何が起きるのかと、不安になった。
けれど、、、弟は、いつ、そのことを知ったのか。
どこでそんな情報を手にしたのか。
一つ解決したところで、疑問が無尽蔵に沸き起こる。
どうして私に、話してくれなかったのか。
それは、打ち明けると私が取り乱し、状況の悪化を免れないと、思ってのことなのか。
・・・分からない。
疑念が心を蝕んで、苦しかった。
それで、何度も問いただそうとした。
けれど、あと一歩のところで、いつも足踏みし、どうしても勇気が出せずにいた。
そんな日々が続き、頭がモヤモヤして、寝るにも寝られない。
それに、弟との関係も、ぎくしゃくして、なんだか家にいると居心地が悪かった。
そんなある晩、不安で渦巻く中で、当然のように眠ることもできず、どこか逃げるような気持ちで外に出た。
たぶん、その罪悪感とやらは、弟に、それとなく外出を控えるように言われていたからだろう。
けれど、外の空気を吸うと何だか解放されたような気持だった。
吹き抜ける夜風が、懐かしい。
少し浮足立ったまま、足を進める。
向かった先は、村を一望できる程に、砂が山積した、丘とでも言える場所。
そこは、村の離れにあり、砂風を凌げるような建物一つない。
だけど、そこに点在する瓦礫に座って、村を眺めることが私は、好きだった。
その夜景すらも懐かしい。
気に入りの光景を一目見たいと思わず足が加速していた。
目的地まで目と鼻の先というところで、足を止める。
先着がいた。
別に、一人になりたかった訳ではないが、こんな夜更けに、こんな場所に人がいるなんて、想定外で面くらったのだ。
その人は、私が定位置にしている瓦礫の上で座っていた。
その人は、黒い外套を纏い、日の沈んだ、夜の砂漠では、素顔までは窺えない。
けれど、そこで佇んで、しきりに村の夜景を眺める姿から、何故だか哀愁に満ちた寂しさを感じられずには、いられなかった。
・・・どうしようか。
声を掛けるのは、躊躇われ、かといって、このまま帰るのは、どこか惜しい。
進むべきか、退くべきか。
迷いに、迷った末に、、、転んだ。
どっちにもつかず、中途半端に失敗したのだ。
恥ずかしくて、仕方ない。
直ぐ起きて、そそくさと帰宅しようとした矢先。
目前に手が差し伸べられていた。
驚きで、視線を上げる。
そこには、座っていたはずの人が居た。
どうも駆け付けてくれたらしい。
助けに来てくれた嬉しさよりも、躓く段差すらない場所で転んだことによる羞恥心が勝り、「ありがとうございます。」と感謝を述べ、立ち去ろうとした。
けれど、
「君、この夜景を見に来たんじゃないの。」
そんな男の声がした。
突然の声掛けに、思わず頷いてしまい、、、帰るタイミングを失った。
絶妙な間隔を開けて二人は、村を見下ろす。
知らない人と二人でいる謎の状態に、内心では、気が気ではなかった。
けれど、どれほど時間が経とうと彼は、襲う気配もないし、寧ろ私のことを気にも留めていない。
ただ、村を見据え、何かに耽っていた。
「あの。何か嫌なことでもあったのですか。」
そう問いて、、、そう問いたことを恥じる。
・・・また、やってしまった。
初対面にも関わらず、無粋なことを聞いてしまった。
彼から放たれる哀愁や寂寞を感じ取ったとしても、口に出してはいけないのだ。
聞かれたくない人だっている。
内面に踏み込まれたくない人だっている。
なのに、またよく考えずに先走ってしまった。
そう、きつく自分に猛省する。
けれど、
「、、、まあ。ありました。」
長い沈黙の後であったが、彼はそう言葉にしてくれた。
「そうですか。」
そうとだけ応じ、これ以上、追及するまいと自制した。
その後どうやって別れたのか覚えていない。
ただ、彼と交わした言葉は、それだったことだけは、覚えている。
そして、次の日も眠れるわけがなく、砂の丘に出向けば、彼がいた。
