災
何とも面倒な女をやっとの思いで振りほどき、砂漠へと踏み入れたわけだが、これから為すことは些か時間が掛かるわけで、ここまで渋ってきたアレについて解説しながら作業を進めようと思う。
ーーーーーーーーーー『神災』ーーーーーーーーーー
其は、大地に根差し、守護する者。
其は、脆い生命に恩恵を与えし者。
其は、数多に渡る害を排除せし者。
これは、『災』という学問における一説を引用したものだ。詳しくは、昔から伝わる言い伝えだという。
ーーーーーーーー『災』ーーーーーーーーー
それは、数学、英語と同類に分類される学問の一つであり、地震、津波、台風などを始めとする大自然が織り成す、害についてが研究対象とされる。
だが、皆として耳にしたことはないだろう。
当然だ。なんせ、秘密裏に研究され、隠蔽工作までなされているのだから、普通、凡人が気づくことはない。
そういった類の研究テーマだ。
関わらない方がいい、、、。
・・・さて、話を戻そう。
『神災』とは、文字通り、神が織成す災害を指し示し、『災』という学問において、重要な研究対象とされる。
神とは、山、海、川をはじめとした大自然に宿るとされる。
根ざした神は、その大地を捏ね、水を注ぎ、害を除す。
何千、何万という年月の神の営みが、生命の芽吹きを助力する。
そして、神は誕生した命を愛で、大切に育てる。
その慈しむものに、悪の手が伸びようものなら、なんであろうと容赦なく排除するのだという。
・・・まあ、これら全て、ある一説を自分なりに纏めただけのものだ。
伝聞系なのは、自分自身その説を信じきれない節があるからだ。
なんせ、神が基盤を築き、お膳立てしたからこそ命が繫栄するのだという言い分が、神話臭がして、宗教染みた感じが胡散臭くてならない。
まあ、だから、この話は、そういう信仰をする者がいる程度に聞き流してもらって構わない。
それよりも、俺の体験談に基づいた、信頼のたる情報を聞いてほしい。
神とは、他に類い稀なる強大な力を有する。
ただ存在する、それだけで周囲に影響をもたらす程に。
詳しくは、『マナ』だっけか。
そういう力に対する知識が疎くて甚だ申し訳ないのだが、神には、超自然力に値する『マナ』とやらを莫大に包有するらしい。
神の気まぐれによるものか、意思に基づくものなのか、定かではないが、その『マナ』が周囲に霧散し、少なからず生命に作用する。
その効果は、俗にいう恩恵に値するものだ。
一説には、焦土と化した悪環境下に、神が舞い降りたことで、草木を芽吹かせ、動物を繁栄させたという。
まあ、その話はおいといて、その恩恵を授かるのは、人類とて例外ではない。
神は、およそ贔屓などするものではない。
命あるもの全てに、満遍なく、滞りなく、行き渡るように、『マナ』を配分する。
まあ、神という存在に触れ合ったことがある俺から言わせてみれば、単に、命の見分けがつかないだけだろう。
俺達、人類からすれば、人と動物では異なる上に、植物と比較しようものなら、完全に別種のものだと判断する。
されど、神にとっては、生命という括りであり、それ以上の分割はない。
故に、鳥という種族が好きだとか、人類という種族に手助けしてやろうなどという感情は芽生えない。
ーーーーー命は単衣にして同じ。
この世に生まれ落ちて、その属種が、人類だからといって、神から溺愛されるわけではないのだ。
神とは、命あるものに興味を示すが、ただそれだけという、何とも面倒な性格の持ち主だ。
扱いが大変だということが分かってもらえれば、それでいい。
さっさと話しを戻そう。
先ほど、生命は、神の恩恵を授かるだのといったが、そんな現実味の無いことを突然言われたところで困ると、戸惑いを覚えた者も多いだろう。
