めんどりの悲しみ
恋というのは不思議なものです。
どう考えても上手くいかなそうな恋ほど、のめりこんでしまう時があるからです。
田舎の大きな家に飼われている、ちょっと変わった一羽のめんどりもそうでした。
めんどりが飼われていた家では、野菜や卵などを近くに住んでいる人に売っていました。
彼女は他の鶏よりも色が濃い卵を産んでおり、その卵をわざわざ求めてくる家族もありました。
その家族の一人息子こそが、めんどりが恋した相手でした。
めんどりは、他の鶏たちと一緒に鶏小屋の中で飼われていました。
鶏小屋からわずかに見える青い空を見上げるのが、めんどりの数少ない楽しみでした。
母親と少年は、野菜や卵を買いに来るたびに、その鶏小屋の前を訪れます。
そして、いつもおいしい卵をありがとう、と言って帰るのが習わしでした。
めんどりが少年の何に恋したのかは分かりません。
その宝石のような青い瞳でしょうか。
柔らかであどけない笑顔でしょうか。
それとも、彼がいつも着ている空色のシャツでしょうか。
そもそも、異なる生き物にこの手の感情を抱くことを、恋と呼んでもいいものなのでしょうか。
命をつなぐために同じ生き物同士が好き合うのはまだ理屈が通ります。
でも、めんどりと人間だなんて、卵を産むのにも、ひなを育てるのにも、何の役にも立ちませんよね。
だとしても、いや、だからこそ、でしょうか。
めんどりはその少年の事を想わずにはいられないのでした。
ある日、少年が母親と一緒に鶏小屋を訪れた時の事でした。
母親と少年は、鶏たちにエサをあげていました。
手のひらの上にエサをのせて、鶏たちについばませています。
めんどりももちろんそっちの方に寄っていきました。
少年はめんどりの方を見ると、キミも食べるかい、と言って手を差し出してきました。
その柔らかな笑顔を見ると、めんどりは喜びに打ちふるえました。
自分は今なんと幸せなのだろうとも思いました。
緊張しながら遠慮がちについばもうとした時でした。
隣から何羽かの鶏が割り入ってきて、エサをうばおうとしてきました。
めんどりはあわてて、他の鶏に取られまいと少年の手のひらからエサを取ろうとしました。
しかし、そこで力加減を間違えて、彼の手のひらを強くつついてしまったのです。
痛い、と声を上げて、少年は手を引っこめてしまいました。
少年はエサを落としてしまい、そこらじゅうに散らばったエサを求めて、他の鶏たちはけんかを始めました。
バサバサと羽音がする中で、少年は母親にかばわれながら鶏小屋をあとにしました。
涙目になりながら、手のひらから血がにじんでいる、と母親にうったえています。
めんどりは、ぼうぜんとしながら、二人が去っていくのを見ているしかありませんでした。
その日を境に、少年は鶏小屋の方に来なくなってしまいました。
卵や野菜を買いに来るときも、母親のかげに隠れて、鶏小屋の前を足早に立ち去ってしまいます。
少しでも彼の姿を見ようとしたり、気づいてもらえるように鳴いてみたりしましたが、むだでした。
そんな風にして、月日だけが過ぎていきました。
最近のめんどりは、なかなか卵を産めなくなっていました。
エサもあまり多く食べる事が出来ません。
それこそがまさに、恋わずらいというものなのだ、と言う人もいるでしょう。
めんどりの心は、深い悲しみに包まれていました。
あの日からずっと、少年はこちらに来てくれない。
もう彼が自分に笑いかけてくれることも無いのだろうか。
彼の姿を見る事が、自分にとっての楽しみだったのに。
そんな事を、めんどりは考え続けていました。
きらわれてしまった、と考えるしかありませんでした。
しかし、それを受け入れる事が、どうしてもできません。
だからといって、好かれるために何が出来るのかと聞かれても、答えは思い付きませんでした。
ぐるぐると考えをめぐらせているうちに、ある当たり前の事に思い至りました。
どんなに彼の事を想ったとしても、それが一体何になるのだろうか。
もし万が一、彼に好かれることがあったとして、それが一体何の役に立つのだろうか。
