侍の心得其四 貧民街では土が売れるらしい
次の日。目覚めた某は、いつの間にか隣で寝ていた母さんをたたき起こして、ほうきを準備してもらった。当然である。こんな室内に土が積もった場所で生活しようと思っている方がどうかしているのだ。実は、床は某が家の中を歩き回る限り一面土で覆われていて、とてもではないが、材質を確認できるようなものでは無かった。だが、周囲の様子を見る限り、床も恐らく木であろう。それもツギハギの。
つまりだ。床が石造りや土造りならまだしも、木で作られているならば、土が乗っている現在、腐敗が進んでいるのは間違いない。ここは、某の見立てでも八から十階相当の高さがあるのだ。床が抜けて死亡なんてまっぴらごめんである。
ただ、言い方を変えるならば、虚弱の原因を断てて、床が抜けるリスクも減らせる掃除は一石二鳥なのである。えらくレベルの低い一石二鳥であるが仕方あるまい。
「いつからアドリューンはこんな綺麗好きさんになってしまったのかしら。貧民街ならどこの家も家の中の掃除なんてしないわよ? そんな時間と体力があるなら、労働して稼いだ方がよっぽど効率的だもの」
――な、なんと!? 母さん、何を馬鹿なことを言うておるのだ!! こんな環境を放置しておくのが普通であると――
某は思わず口を開けたままポカンとしてしまった。空いた口が塞がらない。とはこういう状態を言うのかと心から痛感させられてしまう。生活レベルが違うとここまで常識も変わってくるのかとぞっとしてしまう。ならば、母さんは某の世話などしている場合ではないのではないか? そう思って聞いてみることにする。
「母さん、労働をした方が効率的なら、母さんはどうしてずっと家にいるのであるか?」
「ふふ。アドリューンは鋭いのね。ここは貧民街で、どんなに頑張っても生きていくための最低限の賃金しかないのは確かだわ。だから、私がこうして家にいるべきではないことも。でもね、子供を産んだ場合は少し事情が変わってくるの。領主様も分かっておられるのでしょう。貧民が居なければ成り立たない事業が多くあると。だって貧民は、貴族様と平民がやりたがらない仕事を低賃金で担うのですもの。だからこそ、アドリューンが働けるようになるまでは、私一人分の賃金は支援してもらえるのよ」
なるほど。福利厚生の考え方を取り入れているのか。案外、この世界の領主もやり手なのかもしれない。確かに、貧民が子供を産み、その子供が育つまでの支援をしっかりと行えば、労働力の維持も出来るし、育てられないことによる孤児だって減る。見るからに情弱なこの貧民街では、こうやって領主が目を掛けていると示すだけで人々はより一生懸命働こうとするだろう。
少ない金額で、ストライキの芽をつぶしつつ、恒久的に労働力を得続ける。案外やり手どころではない。この領地の領主が変わらない限り、ずっと貧民街から安い労働力を確保し続けられる。ものすごいやり手である。
それでも、某は自分の脳内で考えたことなどおくびにも出さず、「へ~それは素晴らしい領主様なのであるな!」とだけ返しておく。きっと何かしらの方法で情報の統制もしているのは間違いない。ここは無難に返しておくのがベストである。さて、良い情報も入ったところで掃除をするのである。今、教えてもらった制度が適用されている間、ずっと母さんが某のそばにいるのだからこの機会を使わぬ手はない。体力のない某だけでは一部屋もまともに掃除できないのは間違いないであるからな。
「母さん。某、土をほうきで集めるから、それを外に捨ててきて欲しいのである。某の力では、まだ土を運ぶことはできぬのだ」
某の指示に母さんは目を丸くするも笑って頷く。某、特に驚かれるようなことは言っていないと思うのだが。
「ふふ、分かったわ。お掃除遊びね。あなたが集めた土を、私が外へ運べばいいのね?」
なんだか微笑ましいものを見るような目で見られるのは釈然としないがしょうがあるまい。自分の背丈の倍はありそうなほうきを持って一生懸命地面が見えない程に積もった土を集めているのだ。某が元の世界で同じ光景を見てもそういう気持ちになるであろう。
――よいしょ。よいしょ――
ザリッ。ザリッ。サーッ! ザリッ。ザリッ。サーッ!
ここは寝室。昨日見た恐らく玄関である閂付きの扉がある場所からは一番遠い部屋であるが、まずはここから掃除していくことにする。この世界に来て某が最も長い時間過ごしている場所であるのだから。それに、奥から掃除した方が、土を運ぶ際に土が落ちて二度手間になることも防げよう。
それにしても...... 削っても削っても中々床が見えてこない。一体どれほど掃除していなかったのであろうか。表面は乾いていても、ほうきで削れば削るほど土が水を含んでいて重くなっていく。
――作戦変更である。これは一日では厳しい。表面の、比較的乾いた土の部分を剥がして集めて、放置。次の日また乾いた部分を剥がす作戦で行こう――
床を見るのを諦めた某は、表面の、濡れていない砂のようになっている土を集めてゆく。集まったら、母さんの持っている桶に移す。そのついでに母さんにどうしてこんなに土が積もっているのか聞いてみることにする。
「ねえ、母さん。掘っても掘っても床が見えてこないから、今日は、表面の乾いてる土だけ集めるでござる。それにしても、こんなに土が積もってるのはどうしてであろうか? 普通に生活してるだけではこんな風にはならないであろう?」
「ふふっ。分かったわ。今日は表面の土だけね。土が積もっている理由かあ。そうねぇ。この部屋は、前に人が住んでいたのよ。というか、貧民街はみんなそうだわ。新しくできた部屋に巡り合えるのは、部屋が壊れて改修された時か、貧民街の人口が増えて増築された時だけ。この部屋もたしか築百年は越えていると思うわ。それなら、多少土が積もっていても不思議じゃないでしょ?」
「そうだったのであるか」
百年。百年間掃除されず積もり続けた土。異世界の木材がどれほど保つのかは分からぬが、掘れば掘るほど湿っていくあたり、間違いなく床は微生物によって分解されて腐っているのであろうな。もうほぼ手遅れであろうが、やっておけば少しはましになるであろう。頑張らねば。
考えているうちに桶が満杯になったので、母さんが桶を持って外へと出ていくのを見送る。見送った後も某は忙しい。こんな小さな体で明らかに身の丈に合わぬほうきを持って掃除するのはなかなかに骨が折れるのだ。
ザリッ。ザリッ。サーッ! ザリッ。ザリッ。サーッ!