その次の日も、そのまた次の日も、その位置に、彼がいた。
知らぬ者同士とはいえ、毎日のように顔を合わせていたら、嫌だとしても覚えるものだ。
挨拶を交わす仲から、次第に、他愛もない話をするほどには、親密な関係となった。
それに対し、最近、弟が、私を頑なに外に出させようとせず、止むの得ない外出の際は、快斗ないしは、千優が付き添う形になっていた。
私の為とは言え、あまりの過保護さに、嫌気がさしていた。
そういう意味では、もう家も心休まる場所ではない。
そして、いつしか、彼と出会う時間が、私にとってのオアシスとなっていた。
まあ、話すと言っても、私が一方的に喋り続けるだけだけど。
けれど、彼は、どんな不満でも、どんなにつまらない話でも、相槌を打ってくれた。
そうやって、勝手に安心して、勝手に期待して、心を許してしまったのかもしれない。
いや、彼を不満の捌け口にしていた自分がいたのかもしれない。
兎にも角にも、彼に甘えていた自分がいたことは、確かだ。
「私。命を狙われているかもしれないの。」
そう、私は、とんでもないことを口にした。
誰にも、弟でさえも、、、口にできなかった、不安を吐露した。
突如として降りかかった悪運を、居こごちの悪い兄弟関係も、心に蟠るすべてを思うがままに吐き出した。
吐き出して、吐き出して、、、さすれば、いくらか気が晴れ、他のことを気にできる程、冷静になったときに気づいた。
普段、如何な話も穏やかに相槌を打つ彼が、今日は、おかしい。
私の突拍子のない話に呆れたのかと思ったが、そうではない。
驚愕と、戸惑いがいりまじり、深刻そうに顔を伏せていた。
その姿は、どこか居こごちが悪そうで、心ここにあらずといった風だった。
そんな異質な雰囲気にもっと早くに気づいておくべきだったと後悔する。
真剣に私のことを思ってくれているのだとしたら、とても嬉しいことなのだが、そこまで、苦渋な顔をして真剣に悩んでいると申し訳なくなってくる。
私のせいで、誰かを思い悩ませるのは、本意ではない。
相手を困らせてしまったことに詫びようとした。
「もう、そんな深刻そうな顔しないで。嘘だよ。嘘。気にしないで。」
赤裸々に話してしまい引き返そうにも、引き返されず、私は、そういうことにした。
こんな分かりにくい嘘なんてすぐに見抜けるなんてことは、分かっている。
けれど、彼に負担を掛けない為には、そう言う以外に思いつかなかった。
そう、告げれば、その場は、収まるだろうと楽観視していたが、なかなか返事が返ってこない。
ただ、俯いて、黙っているだけ。
私の嘘に乗って、同意してくれたら、其れでいいのに。
けれど、彼は口を開くどころか、歯を食いしばり、苦渋の決断でもするかのように、強く拳を握っていた。
そんな彼に、為すべき術を知らない私は、ただ茫然と眺める他なかった。
長い、長い、沈黙が続いた。
そして、ようやっと彼が言葉を紡ぐ。
「その情報は、正しいと言える、、、かもしれない。
だけど、僕なら、君を守る、、、ことが出来るかもしれない。」
断定なのか推量なのか、どっちともつかない曖昧な表現で彼は話す。
そして、続ける。
「だから、君は、もう僕に会うべきではない。」
その声だけは、異常なまでに透き通り、刻まれるよう脳に響く。
ただならぬ表情であった。
彼は、そうとだけ、告げて、走り出す。
・・・待ってほしい。
どうして彼は、私の運命を知っている口調だったのか。
どうして彼は、私を守れるなどと口走ったのか。
そして、彼は、何者なのか。
聞きたいことは、山ほどある。
けれど、この際、彼の正体は、どうでもいい。
其れよりも、何よりも、どうして彼との面会が私の命運を左右するのか。
赤の他人として、始まった関係に過ぎないが、私には、彼との時間が、いつしか貴重なものでかけがえのないものと、なっていた。
けれど、彼の言葉は、これから先、再会することなどないことも、示唆するのか。
