侍の心得其三 空き巣な某
チクり。プスリ。ぴょーん。
ああ、もう、痒いであろう!
某は、異世界転生を果たした時同様に、同衾するノミの一撃で目覚めることとなった。なんの恨みがあって、某、ノミと同衾せねばならぬのだ! まったく、酷いものである。前世から数えても、一度も某のベッドに女子が来たことなど無かったというのに。初の同衾相手がノミとは如何なものであろうか。
そんなことを思いながら、某がゴソゴソと体を起こすと、隣で眠っていたらしい母さんも某の動きに気付いたらしい。声をかけてくる。
「おはよう。アドリューン。調子はどう?」
「うむ。某、かなり楽になったでござる。ありがとう、母さん」
某の返答に母さんはきょとんとした様子で目をパチクリさせている。寝起きだから言葉が伝わらなかったのであろうか? それとも、何かおかしなことでもいったであろうか? アドリューンの記憶から、受け答えはこれで間違いないはずであろう?
「それがし? ござる? なあに、それ? どこで覚えてきたの?」
ああ、なるほど。確かに侍を知らぬ者であれば伝わらずとも無理はない。失敬、失敬。
「ああ、某とござるは、『侍』の言葉遣いでござる。某――」
異世界からアドリューンの体に転生したことを口に出そうとしてハッとする。よくよく考えてみれば、この世界のことを某は何も知らぬのだ。いくら母さんが付きっ切りで看病してくれるほど某を愛していたとしても、どこに耳があるかもわからぬ。それに、ここが中世ヨーロッパに酷似した世界であるということは、魔女狩り的な処刑や迫害だってあり得る。某が自分で自分の身を護ることのできる力と情報を得るまでは転生者であり、異端であることは秘密にしておいた方が良いであろう。
「そ......某、三日前に窓を開けて外を見た時に外を歩く人の声を聞いたのでござる。それで真似したくなったのだ」
よし。なんとかこれでごまかせたであろう。某は胡散臭いくらいの満面の笑みを浮かべて母親の目を見て答える。これだけ幼い容姿であれば、笑顔も武器になるというものだ。5歳児、最高でござる!
しかし、なぜか、母さんはいぶかしげな視線を某に向け続けている。あれ、もしやこれはごまかし失敗であろうか。某は全身にヒヤリと汗が滴るのを感じる。それでも笑みを崩すわけにもいかず、そのまま、母親の表情が戻るのを待っていた。
「はあ、まあいいわ。あの時は急にアドリューンの体が触れないくらいに熱くなって痙攣してたからもう助からないと思っていたわ。それがこうしてまたお話出来るようになったんだもの。多少変になっていても気にしちゃだめね」
変とはなんだ。変とは。某はいたって普通で可愛らしいそなたの息子、アドリューンである。勿論、これ以上口に出しても怪しまれる可能性がある以上ここは黙っておくのが吉であろう。それに、どうやら母さんの表情もどうにかもとに戻ったようであるしな。
「さて、こうしてアドリューンも元気になったようだし、父さんに伝えてくるわ。今回、アドリューンの解熱剤を買うのに親方に借金しちゃってて、今それを返す為に泊まり込みで必死で働いているのよ。良くなったことを伝えればきっと喜んでくれるわ」
アドリューン、そなた、愛されていたのだな。普通、この時世の貧民であれば、大人であろうと生きるのに精一杯で、脆弱な子供を無理して育てるよりは、見捨てて次に生まれた子を育てるのが普通であろうに。
――早くも、母さんと、父さんへの借りが大きすぎるではないか――
某の理想とする侍は、受けた恩は必ず返さねばならぬのだ。親よりも先に死ぬという、前世の父上と母上に恩を仇で返すような真似をしてしまった以上、こちらではその分も上乗せして返さねばならぬな。
「ありがとう。某、必ずこの命を懸けて母さんと父さんを幸せにしてみせるでござる」
アドリューンとも約束したのだ。ここで言っても問題はなかろう。それに、こんな小さな子が言う言葉を本気にする親はいないであろうからな。
「はいはい。ありがとう。アドリューン。でも、無理しちゃ駄目よ。窓を開ける時もそうだけど、次からはちゃんと母さんと相談してからにするのよ。じゃあ、いい子で留守番しててね。夕方には戻るから」
「分かったでござる」と某が返事すると、母さんは少し首を傾げながらも某の頭を撫でて寝室の外へと出て行った。さて、母さんが居なくなったということは、絶好のチャンスでござる。今はまだ朝。夕方まで時間はたっぷりある。まずは当面の拠点となるこの家の間取りの把握と、欲を言えばこの世界の情報が把握できる何かがあればよいのだが。
