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侍の心得其七 上下水道が無い貧民街

 次の日、朝起きた某は、いつもの優しげな表情の中にどこか決意を秘めた目をした母上にいつも着ているボロボロの服を脱がされ、それよりは数段動きやすい服を着せられていた。と言っても、前世の運動着ような伸縮性に長けていたり、吸水性に優れたりといったものではない。ボロと言えばボロなのである。ただ、服やズボンのところどころに切れ込みが入れられ、なるべく服が動作を阻害しないように工夫が為されている。


「母上、これは一体どういうことであろうか? 某、このような服は初めて着ると思うのであるが。これは昨日言っていた、鍛えると関係があるのであろうか?」


 某にはよく分からなかった。そもそも、少しでも動きやすい服があるのならば、つい一昨日までやっていた土掃除の際に出してくれても良かったはずなのである。それが、何故今、このタイミングであるのか? 


 ――もしや某、この虚弱な体を鍛え直すためにこれから死に瀕するかのような、代々伝わる秘伝の修業でもやらされるのであるか!?――


 前世の漫画で読んだテンプレ的な修行法である。死の窮地に追いやることで無理矢理身体能力を強化するもしくは、自身の中に眠れる力を覚醒させるという...... とはいえである! もし、そんな方法があるにしても某、五歳で命がけの修業とか絶対嫌でござる! 某には、常人を超える異常な量の血液があるとか、常軌を逸する超回復能力があるわけではないのであろう? ん? もしや、異世界ならそういう能力が目覚めるとかそういうことがあるのか? それならば願ったりであるが......


「ええ、そうね。これから、毎日、貴方を鍛えるようにお願いした方の場所へ行くわ。何をするかは先方にすべてお任せしているから着いてからのお楽しみってところね。でも、ちょっとは手加減してあげてねって頼んだら、『相手が誰であろうと手加減は出来ない』って言われちゃったわ。」


「そ......そうであるか。某も覚悟を決めねばならぬな」


 まさかである。これは的中ではなかろうか? こんなひ弱な某を手加減なしで鍛えるのだという。ああ、某の異世界生活はここまでであったのやもしれぬ。某は抵抗する気力も薄れ、意気消沈したまま、母上にされるがままに背負われる。


「今日は特別よ? 着くまでに体力が無くなったら困るからね。それにしても、どうして人生に絶望したみたいな顔してるの? あなた、とてもじゃないけど、五歳には見えないわよ? なんだか、失業して全てを失った職人みたいだわ」


 それも仕方ないであろう。某、どこぞの異世界転生者みたく、異世界に飛んで即座に窮地を楽しんだり急激に強くなって夢想......無双しちゃう! とかそんな(たち)ではないのだ。 失業して全てを失った職人......前世で言う、リストラされて全てを失ったサラリーマンみたいな表情をしていたって仕方がなかろう!


「それでも、某、五歳で死にたくはないでござる」


「あら? ああ、でもアドリューンからしたら死ぬくらいには厳しいかもしれないわね。ふふっ! でも、貴方の言う『侍』とやらを体現するにはもたもたしてる間なんて無いと思うわよ? 人生四十年が基本なんだから」


 ――へ? 人生、よん、じゅう、年?――


 四十年と言えば、前世で言えば働きざかりの年ごろではないか! 某の憧れていた戦国時代だって人生五十年はあったという。それよりも十年も短いとは。確かに四十年しか人生が無いというなら某の目標である、この世界で最初の侍となり、それを広めるとなると一瞬一秒たりとも無駄には出来ないということが分かる。


「ふふっ。貴方、驚いてるわね。顔を見なくたって分かるわ。肩を握る力が急に増したもの。どうしてかしら。普通の五歳児だったらこんなところで驚くはずがないんだけど。でも、それだけアドリューンが特別ってことかしら。本当は虚弱なアドリューンを私は無理して育てるつもりなんてなかった。でも、昨日のあなたの話を聞いて思ったわ。それこそ死に物狂いで頑張らなきゃ、到底たどり着けない場所にあるんでしょ? あなたの目指す『侍』ってやつは。だから母さんも覚悟を決めたわ。貴方を失うかもしれないというね」


 母上は閂を青く光らせ、家を出る。その足取りは、昨日までの力強いものではなく、どこか重たいものであると感じたのは勘違いではないのだろう。それでもその足取りは華奢な体ではあり得ないほどに軽やかではあるのであるが。そうして、階段を下っていく。九階、八階、七階、六階......

