4、女神の街
ポツン、と何かが額に乗せられた事に気づきエーヴァは目が覚めた。
人影が見えたので右側を見ると、女性が目を見開いてこちらを見ている。
エーヴァが起きた事に気付いた彼女は、慌ててその場から立ち去っていった。
どうやらベッドに寝かされているらしい。
ここは天国だろうか……そう思いながら、エーヴァはベッドから身体を起こすが、激しい頭痛に思わず手で頭を支えた。
しばらくして頭痛が落ち着いた彼女は、周囲を見回してみる。
壁や天井は白を基調とした石で作られており、暖炉と思われる場所には非常に繊細な羽や、花などの装飾がなされている。
床は白いタイルが敷きつめられ、寝ているベッドや装飾品は青を基調としていた。
そして後ろを振り向くと、大きな窓があったのだが……その窓に映る光景を見た瞬間、エーヴァは目を疑った。
目の前には悠々と泳ぐ何かがいる。エーヴァは初めて見たソレを信じられずに目を擦ってもう一度見つめるが、何匹も窓を通り過ぎていく。
よくよく見ると、木のように見えたものはゆらゆらと揺れているし、揺れていないものも赤や黄、青色などでエーヴァには初めて見るようなものばかりだ。
身体を戻し、改めて己の手を見つめる。その手は生前の自分の手に変わりはない。手で頬に触れてみれば体温を感じる事ができ、胸に手を置けば鼓動を感じる事ができた。
生きているのかも死んでいるのかも分からないこの状況を飲み込めずにいると、不意に扉の外から足音が聞こえてくる。
バタバタと駆けてくるような音が複数あることから、慌てているのだろう。
何故ここにいるのか聞いてみようか、でも忙しそうだしなぁ……と考えていたエーヴァだったが、足音は彼女の部屋の扉の前で止まる。
それと同時に扉をノックされたので、「はい」と声を出す。
中に入ってきたのは、先程隣にいた女性と知らない男性が一人だ。特に右にいた男性は安堵した表情で近づいてきた。
「体調はどうだ? 記憶は?」
「先程まで頭痛はありましたが……今は落ち着いています。記憶はあるのですが、その前にここは何処でしょうか? 天国でしょうか?」
エーヴァは目の前に座った相手の男性に悪意がない事を感じ取り、警戒は続けるが素直に返事をする。
それにここが何処だか分からない以上、どうしようもないという諦観もあるのだが、その答えを聞いた男性は首を横に振った。
「いや、ここは天国ではない。成程、後遺症などの問題はなさそうだ……君も聞きたい事は色々あるだろうが、まずはお茶が来てからで良いかい? ああ、無理して動かないように」
そう言われて喉が渇いている事に彼女は気づく。
こくん、と頷けば彼は後ろに佇んでいた女性に目配せをした。女性はその意図を理解したのか一礼した後、部屋を後にする。
その背を見送った後、彼はエーヴァへと顔を向ける。
「じゃあ、まずは私の自己紹介からしよう」
それから女性が来るまでは、彼の自己紹介だった。
彼はアダン、と名乗った。
アダンはこの屋敷――全体を見れば、城ではあったが――の主人なのだそう。
先ほどの女性はこの屋敷の使用人の一人で、二人の子持ちの母だと教えてもらった。てっきり同い年か数歳上くらいだろうか、と思っていたエーヴァは驚きを隠せなかった。
先ほどの女性はワゴンにお茶やお菓子らしきものを乗せてこちらへ戻ってくる。それだけではなく、後ろには大きな男性が何かを持ち上げて彼女の後ろから歩いてきていた。
彼女たちがベッドまでたどり着くと、まず男性が持ち上げていた物を下ろしエーヴァの身体の前に設置した。説明によるとベッド専用のテーブルらしく、そこに彼女用に中身が注がれているティーカップが置かれる。
そして二人は仕事が終わったのか、頭を下げて部屋を退出した。
またアダンと二人きりになる。恐る恐る彼を見ると、彼は微笑んだ。
「先に飲むといい。口に合えば良いのだが」
ほら、と彼は自分のティーカップに注がれたお茶を一口飲んだので、エーヴァもお茶に口をつけた。
刺激的な香りが鼻につくがお茶自体は飲み易く、喉が渇いていた彼女は何度かお茶に口つける。
喉の渇きが解消されたからか、強張っていた肩もゆっくりと力が抜けていく。少しずつではあるがくつろぎ始めた彼女の様子を見ていたアダンは、満足そうに言った。
「口にあって良かった。さて、色々話そうとは思うのだが、その前に君が何処まで覚えているかを知りたい。覚えている出来事だけでいいから、教えてもらえるかい?」
そう言われたエーヴァは頷いて、自分の境遇を話し始めた。
彼女は妹が神託で女神の泉の巫女になった事、それを嫌がった他の三人がエーヴァに押し付けた事、そして女神の泉に身を投げた事を話した。
アダンはその話を何やら考え込みながら聞いていた。
彼女が話し終えると、彼は「そうか」と一言呟き、エーヴァを見据える。
「君の状況は理解した。辛かっただろうが、話してくれて助かった。次はこちらが話す番だな……君の疑問に答えよう。先程、君は『ここは天国か』と聞いたが、そもそも君は死んでいない。生きている。泉で手を引っ張ったのは私だ」
「貴方が助けてくださったのですね。ありがとうございます」
そうお礼を伝えれば、彼は「それが仕事だからな」と話した。
「で、ここは何処だという話なのだが……君は信じられないかもしれないが、ここは君たちが女神の泉と呼ぶ……我々はここを湖と呼んでいるのだが、湖の湖底にある街だ」
「こてい?」
「湖の底にある、という事だ」
湖の底に街がある、その言葉にエーヴァは耳を疑った。彼女は女神の泉へと飛び込む前に一度水面を覗いており、その時には街があるようには見えなかったからだ。
この部屋のように明るければ、何かしら光らしきものが見えたはず……そう考えていた矢先、アダンが続きを話し始めた。
「この街は女神デューデ様によって作られた湖底都市だ」
「デューデ様……」
「そうだ。君の暮らしていた王国を守護する女神様の事だ」
アダンの言葉に幼い頃、亡き母が「デューデ様と仰るのよ」と言っていた事を思い出す。
「ここがあの泉の中……ですが、私が泉を覗き込んだ時は街があるようには見えませんでしたが……」
「この街にはデューデ様の加護が掛けられている。だから、地上からは見えないようになっている、と聞いた事がある」
「そうなのですか……」
彼の話が真実であるのか、嘘であるのかは今の時点で判断する事はできない。
だが、確実に言える事は、己が生きていると言う事である。爽やかな笑みでこちらを見ているアダンの瞳には、心配の色はあれどエーヴァを蔑むような視線は感じない。
その視線に安心を覚えた時、エーヴァにどっと疲れが襲う。
目を擦り始めた彼女に気づいたアダンは、彼女をベッドに寝るよう伝えて微笑んだ。
「ゆっくりするといい」という言葉に甘えて横になれば、今までの疲れからかすぐに寝息を立てて、彼女は眠り込んだ。