感想人としての心得(射精責任論より)
わたしはたぶん5000以上の作品に感想を書いている。(ちょっと盛ってる)
なろうだけでなく、エッセイだけでなく、いろんなサイトのいろんな作品に感想を書いてきた。
だから作者であるとともに読者――、読者だとなんだかスペシャルな感じがしないから『感想人』って言葉を使わせてもらおう。
必殺感想人とか書いたら、なんかちょっとカッコいい。
わたしは感想人である。
さて。
まず、感想人たる心得としては、責任の所在は感想人にあるということだ。
これを勘違いしてはいけない。
作品は文字で構成されているが、論文や数学でない以上、すなわち『文芸』である以上、その作品は多義性を持っている。
解釈の余地といっていいかもしれない。
解釈の余地が広いからこそ、読者は感想という解釈を施すことができる。
絵だとわかりやすいだろうか。
絵はそこにただ『在る』ものだ。誰かに見られて、解釈されるのをただひたすら待っている。
ピカソの絵を見て、これはシュールレアリスムの観点からうんぬんと言ってみたり、あるいは子どもみたいな絵だなーと言ってみたり、この程度の絵なら俺でも書けるわーと言ってみたり、いろいろと感想を述べていくことだろう。
これらの視線の元にあるのは、読者であり、もっと言えば読者のリビドーにあるといってもよい。
リビドー、パトス、情動。
言葉はなんでもいい。
ともかく、勃起しているのは、読者なのだ。
したがって、読者にこそ責任がある。
エロくない作品でもそうなの?
そうなの。
作品が多義性を有している以上、読者はそこに感動を覚えたのである。
その感動を発射したい、すなわち射精したいと考えたのだ。これを読者の責任と言わずになんとする。
感想は、本質的に、根源的に、作品を穢す行為である。
あなたの煩悩で、欲望で、リビドーで、ぶっかける行為である。
これくらい書けば伝わるだろうか。
したがって、感想人はわきまえなければならない。
感想を書くという行為は作品を穢してしまう行為なのだと。
もちろん、多くの場合、作者は感想を欲しがっている。解釈して、分析して、穢されることを望んでいる。
精液まみれにされるのを望んでいるビッチである場合が多い。
だとしても、ここでは慎重にならないといけない場面だ。
作者が本当に望んでいることを、知識と智慧を総動員して、そうやって書くべきである。
本能に基づいた射精である以上、読者の勝手だろというのは獣の論理だ。
あるいは、そこで裸で誘っているから、雑に取り扱ってもよいというのは、DQNの論理だ。
できるだけ顔色をうかがい、作者様にも気持ちよくなっていただきたいという気持ちで書くべきである。
つまり、紳士になるべしというのが、感想人の心得である。
時々、紳士になりきれずに、横っ面をはたかれて出ていけ(ブロック)されることはあるけどね。
ところで、エッセイについてもそうなのかという意見があるかもしれない。
これは、エッセイというものが、そもそも文芸なのかというジャンル分けの問題に帰着するのではと考える。
文芸=芸術と対比されるのは、政治的言説=数学的言説であろう。
例えば、多義性を自らこそぎ落して、『この作品はこういう読み方しか認めません』という作品があったら、それはプロパガンダへと堕していくことになる。
堕していくと書いたが、これは芸術を上に見ているマウントだね。でも、文芸を読みに着ているのにプロパガンダを読ませられたらさすがに文句のひとつも言いたくなるわな。もちろん、プロパガンダ自体をいいか悪いかはここで述べるつもりはない。ただ、プロパガンダとは、読者を洗脳しようとしているわけだから、芸術のようにそこに『在る』ものではなく、なんらかの言説を『主張』しているものである。つまり、射精している作品なのである。
あるいは、そもそも『1+1=2である』という作品があったら、それ以外の読み方はできようがないので、芸術ではなく論文だという話になるだろう。
ただ世の中には、数学の数式を見ただけで勃起する変態もなかにはいるので、この作品論文なんですけど……って作者に引かれることもあるかもしれないな。
エッセイというジャンル自体が、詩やプロパガンダや論文がごった煮になっていて、しばしばレギュレーション違反をおこしがちというところは気をつけるべきところだろう。
感想人としては、文芸じゃないデスって主張している作品は、ああ、そうなんだって避けてるけど、これも難しいねんな。論文だろうがなんだろうが、そこに隠喩を読みこんでしまうのが読者の性であるから。数学の公式を見て『美しい』と思ってしまうことも普通にあるわけでして。感想書いたあとに、しまったこの作品論文だった。わたしは論文で射精してしまった変態ですって事態はありがちな失敗だ。
その意味では小説はレギュレーション違反は起こらないから安心していいと思う。
小説で例えば『作者は豆腐メンタルなんで否定的意見はお控えください』みたいな惹句があったとするなら、あらあらこの作品、最初から死んでいるわ。かわいそう。だって最初から作者に殺されちゃってるのだもの。という脳内感想がまず生じる。
例えば、読者が『この作品おもしろくない』みたいな感想を書いたとする。その感想は否定的意見だとして削除されてしまった。結果として、感想欄に遺るのは『おもしろい』というメッセージだけになってしまう。『おもしろい』という解釈しか許さない作品になってしまう。これもまたプロパガンダ化だろう。ただ、プロパガンダそのものにはならないのは、小説が有している隠喩というのはひとつの解釈を潰したくらいではなくならないからだ。けれど、芸術作品としては劣化しているとわたしは考える。
芸術とはなんだ。