 速かった。某が一生懸命、息絶え絶えになりながら歩いた、たった五階分が嘘のようである。


 それでも、某が心を決めるのには十分な時間だった。外に出るころには某もまた、覚悟を決めた母上のように、先ほどの不安を拭い去れるくらいには。このあたり、前世の記憶があって良かったと真摯(しんし)に思うのだ。ただの五歳児では母上の言葉の意味にも気づけなかっただろう。


 そんなことを考えているうちに眩い光と熱気に乗って流れ込んできた異臭のダブルパンチが某を襲う。


「眩しっ! くっっっっさいでござる!」


 某初めての異世界の外は、突然の異臭に襲われることでスタートする。窓から外を見渡した時はこんな臭いはしなかったから完全に油断していた。鼻が曲がりそうなほどの臭いだ。異世界の大通りの感動に浸っている余裕など皆無に近かった。生活水準が低いが故の、体を洗っていない汗のにおいやすえた臭いだけならまだ覚悟があった。だが、この臭いは明らかにそれだけではなかったのだ。


「我慢しなさい。貧民街の大通りとはこういうものなのよ。さあ、アドリューン! 黙ってないと舌噛むわよ!」


「え? 母上? それはどういうことであ......ぬおおおおお!」


 その瞬間、某の質問に答えることも無く、母上が猛スピードで走り出す。わけがわからない。先ほどまでの足取りが何だったのかというほどには速い。某を背負ってかつ、それを支える為に両手が塞がっているにもかかわらず、その速度は前世のそんじょそこらの男子学生より余程速いのではないかという程だ。某を背負ってこれなのだから、某が居なかったらと思うとゾッとする。貧民街の女性というものはこれほどまでに速いものなのであろうか? 


 よく見てみれば、すれ違う人々は皆が全速力で駆けている。子連れの人は今の某のように子供を背負い駆け、子供がいない人は持ちうる限りの全速力で駆けている。その光景は、さながら前世の高速道路を彷彿とさせた。お互いがぶつからないように丁度道の真ん中あたりで某の母上の進行方向と、逆方向とで分けられているのだ。


 ――これは一体、何が起こっているのであろうか?――


 某は訳が分からない。少なくとも前世ではジョギングコースはあっても、こんな、すべての人々が全速力で走るような場所は世界中探したってそう無いはずなのである。少なくとも某は見たことが無い。老若男女、すべての人が全力疾走する様はある意味滑稽であった。


 それでも、これだけ全力で走るのには何か理由があるはずなのだ。某は未だペースを落とさず、高速で走る母上の背中の上で辺りを見渡す。すると、前方から走ってくる頭の上に自分の手に持っていた桶を置いて歩いてくる男性がいるのが目に入った。


 ――頭の上に桶であるか? これは一体どういうことであろうか?――


 某は不思議に思い、上を見上げてみる。これは明らかに自然な行為の筈であった。そう。筈であったのだ。だが、某はここで知ることになるのである。何故、母上が家を出てからこんなにも必死で全力疾走していたのかを。


 ――なんだ!? 上空から、黒い塊と黄色い雨が降ってくるのである。あ、駄目でござる!! 母上! 止まるのだ! そこへ向かってはならぬのだあああああああ――


 前世の最後で体験した、世界がスローモーションになる時間感覚の延長だ。ただ、今回は命の危機が迫っているのではない。これはアレだ。尊厳の危機だ。某は分かる。あの上空から降ってくるアレは、そう。間違いなくアレなのだ。前世ではほとんど表舞台に上がってくることのなかったアレ。ボタン一つで水流と共に瞬殺できたアレ――。


「くそおおおおおおおおおおおおお!」


 ベチャ!!!


 嘘だ! これは夢であろう? そうであると言って欲しいのだ。とはいえ、某は気づくべきだった。部屋にいるときは楕円形のおまるの代わりのようなものに用を足していた。五歳児であるからにはそれが普通だと思っていた。母上が用を足している瞬間を某は見たことが無かった。きっとどこかにトイレの類があるのだと勝手に思い込み、疑おうともしていなかった。それでも、気付ける部分は沢山あったはずなのだ。何故、わざわざ寝室に窓が付いていたのか。何故、某が家の中を物色した時にトイレやお風呂の類を見つけられなかったのか――。


 今、すべてがつながった。そう、少なくともこの貧民街には上下水道の類が無く、糞尿は全て窓から投げ捨てているのだ。だから、皆、全速力で走っていたのだ。誰も好き好んで糞尿を浴びたい者などいないのだから。


「あーあ。アドリューンごめんね。あと少しだったのに」


 住宅街を抜けたからだろうか。母上が足を止めて某を地面に降ろす。結構長い時間走っていた筈なのに、まったく息切れしていない母上に驚くのも今更だろう。確かに日常的にこうやって糞尿を避けるために全力疾走していれば、某の感じた体格に見合わぬ身体能力にも辻褄が合うというものだ。


 そんなことを考えているうちに、母上が提げていたかごの中に入っていたタオルで某の顔面に付いたアレをゴシゴシと拭いてくれる。それによってクリアになった視界で某は驚く。

 なんと、母上には全くに近いレベルでアレが付いていないのだ。どうやら、母上は躱し、某は受けた。そういうことなのであろう。


 母上の背中から降ろされた某は母上に手を引かれ、人生で初めての貧民街を歩くことになった。臭い自体は、慣れたのか、それとも住宅街を抜けたから薄まったのかそれは分からないがかなりマシになっていた。某がもろに被ったから嗅覚が馬鹿になったのかもしれぬが。