それだけは、耐えがたい。
これだけは彼に、問いただしておきたかった。
去っていく彼に手を伸ばす。
「まっ、待って。」
そんな縋るような言葉も空しく、彼は、砂塵のように村の奥へと消えていった。
その翌晩、実は彼も冗談ではなかったのかと、欠片の希望を抱いて、丘へ目指すが、彼の姿はない。
その翌日も、そのまた翌日も同じ。
彼を見かけることはなかった。
大切にしていた時間を自ずから壊す羽目になるなんて。
私は、ひどく、ひどく後悔した。
けれども、時間の流れは、残酷なまでに、刻一刻と進み、千優から、身の安全のために地下まで来てほしいと頼まれる程に状況は悪化した。
拒むぐらいの権利はあるのだが、同年代にもかかわらず、大人に負けない戦闘力を誇る彼女の申し出に断れるはずもない。
そして、私が基地に案内される以上、弟が率いる軍勢と彼らの目指すものについて、ようやく打ち明けられた。
内心、遅いと不満をぶつけたかったが、そうにもいかなかった。
彼ら、少年兵に、笑みはない。
忙しなく、基地を出入りする様は、状況の深刻さを物語っていた。
すると、突然、敵である教徒が、ここを捉えたと、すぐさまここは戦場になると、そんな伝達が来た。
それに伴って、村に散らばった兵たちが急いでこの地に駆け戻る。
彼らは、顔を強張らせ、素人の私でも、不測の事態だと分ってしまった。
どうやら、敵に囲まれてしまったらしい。
・・・全滅。
そんな縁起でもない言葉が脳によぎる。
それから、弟の一声合って、皆に銃がいきわたる。
そんな重量も、荷も重すぎる銃を握る彼らの目に、怯えはない。
寧ろ、煌々と闘志に燃えていた。
それが、酔狂だとか、狂気からくるものだと思えたらどんなに楽だっただろうか。
その姿は、紛れもない覚悟だと、悟ってしまった。
「雨音、行くよ。」
千優が、私を逃げるように一声かける。
「で、、、でも。」
私は、どもった。その申し出を即座に頷くわけにはいかなかった。
私が、逃げ切る為には、銃を手にした者たちが、何を成すかぐらい、自分にも分かった。
中には、私よりも幼い子だっている。
そんな彼らを戦場に向かわせて、私だけが助かろうだなんて、虫のいい話に思えてならなかった。
「行くよ。」
滅多に声を荒げない千優が語気を強めてそう言い張った。
そう、告げられて、腕を引っ張られて、走らされて、、、
もとより私に選択肢など無いことを思い出した。
銃声を合図に、基地を飛び出した。
弟の読み通りであろう。
私たちが突破を目指す箇所は、敵が手薄だ。
千優の短剣と援護射撃が相まって、難なく敵の包囲網を掻い潜る。
各所で轟く銃声を背に私は、走りに、走った。
初動から、全体力を振り絞るかのように、走った。
そうでなければ、彼らの安否を考えてしまいそうだからだ。
全力で走っていれば、脳に残る不安が、辛さに上書きされて、いくらかマシだった。
それに、零れそうな涙を、汗のせいにもできた。
ーーーただ、胸が痛い。
それは、無理な運動によるものか、それとも戦地にいる者達への罪悪感か、将又、両方か。
彼らの安否を確かめるのならば、振り向くだけで事足りる。
けれども、命を張る彼らに、そんな行為は、愚か以外の何物でもなくて、、、振り向きたくもなかった。
ただ、前を見据え、果ての見えぬ砂漠を駆けに、駆けた。
「ーーーーーーーーーーーーーーーーー。」
すれば、突然、大地を揺るがす爆音がけたたましく鳴り響く。
これには、振り返られずには、いられなかった。
その場で足を止め、振り返れば、そこには、砂塵の入り混じるきのこ雲。
甚大な爆発が、基地の直上で起きたのだと分ってしまった。
あの規模の爆撃。
どれほどの犠牲が出たのか。
・・・くっ
胸が軋む。
俯く私に、千優が声を掛けた。
「あれは、私たち側の爆撃だわ。あの快斗が仲間を犠牲にするはずないわ。安心なさい。」