芸術とはモノ自体である。そこにただ『在る』ものである。
作者が『批判』『非難』『否定的意見』『わたしが不快に思ったもの』なんでもいいが、ともかく読者の解釈を削減しようとしたとき、読者の責任を剥奪したとき、作者は作品を、自分の娘をレイプしているのである。その認識を作者は持ったほうがいい。いやべつにいいんだけどね。わたしは自分でオナニーするために書いてますって人もいるかもしれんし、自分の娘をレイプするのが好きなんですって作者様もおられるかもしれんので。
この劣化芸術作品とでも言うべきものに対して、感想人はどのように対処すべきだろうか。
当たり前だが、腫れ物のように扱うべきということになるだろう。
劣化芸術作品は『射精を禁じている』あるいは『射精管理されている』作品である。(なんかそれはそれで興奮するな……)
感想欄を完全に閉じていれば、射精はできないので、どんな感想を書こうとか思い悩む余地はない。
だが、射精管理されている場合は、作法が難しい。
勝手に射精したら怒られるかもしれないし、許可を待たなくてはならないからだ。
劣化芸術作品につきあっていくって、けっこう高度なことだよなと思う。
感想人としては、素人にはなかなかお勧めできない作品ということになるだろう。
ざぁこ♡
つらつらと書いてきたが、感想人としての心得を今一度まとめてみる。
1、感想人は自分の好きという気持ちを作者に圧しつけているという認識を常に持つべし。
2、上記1により、感想人は常に紳士であり、作者の気持ちを第一に考えて感想を書くべし。
ここで、『作者の気持ち』なるものが、わりと曖昧で難しいと感じることもあるだろう。
惹句で『豆腐メンタルです』とも『批判歓迎』とも書いてない作品が圧倒的に多いので、お気持ち表明がないからだ。
もちろん、作品が発表されているという行為それ自体が、そして感想欄が閉じられていないということ自体が、感想を書かれることを概ね肯定していると推測することはまちがっていないだろう。しかし、なんでもかんでも許されているかというのはわからない。
べつに読者‐作者の関係にかかわらず、本来的に他者とは未知のものであるから。
だから、慎重になるべきというのは感想をたくさん書いている人なら体感としてわかるだろう。まず、読者は感想欄を覗いてみるはずだ。そこで作者の感想返信なりを見て、ああこの人は辛口感想も欲しがってる人だとか、甘口のほうがお好みかなとか、読者と作者の語らい自体が甘いものだったら、そこにズケズケと踏みこんでいくのはちょっと躊躇するなとか、そんなことを考えたりする。
対話の劇的作用というのも考えなくはない。つまり、感想がそこに書かれ、感想に返信がなされ、『誤解』が生じる。そのすれ違いが緊張感を生み、詩が生まれる。なんというか、感想欄も含めて作品ですみたいな作品も中にはあるわけで、そういう場合には、むしろひっかきまわすような感想のほうがよいのではないかと思ったりもする。
ただ、気持ちを考えるのをやはり優先すべきであろうから、原理2に従って、このあたりはおずおずと慎重に歩みを進めていくほかない。
ふぅ……ちょっと真面目な話をする。
射精と書いたのは、べつに変態思考ではなくて(それも否定できないことなんだけど)感想を書くという行為に、あなたに責任を感じてほしかったからだ。
――えー、わたし責任なんかとりたくない。
感想で嫌われる可能性があるくらいなら書かないって考えるかもしれない。そうだね。でも、あなたはその作品のことが好きだったんだろう。その好きって気持ちが爆発しそうになって、胸のあたりから、口まで出かかっているんでしょう。
だったらスッキリしなさいな。
ほら射精せ、射精せ、射精しちゃえよ♡
――わたしの感想は精液なんてそんなキタナイものじゃない。
じゃあ、キレイな言葉で取り繕おう。親の祈りだと考えるのはどうだろう。
前にもエッセイで書いたことあるけど、ルイス・カンガスより『親の祈り』
(出典:渡辺和子「愛と祈りで子どもは育つ」)
神様
もっとよい私にしてください。
子どもの言うことをよく聞いてやり、
心の疑問に親切に答え、子どもをよく理解する私にしてください。
理由なく子どもの心を傷つけることのないようにお助けください。
子どもの失敗を笑ったり怒ったりせず、
子どもの小さい間違いには目を閉じて、
良いところを見させてください。
良いところを心からほめてやり、
伸ばしてやることができますように。
大人の判断や習慣で子どもをしばることのないよう、
子どもが自分で判断し自分で正しく行動していけるよう、
導く智恵をお与えください。
感情的にしかるのではなく、正しく注意してやれますように。
道理にかなった希望はできるかぎりかなえてやり、
彼らのためにならないことはやめさせることができますように。
どうぞ意地悪な気持ちを取り去ってください。
不平を言わないように助けてください。
こちらが間違った時にはきちんとあやまる勇気を与えてください。
いつも穏やかな広い心をお与えください。
子どもといっしょに成長させてください。
子どもが心から私を尊敬し慕うことができるよう、
子どもの愛と信頼にふさわしい者としてください。
子どもも私も神様に生かされ、愛されていることを知り、他の人々の祝福となることができますように。
――えー、作者って「子」なの? 読者は「親」とかマジで言ってるの?
そう思われるかもしれないが、概ねこれでいいと思っている。
親は子に責任があるものだろう。
感想人は感想に対して責任を持つものなのだ。
あ、ちょっと書く♡ ちょっと書いてんじゃねーよ!(特に意味のない結語)
もちろん、ベル子はロリビッチです。はよ♡ あ、☆も好き。この欲しがりさんめ。