そもそも、神などという存在、人間の妄想が練り上げた、架空の存在だと主張する者もいよう。
その論については、痛む程よくわかる。
実際、神という存在に幾度も遭遇したのだから、認めざるを得なかったわけで、何度も目にした今でも、神という存在を賛同しきれない自分がいる。
まあ、人知を超えた、理解の及ばぬ存在を神と呼ぶのであれば、それは正しい了見であり、これ以上に当てはまる呼び名など無い。
悲しいかな、この世界は、神と呼ぶに値する存在がいると、そう認識して欲しい。
さて、その神が霧散する『マナ』の影響についてだが、
『災』の一説曰く
恩恵とは、この世に生まれ落ちた時から授かるものであり、死に至るまで一心に浴び続ける。
愚者であろうと凡人であろうと、その存在に気付くのは不可能である。
しかし、その恩恵に気づけた賢人は、神との繋がりを実感でき、その気づきこそが唯一無二の至福、、、だと語っている。
正直、俺自身ちっとも理解していない。
兎に角、この信仰を強要したいわけなど毛頭ないことを分かってもらいたい。
注目してもらいたいのは、赤子の時から恩恵を授かるという部分だ。
恐らくその文書から導いた、俺の解釈では、誕生と同時に備わるものだから知覚するのが難しい、そううことだろうと。
例えばの話だが、俺達、幼き時からヨチヨチ歩きで、手足の動作などを覚えていった。
まあ、そんな筋トレのように脳を働かせながら手足の可動範囲を認識しながら動作確認する赤子などいないであろう。
そういう話をしたいわけじゃない。
その時、手が何故動くのかと疑問が湧くかという話である。
ある程度、知識を得た今でも、手が動く理由だなんて、考えたことなどない者が多いことだろう。
何故なら、そんなもの、当然すぎて疑う余地もないからだ。
ならば、恩恵とは、それと同義ではないのかと。
日常に馴染んでしまったものだから、その有難みを、有難いとすら感じられないのではないか、、、
ーーー俺はそう解釈している。
まあ、これでも、まだ納得いかぬ者もいるだろうし、信頼のたる情報を伝えるといったそばから、そんな曖昧な話をされたとて困るだろう。
だが、こと『災』を追う俺には、看過できぬ話だ。
一つ昔話をしよう。
昔、あるところに、豊かな国があった。
農作は豊穣、子孫は繁栄、商業や政治における面でも欠けることの無い素晴らしい国だったそうな。
その国にも代々伝わる神が根差していたそうな。
人口も増え、貯えができ、余裕がでだした、その国は、更なる発展を目指し領土拡大を図ったという。
その拡大の仕方が、杜撰で、破壊の限りであった。
そんな悪行を看過できぬ神は、彼らに歯止めをきかせに出向いたという。
されど、それでも飽き足らずに、好きたい放題した彼らは、神を蔑ろにした上に、あまつさえ、その地から追い出した。
その日は、強大な敵を圧倒したとして、国中歓喜で湧いたという。
だが、笑っていられるのも束の間、次の年は不作な上に、疫病が蔓延。
貯蓄があったが為に数年は、凌げはしたが、不作が長期に渡り、生活は苦しくなるばかり。
疫病を患わずにすんだものは、即座に国から離れ、見捨てられた者達は、力果てて沈んでいく。
あれ程までに勢いのあった国が一瞬にして萎んでいく。
十年と経たず、その国は廃墟に変わり果て、影を落としたそうな。
だが、奇妙なことに、人の出入りが無いのにも関わらず、呪いがかけられたかのように、雑草一つその地から、生えてくることはない。
草木が無い地に、動物は寄り付かない。
動く者すら存在せず、静寂に包まれた終焉。
その地は、まるで、命を拒んだ死の世界が広がるという。
・・・実際、その光景を目にしたことがある。
あまりに異様な光景で、変わり果てた姿に驚愕を覚えたはずだ。