 そうして歩いていると、溢れかえりそうな程多くのボロを着た人々で賑わう場所に着いた。大量のクリュウやトズなどの食材を並べた店、古着であろう。山積みにされた衣服を売る店、靴屋、工具屋、食器屋......見渡す限り色んな店が並んでいるのが分かった。前世ではスーパーのような大規模小売店にいけばすべて必要なものがそろったものだが、こういう専門店が立ち並ぶのを見ているのも異世界然として新鮮なのだ。こんな風に露店が並んでいれば、ひやかしにも行きたくなるものなのだ。


「母上、買い物はしないのであるか?」


「ふふっ。アドリューン。今は我慢して頂戴。今買ったら、持ち運ぶのが大変でしょう? 帰り、アドリューンがまだ動けたら付き合ってあげるわ」


 ――動けたら。はあ。某、帰りまで生きていられるであろうか――


 そう思いながらも、母上の言葉には納得できる部分しかないので大人しく諦めてついてゆくことにする。後ろ髪を引かれる思いで商店......露店街を後にすると、一気に人が減った。代わりにいかにも無骨というか、暑苦しいというか、そんな印象を受ける人がぽつぽつと行き交う場所へたどり着いていた。


「さあ、アドリューン。ここよ。今日からあなたを鍛えてくれる人の名前はアドゴラさんって言うの。ここ、父さんも働いている製材所の親方なの。貴方の目指す『侍』ってこういう場所で働く人のことを示すのではないのは分かるけれど、体を鍛えるにはうってつけだと思うのよね。本来なら、七歳から働くところを無理を言って、五歳になってすぐの貴方を働けるようにしてもらったの。くれぐれも粗相のないようにね」


 おおう、鍛えるとはそういうことであったか。確かに、普通の七歳児から働く場に虚弱な五歳児の某が入るということはかなりの地獄であるのは間違いなかろう。とはいえ、某の想像しているほどの地獄ではなかったので安堵する。母上の真剣な表情からもっと凄い窮地に立たされるのではないかとも思ったが、そんなことは無かったのだから。


 そうこうしているうちに、母上が製材所の門へと向かって歩いてゆく。門もまた貧民の持ち物とは思えぬほどに立派なもので、縦三メートル、横五メートルほどは優にあろうかという堂々たるものだった。当然、よく見ればその表面はうっすらと不思議な膜で覆われており、汚れや傷の一つもついていない。そんな門の前に立ち、母上がその門を叩くと黄色の光が発せられる。やはりこの世界、不思議である。


「母上、この黄色の光は一体なんであろうか?」


「ああ、アドリューンには言ってなかったわね。これは、来客を示す光なの。結構色々な種類があるんだけど、主に三つだけ覚えておけば基本は問題ないわ。開錠の青、来客の黄色、害意を持つ者の接近を示す赤ね」


「ほう。色々あるのであるな」


 なるほど。信号機のようなものか。色合いが同じであるのは正直、とても助かるでござる。とはいえ、この門、害意の有無まで分かるのであるな。異世界の技術力恐るべしである。そんな話をしていると、門が青色に発光し、中へと入れるようになる。門が開くとそこには薄汚れたピンクの頭をした男がいた。この男は確か......


「アドリューン! 何ボーっとしてるの! 父さんよ! あなたを今日ここへ連れてくると聞いた時から楽しみにしてくれてたんだから」


 父さん......そうか! この男が某が転生するまでのアドリューンの記憶の中にいた男であったか。 

 それにしては少しやつれているようにも見えるであるな。どうやらかなり無理をさせてしまっているらしい。これは、愛しの息子である某が労ってやらねば! 中身は二十歳過ぎたおっさんではあるがそんなことは些細である。こちらの世界に来て、一ヶ月。某もずいぶん五歳児のふるまいには慣れてきているのだ!


「父上! 某、とても会いたかったのでござる!」


 某は、母上の手を離すと、一般的な五歳児のように父上へと向かって一生懸命かけてゆくそうして父上の胸元に向かって思い切り飛び込んでみる。


「おお! アドリューン! 父さんも会いたかったぞ! それにしても、少し見ない間にかなり成長しているじゃないか。それに、母さんに聞いた通り面白い言葉遣いになってるし。とはいえ、この成長を近くで見られなかったことだけが残念だ」


 どうやら、父上は事前に母上から聞いていたようで、某の言葉遣いに眉をひそめたりすることはなかった。そうして、何度か父上に高い高いをされ、地面に降ろされた後、父上が言葉を発する。


「さて、本当はアドリューンともっと一緒に遊んでいたいところではあるんだけど、仕事があるからね。ついてきて。親方の元に案内するよ」


 軽い調子で言われた言葉だったが、某は息を呑み、五歳児モードから一転、真剣そのものといった表情に切り替えることになる。親方、それは某の修業に付き合ってくれる人物であり、それと同時にこの虚弱な某の命を握る人物でもあるのだから――。






予定より二千字近く延長して書いたのに、書きたいところまで書けなかったああああ。

というわけで、心得其八で、其六の最後を飾った声の主を出そうと思います!

頑張って書きますが、書き溜めが無くなったので、次のお話から連日投稿ではなくなるかもしれませんが引き続き読んで頂けると嬉しいです。

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