どうも、千優は私の表情と仕草だけで、内心を的確に当てたらしい。
けれども、その言葉だけで、安心できるものではなかった。
なぜなら、千優の表情も陰っている。
それなりに、異常事態なのだろう。
それから、千優は、いくらか逡巡して、意を決しったように話し始める。
「いい。よく聞いて。」
私は、深く頷いた。
「そんなことは、ありえないけど、もし万が一よ。私がやられたりして、そばに居れなくなったら、なんとしても、村まで逃げなさい。
あなたは、逃げるだけじゃない。撒くことが任務なの。だから、他のことを心配するのはやめなさい。だから、あなたには、一心に逃げ続けることでしか、彼らに恩を返せないの。」
その言葉は、罪悪感に苛まされる私に深く、深く響いた。
そして、自分に置かれた状況と為すべきことが明示された。
後は、ただ覚悟するだけのこと。
銃を握った彼らのように。
「さあ、逃げるよ。」
千優が、先ほどの緊迫した声とは、異なり、朗らかな声で私を先導しようと手を伸ばす。
・・・なんと、頼もしい。
彼女がいれば、負けることはない。
少なくとも、自分が折れることはない。
そう、思えた。
無理して、走ってきたのだから疲労故に、速度が落ちると気が気でなかったが、順調に足を進め。
第一目標の村にまで、目前という所。
何事もなく、無事、逃げ切れると思った矢先。
ブワッ
強烈な圧が背中を襲う。
バランスを崩す程で、捻挫や骨折といった逃亡において足枷となるほどの怪我はない。
遅れて、背後から猛烈な風が吹き抜けたのだと理解した。
けれども、それは、あまりに突拍子のない風で、あまりに私たちを狙ったかのように思われた。
ゾワリと全身に鳥肌が立つ。
嫌な予感を見肌で感じ、千優に同意を求めようと彼女の表情を窺えば、顔面蒼白であった。
二人が戸惑う様子を待つことなく、突如、後方にて、天を穿つ勢いで砂が舞い上がる。
絶望の始まりであった。
「走るよ。」
唇を噛んだ苦渋の表情で、千優はそう呼びかけ、私の腕を掴んで、弾け出すように走り出す。
その速さのあまり、ついていくことすら困難で、足を絡ませないようにするだけで精一杯であった。
それでも、懸命に走ったはずだ。
けれども、嵐の方が一段も二段も速く、逃げ惑う私たちをあざ笑うかのように、距離を確実に詰めていく。
足の大腿四頭筋から、腕の上腕二頭筋に至るまで、体すべての筋肉が悲鳴を上げている。
息を満足に吸う暇もなくて、肺が潰れたかのように痛い。
今にも、止まりたいくて、辞めたくて、仕方がない。
負けたくなるたびに、千優の言葉がよぎって、すんでのところで思いとどまる。
彼らの死を無駄にせぬ思いが、既に限界を達した私の肉体を突き動かす。
けれども、その動きは理想とは、ほど遠い。
前に進めない悪夢を見たかのように、体は鉛のように重く、足は、足枷をはめたかのように動かない。
もどかしくって、歯がゆくて、己の無力を呪った。
・・・ああ
一瞬気が抜けた。
その刹那、砂嵐が二人を射程に捉えた。
ブワリ。
二度目の爆風が二人を煽る。
バランスが取れないどころではない。
背中に激痛が走って、前方に飛んだ。
とうに限界を超えた体では満足に受け身を取れる筈もなく、ただ為されるがままに、ザザザと、地面を擦って、着地した。
・・・くっ。
切り傷から激痛が全身に迸る。
床に横たわって、はち切れんばかりの胸の鼓動を聞いた。
もう、体力など残っていない。
逃げる気力も残っていない。
けれども、立ち上がる。
そう為さねば、命を賭した彼らに面を見せられない。
其れよりも、何よりも、心に誓った思いに裏切りたくない。
その思いが憔悴しきった彼女に立ち上がるだけの力を与える。
・・・立ち上がれたのなら、まだ走れるはずだ。
まだ、逃げられると己を鼓舞し、千優を探す。
周囲を見渡しても見つからなくて、ふと視線を落とすと、千優はそこにいた。
