3、女神の泉
水面に映る太陽の光が遠くなっていく。
息ができない苦しさから思わず周囲の水を掻き、段々と遠くなっていく光を掴もうとするが、もがけばもがくほど暗闇の中へ引き摺り込まれていく。
――苦しい!
久しぶりに現れた感情にエーヴァは目を見開く。そしてまだ私はこの世にしがみついていたいのか、と諦観した。
現在彼女がいるのは、女神の泉の中。巫女として務めを果たしたのだ。
あの後、今までの鬱憤を晴らすような折檻を受けた後、食事も出される事なく泥のように眠った。そして朝早く叩き起こされたエーヴァは今まで着た事のないような美しい水色のドレスを着させられ、家族と共に女神の泉まで連れてこられたのである。
女神の泉では、既に両陛下と教皇が眉を下げて悲観した表情で佇んでいた。そして同様に絶望した(振りをしている)公爵と義母と義妹が現れると、声をかけた。
「この度は……すまなかった」
「いえ……悲しい事ではありますが、貴族としての責務でございます。娘もそこは理解しておりますので……」
「せめて……私が神の御許まで安らかに向かえるよう、祈りを捧げます」
「教皇様……ありがとうございます」
公爵夫妻は両陛下と教皇の発言に感謝した事を示そうと、公爵は袖で目を拭い、義母は両手で顔を覆う。高位貴族は演技も上手なのね、と二人の姿を白い目で見ていたエーヴァは思った。
それよりも、義母に隠れてこちらを嘲笑っている義妹は大丈夫なのだろうか。両陛下や教皇の護衛の位置から彼女の表情は見えそうなものだが……と考えて、自分には関係ない事だと気づく。
挨拶が終われば、エーヴァは護衛の案内で丁度足で踏めそうなほどの大きさの岩の元まで連れてこられ、岩の上に乗るように促された。女神の泉の側にある岩に登っていいのだろうかと思った彼女が首を傾げると、案内の護衛が「儀式なので問題ありません」と小声で呟いた。
それなら、とエーヴァはまず右足を岩に乗せてから左足を岩に乗せる。
するとその時、彼女の足元から夕日のような赤い光が現れた。一瞬驚きから目を見開いたエーヴァだったが、その光に悪意が感じられない事に早々気づいた彼女は光が収まるまで静観していた。
周囲は騒々しくなるが、後ろで公爵が陛下に上奏する声が聞こえた。
「陛下、あの光は歓迎の光ではないでしょうか。それでしたら早く儀式を遂行するべきではございませんか?」
「……うむう、教皇よ。何かあの光については知っているか?」
「古文書によりますと、神託後にあの岩へ乗ると起こる現象だ、と書かれておりました。ですが……」
そこで声を詰まらせる教皇。歯切れの悪い彼に国王は「どうした」と怪訝な表情を見せる。
「いえ、古文書には白い光と書かれていたものですから……私の勘違いかもしれませんが」
前回の神託の状況が書かれている古文書は既に二百年ほど経っており、所々掠れたり穴が空いたりと読むのに苦労したそうだ。だから見間違えたのかもしれない、と教皇は思っていた。
公爵はこの儀式の先行きが怪しくなってきた事に焦り、言葉を紡いだ。
「色はどうであれ光ったのであれば、儀式を執り行っても良いのではありませんか?」
「それもそうだな。リリス嬢、よろしく頼む」
申し訳なさそうな表情の両陛下と教皇の後ろで、嬉しさを隠せていない同居人たち。エーヴァは彼らを冷たく一瞥した後、泉に身体を向ける。そして無表情のまま、自ら泉に飛び込んだのだった。
走馬灯のように今までの人生が頭の中に流れていく。碌な事がなかったなあ、とエーヴァは自嘲した。
先程までは苦しさからか足をバタつかせていたが、今はもうその気力も失われており、徐々に遠くなる水面の光を見つめながらゆっくりゆっくりと水底に降りていく。
もう息が続かない。そう思って目を閉じ、近づきつつある死に手を伸ばす。
だが、伸ばした手は不意に強い力で掴まれる。水底へ落ちていたはずの彼女の身体が上に持ち上げられたところで彼女の意識は途切れた。