ーーー神の無き地に未来はない。
あの日、目に焼き付けて、心に刻んだ教訓である。
実のところ、具体的な原因判明は成されていない。
勿論、この荒廃ぶりが神に直結していると安易に即決できる訳ではない。
ただ、国が壊れた所で、生態系が壊れる筈がない。
その地の環境をいとも容易く変化させてしまえるのは、神程の力でなければ成り立たない。
粗方、神の仕業だろう、というのが俺の結論だ。
だいぶ、長々と話し込んでしまったが、結局、言いたかったことは、神の『マナ』というやつを馬鹿にできないということだ。
なんせ、一国を滅ぼせす大出力であり、その上、知覚できない。
神という存在をこれ程までに、警戒している理由がそろそろ分かってもらえただろうか。
・・・さて、粗方概要は話せた、本題へと移るとしよう。
先日の一件、祭壇内での悲惨な事件の正体は、他ならぬ神の仕業である。
ただ、神が突如、暴れ狂ったとするのは、どうも考えにくい。
神とは、基本、敵と認識しない限り、生命に手を出すことはない。
それはつまり、裏を返せば、教徒が神の逆鱗に触れたことで、怒りの鉄槌が下されたと、そう判断するのが筋であろう。
そういう観点から考察していくに、自ずと答えは一つに絞られていく。
ーーーーーーーー神との『契約』
これは、全ての事の発端であり、この事件の終止符を打つ鍵となるものだ。
まあ、ぶっちゃけ、神絡みの『災』なんて、これに限る。
答えの決まった問いのようなものだ。
ただ、原因の解明と、事件の解決は、全く持って非なるものである。
原因が分かったとて、すぐさま解決に向かえるわけではない。
複雑で、何よりも面倒だ。
解決策は、後で話すとして、まず『契約』について話すとしよう。
『契約』とは、別段なんの捻りもなく、ただただ両者の間で契りを結ぶことをさし、今回は、神と人というケースである。
契約事態は、さほど難しい手順はいらず、誰彼構わず結べるはずだ。
しかし、神との契約を応じる際の困難なことは、そこではない。
ーーーーー気付いてもらうことである。
そう。自分の足で出向いたとして、神が応じてくれるとは限らない。
なんせ、奴らにとって、生命とは、一段劣る存在であり、「生命」と一括りにして見なすものだから、それが話しかけにくるだなどと思いもしないだろう。
それに、基本、神という存在は、莫大な規模の存在であり、人類というちっぽけな存在を認知することすら難しい。
いわば、蚊ほどの極小サイズになった自分が家族に助けを求めるようなものだ。
結局のところ、神にとって、人類とは、それほどの存在でしかないってわけだ。
恐らく、どんなに喚こうが、叫ぼうが、その声が、その祈りが、神に届くことはない。
視界を遮るなり、衝撃を加えるなり、興味を注いでもらわないと気づかれることはない。
実際、神の契りを求め寝床を徘徊したものの、無駄骨に終わったという記録が多数、残存する。
それほど徒労に終わることが多いとされる。
では、なぜ神との契りを願うのか。
それは、即ち、人類の手に届かぬ力を求めるためである。
当然、神には、これから何千、何万という年月を経てもなお到達できぬような力を有している。
その力に、見惚れ、憧憬を抱き、手に入れたいという欲望が湧く。
その力とは、地域の神々で性質が変わるとも聞くが、結局のところは、安泰である。
飢餓に怯えることの無い日々を
疫病に晒されることの無い日々を
戦争の戦火を浴びることの無い日々を
そんな平穏が約束されるという。
それは、永久に、その地を優しく包むという。
それは、いわば、『奇蹟』と呼ばれる類。
とうに、人知を超えた現象。
だからこそ、人々は挑み続けるのだと。
・・・その代価も知らずに、、、