気が動転していたとはいえ、目の前にいたとは、、、灯台下暗しと、言い訳を言えたものじゃない。
すぐさま逃亡を図る為に、横たわる千優を揺すった。
ーーー嘘。
揺すった弾みで、千優の怪我を知った。
地面と接触した至る箇所で、擦り傷を負っていた。
飛ばされる寸前で庇ってくれたのか、それとも単に千優、私という順に走っていたのだから私が覆いかぶさるようになってしまったのか。
いや、そんなことはどうでもいい。
兎に角、千優は、私に下敷きにされる形で、満足に受け身も取れず、全身で地面との衝撃を受けたのだ。
打ち所が悪くて、失神する事態なんて、ありえない話ではない。
けれど、気が動転していた私に、そんな冷静な判断ができる筈もない。
目を開けることの無い友を我武者羅に揺すった。
友の名を声が掠れる程に連呼した。
けれども、気づく気配がない。
・・・あんなにも頼もしい友がこんなにもあっさりと。
一瞬にして、心が不安の色で染まる。
あんなにも、負けないでいようと心に決めたのに。
友がいないと不安で、不安で仕方ない。
そんな感情で苛む少女をよそに、砂嵐は容赦なく二人のもとへと迫る。
もう、猶予はない。
逃げるべきだと分っていた。
友を見捨ててでもこの場から一刻も早く離れるべきだと分っていた。
それが、せめてもの彼ら、彼女らへの手向けだと分っていた。
けれども、足が動かない。
単なる体力の限界と、恐怖に縛られ、二重にかせられた足は、びくともしない。
まるで、自分のものでは、ないかのように、意思に反して動かない。
頭が真っ白になった私は、お起きぬ友を頼るほかなかった。
懇願するように。
縋りつくように。
けれども、当然、起きはしない。
それでも、惨めなまでに、揺すりに、揺すり、その反動で、千優のローブの中から、キラリと煌めくものが地に落ちる。
ーーーナイフ
その道具を知覚して、心の奥底にある何かが蠢いた。
その何かが心全体に染み渡っていく。
自分でも不思議な感覚であった。
あれ程までに、不安で染まった心に怒りで塗りつぶされていく。
憤怒が恐怖に勝った瞬間であった。
よくも、大切な友を
罪のない子供達を
こんな目に。
地には、ナイフ。
目前には、忌々しい敵。
ーーー為すべきことは、明白であった。
刃物を拾い上げ、怪物目掛けて走る。
どこに、そんな力が残っていたのだろうか。
自分でも驚かされる。
けれども、この際そんなことは、どうでもいい。
脳が、体が、佇む怪物を一刻も早く、視界から消し去りたいと訴えていた。
力が漲っていた。
気力に満ちていた。
何故、あれ程に恐れていたのかと自分に呆れるほどに、怖さなど無かった。
これまで、守られ、守られ、守られ続けていた。
でも、もう、庇護されるべき者として、見られるのは、もう嫌だ。
私にだって戦える。
こんな私でも一矢報いてやれるのだと。
そう。証明したい。
ーーーーーここで終わらせる。
この悲劇が、この犠牲が、私で最後にするために。
いつも安全圏にいた私には、ナイフの振り方も、握り方も知らない。
非力な私にこんな小刀がどれほどの威力をもつかを知らない。
けれど、今、私の中で併せ持つ、全てを擲って、そのナイフを振り下ろした。
ガガッ
確かな感触があった。
衝突する音がした。
一太刀入れてやった。
化けの皮を剥いでやった。
そんな歓喜が巡る。
そして、こんな悪逆非道をしてのける悪魔の顔を拝んでやろうと、顔をあげた。
・・・嘘。
どこかで見知った顔だった。
いや、よく見覚えのある顔だった。
確かに、最近会えなかったけど、確かにあの彼の顔がそこには、あった。
けれども、あの場所で見せた穏やかな顔とは程遠い、憤怒と憎しみの入り混じる歪んだ顔。
もう、何が何だか分からない。
ーーー「君を守る。」
あの言葉は、嘘だったのだろうか。
駆けだした。
意味が分からない。
訳が分からない。
