1、虐げられた令嬢
公爵家の長女でありながら、屋敷の奥にある物置に押し込まれていた令嬢。それが、エーヴァだった。
数年ぶりに父の執務室に呼び出された、と思えば、何やら数百年ぶりに神託が降りたのだそうだ。何の関係があるのか、と目を細くするエーヴァだが、その瞳にはニヤニヤと嘲笑っている義母、義妹と実の父の姿が映る。
全く理解できない話に困惑するエーヴァを、まるで見下すかのように実の父である公爵は嗤笑しながら話を続けた。
「そうだ。昨日、王宮にある教会の女神像から神託が降りたと、先程我が家に通達が来た。その通達は、『リリスを巫女に命ずる』という神託だ」
「巫女に……」
エーヴァはその言葉を聞いて、王国に伝わる伝承を思い出した。
王国には、王宮内に「女神の泉」と呼ばれる神聖な場所がある。何でも伝承によれば、この泉に辿り着いた初代国王とその側近たちは泉に顕現した女神と出会ったとされている。そして女神の支配している土地に建国する事を許されたのだそうだ。
それと同時に、「神託で名前が上がった人物は巫女として池に捧げよ」と女神は告げた後、その場から消え去ってしまったというものだ。
王国が建国して以来、片手で数える程ではあるが神託が降りているらしく、王家秘蔵の古文書に書かれているという話を幼い頃亡き母から聞いていた。
実父の話によると、巫女として名前が上がった妹リリスは一ヶ月ほどしたら王宮へ上がり、その後女神の泉に飛び込まなければならないらしい。彼は「忌々しい、何故我が可愛い娘が……」と呟きながら、エーヴァを睨みつけた。
「それでだ。リリスの代わりにお前が生贄となれ。お前はスペアだ。背格好も似ているし、入れ替わっても問題ないはずだ」
「感謝しなさいね? 私の美しい名を名乗れるのだから」
「本当ね。お前など可愛いリリスと比べれば薄汚いドブネズミのようなもの。私たちの役に立つ事ができる最後の温情よ」
そう言って嘲り笑う妹と義母。どうやらエーヴァをリリスと偽って巫女として送り込もうと考えているらしい、とエーヴァは理解した。
彼女は「ありがとうございます」と掠れそうな声で呟いた。
エーヴァには反抗する気力も当の昔に消えており、この現状から抜け出せるのなら、もうどうでも良いという諦めの境地に至ってしまっている。それが例え、男遊びが激しく我儘で、欲しい物は手に入れないと気が済まない。そして極め付けには平気で人を傷つける。そんなリリスの悪評を背負わなくてはならなかったとしても。
ゲラゲラと下品な笑いを三人から浴びせられたエーヴァは、頭を下げて物置へと戻っていった。
何故公爵家の長女がこのような扱いを受けているのか。
元々エーヴァの父である公爵は、彼女の母と政略結婚だった。だが、気の強さを全面に押し出し口煩い母と公爵の相性が最悪だったのである。
最初こそ跡取りを残す必要があるからと嫌々房事は行われたらしい。だがエーヴァが宿った後からは、まるで顔が見るのも嫌だと言わんばかりに公爵は母のことを無視したのだ。
そしてエーヴァを出産した後から母が5歳で亡くなるまで、エーヴァは数える程しか公爵と顔を合わせなかった。それもそのはず、エーヴァは母と共に別邸に押し込まれたのである。
その時もまだ母専属の侍女はいたし、食事もある程度与えられていた。母が何を思っていたのかは分からないが、エーヴァの知る限り別邸から出る事はなかったので、もしかしたら彼女も公爵には愛想を尽かしていたのかもしれない。
だが、母といて平和だった日々は母の死とともに崩れ去る。
4歳頃から身体が弱くなっていった母は、エーヴァが5歳の冬に流行病にかかってしまった。母の異変を感じたエーヴァは、別邸を出て本邸にいる人たちに助けを求めようと、薄着で慌てて飛び出したのである。
本邸の玄関にたどり着くと扉は固く閉じられていたため、エーヴァは小さな手で扉を叩き、「お母さんを助けて」と訴え続けた。どれだけ時間が経ったのかは分からないが、そこに現れたのは公爵――彼女の実父であった。
彼はエーヴァを一瞥すると、鼻を鳴らす。そしてこう言い退けたのだ。
「ふん、やっとくたばったか」
その言葉を呑み込む事ができず呆然と立ち尽くしているエーヴァを睨みつけた後、彼は荒々しく扉を閉めた。エーヴァの耳には無情にもカチャリ、という鍵のかかる音が聞こえる。そこで彼女は、実父が自分たちを嫌悪しているという事を悟ったのだ。
その後エーヴァは必死に母を看病していたが、翌朝身体が弱っていた事もあり母は亡くなっていた。残酷な事実に悲しさから部屋の隅で膝を抱えて泣いていると、朝食にはまだ早い時間帯にバタン、と大きな音を立てて別邸の扉が開く。そこに立っていたのは、公爵であった。
彼は遠慮なくズカズカと母の部屋に押し入り、ベッドで寝かされている母の亡骸の元へ行く。そして後ろにいた白い服の男性に声をかけると、その男性は「お亡くなりになっております」と彼に伝えていた。
部屋に何人もの人が出入りし、あれよあれよという間に母の亡骸は運び出されていく。エーヴァが慌てて母の元へ行こうと立ち上がると、それに気づいた公爵は彼女を睨みつけ告げた。
「葬式が終わるまで、この娘を物置に閉じ込めておけ。」
「承知いたしました」
恭しく頭を下げた執事は、公爵が退出した後頭を持ち上げ、まるで汚いものを見るかのような目でエーヴァを見る。そして手に赤い痣が付くほどの力で嫌がるエーヴァの右腕を引っ張り、本邸の物置に閉じ込められたのである。
亡き母の葬式にも出させてももらえず、食事は一日一回硬いパンとスープだけ。そして朝使用人よりも早く起きて掃除をさせられ、掃除中に義妹や義母と鉢合えば嫌味や悪態を吐かれ、時にはわざと掃除した場所を汚され、折檻として背中を叩かれ……そんな日々を過ごしていた。
何故ここまで目の敵にするのか最初は理解できなかったエーヴァであったが、義母や義妹の嫌味から義母と公爵は亡き母と婚約者になる前からの付き合いであった事、政略結婚後もこの屋敷とは違う別邸に二人は暮らしていた事、エーヴァが生まれる少し前に義母は本邸で暮らし始めたという話を聞き、実父の不貞についても知った。
亡き母は公爵と義母を引き裂いた悪女であり、その娘もまた虐げる対象だとでも思っているらしい。それに気づいてから、彼女は全てを諦めたのである。
*二行目「数年ぶりに本邸に呼び出された」を「数年ぶりに父の執務室に呼び出された」に変更しました。