当然、『奇蹟』に相当する甚大な現象には、代償というものが必ずついてくる。
ーーーーーーーーーーーーーーー『生贄』ーーーーーーーーーーーーーーー
神の寵愛を受ける謝礼として、幼子の血肉を分け与える行為。
それも、一日一つという配分で。
条件は、それだけ。
よく耳にするような話だ。
絶大な力をお借りする代わりに、一つの命を燃やす。
それは、一つの消費が、何千、何万もの命を救うことに繋がる。
何とも恐ろしい賭けだろうか。
少し思案するだけで、悍ましい結末を脳に描いてしまう。
まあ、そのへんの賛否については、後まわしにしよう。
贄には、幼子が対象とされるが、実は、突き詰めれば、『マナ』が欲しいだけである。
神と言えど、『マナ』を無尽蔵に生成できるわけでは無い。
当然、補充が効かなくなる場合もある。
そういうわけで、『マナ』を求めて、人との契約に応じるらしい。
さて、その『マナ』だが、どうも誕生と共に体内に内蔵されるものらしく、月日が経つにつれ、質が落ちていくとされる。
それは、裏返せば、生まれて間もない赤子が一番鮮度が高いことを意味する。
これを聞けば、『贄』の中での最上質である赤子に限定しないかのかと疑問を持つ者もいるだろう。
それは、単に数の問題だ。
赤子のみでは、些か無理が過ぎる。
だから、幼子にまで、許容範囲が広がっただけのこと。
・・・恐らくは、このような内容の契約を、教徒が結んだのだろう。
俺がそう結論付ける決定打となったのは、村周辺に形成されたスラム街に感じた違和感だ。
奇妙なまでに静寂と、行きかう人々の中に、あまりに子供が少ないという事実。
それはもう、単なる失踪などと片づけられる事態ではない。
俺からすれば、贄として犠牲になったとしか思えない。
それに、砂嵐という不可思議な現象も、児童を狙った誘拐と考えれば、おのずと奴の行動原理も読めてくる。
ーーーーー贄の補充。
これ以上に考えようもない。
分かってしまえば、当然な話だ。
赤子から幼子までと許容範囲が広がったとて、何も、尽きるというデメリットを解消したわけではない。
単に、先延ばしにしただけだ。
いづれ、底を尽きるのは、目に見えている。
どうして、貯えが無くなる先を見越せなかったのか、それは奴らがあまりに愚かだったとしか言いようがない。
策が尽きて、強行に出たのだろう。
切羽詰まった連中が、為すことなど想像に難くない。
その日のノルマを達成する使命に駆られ、惑うことなく犯罪に手を染め、若き命を掻っ攫う。
そうして、そうやって、その日、その日をやり過ごしてきたのだろう。
されど、そんな取り繕うような、余裕のない日々など、いずれ破綻するに決まっている。
その破綻が、運悪く、先日だっただけのこと。
当然、一日一命の掟を破ったとなれば、即ち、神の逆鱗に触れると同義。
神からすれば、連日、其の場凌ぎの敬意を感じられない贄を差し出された上で、その日は、飯抜きだと言われたようなものだ。
神が怒り出すのも道理である。
腹を空かせた神は、部分だけ現実世界に干渉し、手あたり次第に命を摘んでは、口に放り投げる。腹の虫を抑え込もうと試みる。
されど、口にしたものは、鮮度の落ちた劣化品ばかり。
これでは、腹の虫が抑まるはずもなく、また違う命へと手を伸ばす。
口に合う上に、より熟れた『マナ』を求めた、神の食事が、祭壇で起きた悲劇の真相だ。
結局のところ、教徒が掟を破り、神からの鉄槌を浴びたというわけだ。
これ以上ない、お手本のような自業自得だ。
敵であるのに憐憫にさえ覚えてしまう。
そこから、遅れて駆け付けた俺が介入し、何とかその場を収めれたという流れだ。
まあ、どうして暴れ狂るう神の怒りを鎮められたのかと問われれると、回答できなくもないのだが、今話していては、すこしゴチャゴチャニなると思うので、後回しにしよう。