理解が追いつかない。
けれど、走る。
絶望した。
失望した。
見損なった。
けれども、走った。
必死に堪えていた涙が溢れだし、視界が滲む。
ーーーーー裏切られた。
信じてたのに。
頼りにしてたのに。
好意を寄せてたのに。
ーーーーーひどい。
巡り狂う不安を払拭しようと、ただ走りに走った。
これでもかというくらい。
懸命に。
一心に。
足が、喉が、肺が、、、、、全身が痛い。
もう、身も心もズタボロで、ただもう終わりにしたかった。
けれど、その瞬間は唐突に。
ガッ
右足が何かに躓い。
もう、受け身を取る、体力も気力もない。
私は、無様なまでに、叩きつけられるように地面に着地した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
目が覚めた。
どれほど、寝ていたのだろう。
いや、そもそも、生きてるはず、、、、、
自分の両手が不自由なく動いて、まだ死に至っていないことを悟る。
見覚えのない景色。
周囲には冷徹なまでに無機質なコンクリートで覆われ、正面には鉄格子。
それだけで、自分が監禁されているのだと判断できた。
向かいにも鉄格子があるのだが、その先が暗すぎて中にいるかも、判別がつかない。
あまりに昏く、異常なまでに静かな監獄であった。
これを不幸中の幸いと言っていいのか、あやふやのだけど、手足は縛られず自由なままである。
この私が、逃げるはずないと甘く見られたのか、、、。
・・・まあ、もう、そんな気力残ってないけれど。
さて、私は、どうなるのだろうか。
奴隷、それか売買、それとも、、、強姦
・・・あの時、死ぬべきだったか。
死んだとばかり思っていたからか、他人事のように思考が回る。
この先、何が待っているのだろうか。
死ぬよりつらい目に合わなければいいと、相変わらず、どこか楽観的に物事を考える。
まさに、そんな時、カツカツカツと歩み寄ってくる足音がした。
私を攫った人か、或いは、仲間。
全身をローブで包み、素顔は、まるで分からない。
そいつは、檻から私を引っ張り出して、強引に連れて行く。
連行されるがままに、足を進める。
相変わらずのコンクリート造りの気が滅入りそうな長ったらしい通路をなされるがままに歩き続けた。
仲間らしき者が等間隔に配置されていて、私が逃亡しないか目を見開いていた。
連行される際、特に為す事もなく、ただ歩いていると、通路が終わり、開けた空間に出た。
突如、歓喜が湧く。
至る各所で、爆発するかのように祝福の声が上がる。
私の登場で巻き起こったため、タイミング的に、私を出迎えてくれたのだろう。
けれども、私には、歓喜とは程遠い、狂気以外のなにものでもなかった。
ふと、あれ程までに自分を諦めていた心に自我を取り戻す。
周囲を見渡してみた。
競技場というか闘技場というか、中央にアリーナがあって、それをグルッと囲むように観客席が備えつけられている。
いまや、観客席には、ローブを纏う影の集団が、犇く程に、陣取り、彼女の登場を惜しみなく歓喜する。
アリーナには、赤く灯るトーチが円を描くように、場を照らす。
それは、照明と言い張るには、無理がある程の、弱い光で、何の装飾なのかは分からない。
けれど、中央に傾く、ソレラは、中央に坐する何かを祭ってるようにも見えなくもない。
まさに、その中央へと、誘拐犯なる者が、私を誘う。
引く力が強くなっていく。
それは、どこか焦っている様子。
その異変を感じ取った私は、暗い、昏い、中央を凝視した。
ゾワリ
全身が総毛だつ。
見据えた先に、何かが蠢いた。
それが、何であったかまでは、判然つかない。
けれど、そんな場合ではない。
そこに、何かがいる。
それだけで、足が竦むには、充分な理由であった。
そういえば、この無意味に思える床に描かれた模様も、不気味な装飾達も、よく見れば、祭壇の一部と見て取れなくもない。