人間と鶏が結ばれる話なんて、古今東西聞いたためしがありません。
自分はただ、彼を想う事を楽しんでいるだけで、その先の事は何一つ考えていなかったのではないのか。
しかし、本当にただ相手を想うだけなら、別に相手にどう思われようがどうだっていいじゃないですか。
どうせ結ばれることがないのなら、それはなおの事です。
ですが、めんどりの心はそう思いませんでした。
少年の姿を見たい。
笑いかけてほしい。
仲良くなりたい。
そんな考えがうかび上がってきて、いてもたってもいられないのです。
もはやめんどりには、自分の想いをどうすることも出来ません。
受け取ってもらう事がかなわなくても、この気持ちを外に出さずにはいられません。
少年に届く訳などないと分かっていましたが、めんどりは内に秘めた想いをはき出すように鳴き声を上げました。
心の中で暴れ回っているものを、少しでも解放しなくてはと思ったからです。
すでに辺りは夜になっていましたが、それに構わずめんどりは鳴き始めました。
ただひたすら鳴いて、鳴いて、鳴き続けました。
おんどりのような声では鳴けないですし、鳴き続ける事が何かをもたらすとは思えませんでした。
その声を聞いて、少年がこちらに来てくれることもないでしょう。
それでもめんどりは、鳴かずにはいられなかったのです。
あまりにもけたたましく鳴くので、家の主人は腹を立ててしまいました。
こんな調子で鳴かれたら、他の鶏たちにも悪い影響が出るかもしれません。
主人は鶏小屋に入ると、めんどりを捕まえて家の裏へと連れて行きました。
その途中でも、めんどりは鳴き続けるのをやめませんでした。
たまりかねた主人は、めんどりをその場でつぶしてしまいました。
その次の日の事です。
またあの母親と少年が、卵と野菜を買いに訪れました。
卵を買いに来た母親に、あの色の濃い卵を一個だけ差し出すと、主人が言いました。
悪いけど、卵を産んでいた鶏が亡くなったから、もうこの卵はこれでおしまいなんだ、と。
そう言われると、母親は必要なだけ普通の卵も買っていきました。
少年は母親の方を不思議そうな顔で見ていました。
母親は、あの鶏さんは亡くなってしまったのよ、と少年に話しました。
鶏さん、かわいそうだね、と少年は答えました。
家に帰ってから、少年は母親に、さっきの卵を温めてもいいかと聞きました。
母親は、好きにすればいいけど、その卵は温めてもひよこが生まれたりはしないわよと言います。
第一、あなたは鶏につつかれてから、鶏そのものが苦手になったって言ってるじゃないの、とも言いました。
それに対して、小さな時からちゃんとお世話するからだいじょうぶだよ、と少年は答えました。
でも、何でそんな事をしようと思ったの? と母親はたずねます。
少年は、またあの鶏さんが生まれてくるかもしれないからだよ、と言いました。
母親は、少しあきれた様子を見せましたが、それ以上はもう何も言いませんでした。
母親と父親に聞いたりして、少年は卵を温めるための準備を始めました。
電球や箱、タオルなどを用意して、卵が冷えないようにしました。
一日のうち何度かは卵の位置を変えてやります。
少年は、熱心に卵の世話をしていました。
それから半月以上が過ぎた時です。
おどろいたことに、卵が割れて、中からひよこが出てきました。
少年は喜びましたが、母親も父親もたいそうおどろきました。
ひよこは、少年にとてもよくなつきました。
少年は、毎日ひよこの世話をしました。
彼がそっとひよこを手で包むと、手の温かさのせいかそのまま眠ってしまうのです。
その様子を見て、少年はすっかりこのひよこを気に入りました。
ひよこの方も、とても幸せそうな表情を見せていました。
やがてひよこはめんどりになりました。
少年の父親は、庭に鶏小屋と囲いをつくり、いつでも鶏小屋の外に出入りできるようにしてあげました。
晴れた時には、少年と遊んだり、鶏小屋の外へ出て空を見上げたりしていました。
少年はめんどりの事をとても大切にしていましたし、めんどりも少年の事が大好きでした。
そして、このめんどりも、空の色が好きでした。