負けるな某! これも鍛錬の一種である。負けずに搔き集めるのだ。そうしてまたこんもりと砂山ができたころ、母さんが「ただいま~!」と帰ってくるのが聞こえてくる。タタタッっと軽快な足音を響かせながら、部屋へと駆け込んできた母さんの手には空になった桶と、その中に三つの鉄くずがあるのが分かった。
「やったわ。アドリューン! さっき外に持っていった土が、銭貨三枚で売れたの! あなたの掃除遊びも捨てたもんじゃないわね。その調子で頑張って頂戴。母さんどしどし運ぶから」
詳しく話を聞いてみたところ、どうやら、外の貧民街の大通りの道を整備している場所の監督役の人に母さんは土を持って行ったそうだ。ここは貧民街といえど、街の中で土を掘っていいはずもなく、結果として街の外から土を運んでこなければならないらしい。その手間が減るからと大喜びで土を買ってもらえたそうだ。室内に積もった土であるから、大きな石が混じっていないという点でも評価されたという。
――これは良いことを聞いた。前世の知識とこの貧民街での常識のズレを利用すれば某でもうまく稼ぐことは出来そうだ。ただ、銭貨というのがどれほど価値のあるものかは分からぬが――
とはいえ、母さんは相当に商魂逞しいらしい。某は、どこかに捨ててくるだけだと思っていた土を、少ないながらもお金に換えて帰ってくるのだから。結局、三往復分ほどの土を集めて体力の限界だった某は早々にベッドの上へと退避し、その後は母さんが鼻歌を歌いながら土を集め外に出ていくのを見ているだけだった。その細い体に息切れすることなく何度も階段を往復し続ける力があるとは...... 前世の某でもこの高さの建物を往復すれば息切れする自信があるでござる。
某は少し母さんを尊敬し、少し母さんに恐怖した。そんな寝室掃除の初日だった。
今日の夜はいつもの赤色の芋が二個入っただけの黒ずんだスープだけではなく、少しばかり豪華な食卓だった。
と、言っても豪華の意味はこの貧民街基準だ。当然、肉や魚がスープに入ってくるわけではない。具材がひとつ増える程度だ。
「さあ、アドリューン! 今日は銭貨二十一枚も手に入ったのよ! 父さんと母さんが普通に働いた場合の日当合わせても一日銭貨十枚だから凄い金額だわ! これから、家の中を掃除すればもっと手に入りそうだから、少しだけ食事を豪華にしてみたわ。今日はクリュウの実だけじゃなくて、トズの実も入れられたの。遠慮せず食べてね」
ほうほう。なるほど。普通に働いた場合の銭貨は一人五枚といったところか。これは良いことを聞いた。これからの小遣い稼ぎの基準になるであるな。
それに、あの赤い丸っこい芋はクリュウといい、この黄色の豆のような実はトズと言うのか。
豆。これはありがたい。前世の豆の代表格と言えば、「大豆」であったが、これは別名「畑の肉」とも呼ばれていた。つまり! 某待望のタンパク質である! それに、豆と言えば、他の栄養素を補給するという意味でもうってつけの食材であるはずである。肉や魚を現状で手に入れる手段が皆無である以上、これからは、食卓に豆が出るように頑張って稼がねばなるまい。
「いただくでござる!」
少しだけ見えた食糧事情の改善の希望に某の声はうわずる。それを微笑ましげに見ながら、母親が「はい。どうぞ」と言ってくれる。その声とともに黒ずんだスープにゴロゴロと入ったクリュウとトズを喉へと掻きこむ。
ぬう......相変わらず酷い味である。だが、母さんからしたらこれが普通の食事なのであろう。顔色一つ変えることなく食事をしていた。いくら不味かろうとトズの実を日常生活で必ず食卓に並ぶようにせねばなるまい。それが出来たら、料理事情も改善せねば。某、そこまで沢山の調理方法は知らぬであるが多少はマシなものが作れよう。あとは材料が集められるかどうかであるな。うむ。
とりあえず明日も掃除頑張るでござる!
参考までに。クリュウの実は一個銭貨一枚。トズの実は二粒で銭貨一枚です。アドリューンはクリュウの実を「赤い芋のよう」と言っていますが、実はこれ、芋じゃないんですよね。いつか出せればと思っていますが、木の実なんですよね。イメージは、栗みたいな感じで実ります。芋みたいな重いものが上空から降ってくると思うとちょっと怖いですね......頭上には気をつけねば。