私は、また後悔した。
それらの装飾は、全て中央にいる何かを祀る為のものだと早くに気づいておくべきだった。
・・・何かいる。
確かにいるのだ。
理解の範疇を超えた、悍ましい何かが。
禍々しい異様な気配を纏う何かが。
脳がかち割れんばかりに警鐘の鐘を鳴らす。
けれども、足が竦んで動かない。
ただ、為されがままに、引っ張られるだけ。
頭では、逃げるべきだと分っている。
けれども、この得体の知らぬ何かに目を離せないでいた。
瞬くことなく凝視し続けていると、私の向かう先に、蟠るような、他とは別な何かがある。
そんな気がして、更に目を凝らす。
それは、ぽっかりと空いた異常なまでに大きな穴。
虚空に広がるソレは、どこか別世界にでも繋がっているのかと錯覚する程に異様なもので、少なくとも帰ってこれないことは、嫌というほど肌で感じる。
けれど、ソレが、突然閉じたり、開いたりする。
そのあまりに異様な光景に、何なのか理解が及ばない。
私が近づく度に、加速する開閉運動が、ようやくソレがなにかを悟る。
・・・思えば、その様は、餌を待ちわびる獣の口と全く同じではないか。
総毛立った。
身震いした。
言われずとも分かってしまったのだ。
売買だとか、強姦だとか、そんな私が想像するなんかよりも、遥かに恐ろしい結末が待っている事を悟った。
ーーーーー嫌。
ごく自然な感情が芽生えた。
もう理性なんて欠片も残っていない。
ただ、生存という本能の為に肉体が動作した。
ここまで連行した、自分の二倍の背丈があるかと思われる巨漢を突き飛ばし、駆けだす。
異常事態と悟った誘拐犯たちは、逃げる私を取り囲む。
戦力差など、埋めようもないはずだが、行く手を遮る敵よりも、ずっと何よりも後ろに潜む化物が怖くて仕方のない私は、阻む者達を蹴散らす勢いで駆けていく。
乱闘に乱闘。
数人ががかりでも止まらなぬ私の様子を見て、観客席からも増援が行く。
あれだけの勢いも数には、どうしようもない。
今度は、四肢を抑えられ、戦おうにも、逃げ出すことも敵わない。
怪物の口と思しきものは、もうそこに。
手足の自由を失った私には、もう抵抗などできない。
ただ、その穴に放り投げられることを黙って耐える他なかった。
ーーートン。
私が投げられる直前、左手にいた者が足を踏み外して、、、、、穴へと吸い込まれた。
ーーーグシャリ
生まれてこのかた、一度も聞いたことのない音がした。
身震いするような、総毛立つような、考えたくもない音が。
ーーーオロオロオロ
今度は、ミンチ状になったソレを吐き出す。
その様は、気に入らんとばかりで、傲岸な様であった。
もう、、理解できるなんて話ではない。
息すらままない程に、その光景に驚愕していた。
腰が抜けた。
もう、動けない。
けれども、怪物が止まってくれるはずもない。
どこからともなく、手のような、触手のような、なんとも名状しがたいものが伸び、何かを掴まんと、人の気配がする方へと伸びていく。
捕まった者は、悲鳴と断末魔だけを残し、闇の中へと消えていく。
ーーーグシャリ
されど、どうも又、お気に召さなかったらしい。
その場で嘔吐して、次なるものへと手を伸ばす。
祭壇は、混乱に陥った。
あれ程までに私を執着していた誘拐犯どもは、私のことをほっぽり出して、右へ左へと逃げ惑う。
されど、人間如きの走力に、怪物の追跡に敵うはずがない。
一人、二人、また一人と犠牲が増えていく。
ーーー地獄絵図だった。
頭で逃亡せねばと理解していたが、完全に恐怖に支配され、体が萎縮しきって動かない。
奴の触手が此方に向く。
どうしてだろうか、私は、こんな時にこれまでの行いを鑑みた。
私が、こんな目に合わなくてはいけない理由を求めるために、、、、、。
思えば、これが走馬灯ってやつなのかもしれない。
触手が目前に迫る中、そんなことを思う。
そして、私は、この世界を呪った。