さて、そこから、あの女とひと悶着あったが、砂漠をただひた歩くという現状だ。
勿論、ことの解決を諦めて、ただ彷徨い歩いているわけなどではない。
全て、早期解決を目指しての、理屈に敵う行動である。
まず、俺が成さねばならぬ最終目標というのは、神との解約だ。
さすれば、この村は、『贄』を捧げる労力から解放される。
これ以上のリターンはない。
成さない手はない。
ただ、契約を解除するにあたって、当然であるが、契約者である当人を神と俺が同伴のもとで、引き合わせねば、始まらない。
今現状、契約者を確実に絞り込めていない。
それに、、、もし、俺の予想が当たっているのであれば、俺の協力に快く乗ってくれるような人物ではない。
最悪は、力づくでの解決も見通して置かねばならぬという状況だ。
これでは、短時間で早期決着をつけられるとは、到底思えない。
だから、時間稼ぎが必要だ。
神が目を醒まし、現実に干渉する前に。
あの場面は、俺がいたからこそ身を引いてくれたが、やはり空腹を思い出して、『マナ』を求め、村中を彷徨い始めるであろう。
それを阻止するのであれば、腹を満たさせるしかあるまい。
しかし、神の機嫌を窺う為に、また幼子を犠牲にしては、本末転倒だ。
これまで、なんのために教徒と戦ったかのか、わからなくなってしまう。
そこで、神が『マナ』そのものを求めてることを突く。
つまり、代用なんて幾らでも可能だってわけだ。
『マナ』ってのは、超自然力と言われ、万物に宿るという。
だから、極論、今踏みしめる砂でさえも、『マナ』が潜んでいる。
ただ、含有量に違いがあるわけで、ここら一帯の砂を搔き集めた所で、幼子に足る『マナ』を補えない。
それに勿論、そんな砂の塊のような敬意のけの字すら見えないような供え物など、ご法度。
神に喧嘩を売るようなものだ。
教徒の奴らが、この知識を知っていたか、どうかは知らぬが、どちらにせよ、贄を代用するなどという愚かな手口は候補にすら入らなかったのだろう。
もし仮に、知識として蓄えていたとして、それでも強行に走らなかったのであれば、賞賛に値する。
それほどに、神を蔑ろにするのは、危険極まりないのだ。
ただ、一度、怒らせてしまった今では、話は別。
素直に、人類の願を聞いてくれるなどとは到底思えない。
それに、贄用の幼子を探したとて、快く差し出してくれる者など皆無であろう。
これ以上の犠牲を出さぬために、贄の代用を探す他ない。
当然、不敬に見合った危険を冒す羽目となる。
だが、、、いや、だからこそ、あえてその方法で活路を見出そうと思う。
為すべきことは、至って簡単だ。
『マナ』を探す。
ただし、どれであろうと幼子には、劣るであろであろうので、量で笠増しする必要がある。
だが、積み荷が必要な程の量では困る。出来る事なら、両手で抱え、一回で運べるほどの量で抑えたい。
であれば、それだけ含有量の高いものを探すことになる。
、、、で、それを探している最中である。
まあ、とても長くなったが話を要約するとこうだ。
教徒の野郎が掟を破ったが為に、神との契約を破棄させねばならない。
ただし、その契約者を捕まえ、解約させるまでに時間がかかるのは、想像に難くない。
そこで危惧すべきことは、奴を捕捉するのに手こずって、神が再び目覚めることだ。
一度、俺との対峙により身を引いてくれたとは言え、食欲が満たされていない以上、神の怒りが再発するのは、目に見えている。
となれば、先に神の空腹を満たせ、怒りを鎮め、時間を稼ぐ方が自分にとっても、村にとっても、安全だ。
それで、神にとっての主栄養素である『マナ』を含み、かつ、密度の高いものを探しているというわけだ。