早速取り掛かっていこうではないか。まずは寝室である。ここは転生直後に一度見渡しているから特に変わりはない。取っ手の壊れた、風が吹くたびにカタカタと窓と窓枠がぶつかり音を立て続ける窓、床に置いてあるのは、某の汗を拭くのに使っていたであろう桶と、黒ずんだタオル、楕円形の形をした用途不明の容器、そして壊れた取っ手と釘。
それ以外はツギハギの壁とツギハギのドアとノミの跳ねまわるベッドがあるだけだ。隠し扉の類もなさそうなのであのドアの先へ向かっても良いであろう。楕円形の容器を何に使うのか非常に気になるところではあるが、ここは異世界。分からぬ物の方が多くて当然であろう。
某はベッドから降りる。今回は、母親が靴を履いてから降りるのを見ていたので、きっと自分の分の靴もあるであろう。そう思ってベッドの近くを探してみれば、明らかに小さな自分専用の靴があるのを見つける。藁を編み込んで作ったものであるようで、当然見た目は良くないが。某はそれを拾って足にすぽっと嵌めるとベッドから飛び降り、ツギハギの扉へと向かう。良かった。なんとか動ける程度には筋肉痛は治っているらしい。
ただ、この体は小さい。前世の5歳児とは比べ物にならない程には。それゆえに先日の窓と同様にジャンプしなければ取っ手に手が届かない。なぜ、こういうところだけは妙に正確に作られているのだ!
他がガタガタなのであるから、取っ手の高さだって手の届く高さのものがあっても良かろう。
思っても届かぬものは仕方がない。取っ手が自分の背の高さまで低くなることはないのだ。ジャンプして取っ手に手をかける。ドアは普段から使われているからであろう。スムーズに取っ手が回ったので、窓の取っ手のようにならないようにサッと手を離し、少しだけ空いたドアの隙間に滑り込むように某は次の部屋へと移動した。
「ここは、居間であろうか?」
三人掛けのテーブル、某の背丈ほどの大きさのある水瓶、台所、食器とスプーンが3つずつあるだけの簡素な食器棚、ツギハギのドア、暖炉、某でも楽に開けられる場所にある引き戸があった。
――これは探索のし甲斐があるというものだ――
見えている範囲はよい。まずは、引き戸からであろう。これは戸の高さ自体が某の背丈と同程度で、指をひっかける部分が無理しなくてもよい位置にあるのがポイントが高い。今の某は無に近いレベルで体力が無いでござるから、こういう配慮はとても助かる。
ガラガラガラ――
「邪魔をする!」
某は引き戸を開けると、その暗闇の中へと足を踏み入れてゆく。当然明かりの類があるわけではないので、締め切った、窓のない室内では満足に見えない。手探りでゆっくりと這っていくと、こつんと膝に何かが当たった。
「なんであろうか? ああ、これは、昨日のスープに入っていた芋ではないか。なるほど。ここは食料庫というわけであるか」
結局、小さな体で一時間程、中を物色した結果、十二個の赤色の芋と、数十枚の形が不揃いな黒ずんだ金属の塊を見つけた。恐らく、これがこの世界のお金であろう。それに、ここが本当に某の予想通り食料庫だとすれば、かなり厳しい生活をしているのは間違いないと言える。
某は、食料とお金らしきものを纏めると外に出て引き戸を閉める。あと、居間にあっためぼしい物といえば、簡素な食器棚の中に入っていた塩だけであった。洗剤と石鹼の類はどこを探しても無かった。
――ふむ。貧しさがより明確になっただけでこの部屋は収穫なしと――
貧民にしては家の広さだけは中々のもので、転生当初の窓との格闘のことを考えれば、次の部屋が某の体力的に最後であろう。そう思って、次のドアの取っ手を回すためにジャンプする。着地するころには少し扉に隙間が出来るのでそこに滑り込む。ここまでは先ほどと同じである。
――おお、まともなドアもあるではないか――
こうして滑り込んだ先でまず目に入ったのは一枚板のドアだった。これまでのツギハギとは違い、綺麗な一枚の板に閂が付けられてるものだ。他には、山積みにされた薪、衣服やタオルや布などのリネン類、家の修理や補修に使うであろう基本的な工具類、薪とは違い、板状に切り分けられた木材、そして天井から飛び出ている謎のフックと、それに吊るされるように縄が視界を塞ぐように何本も垂れ下がっていた。
――天井から垂れ下がっているものが何のためにあるかは分からぬ。だが、あの扉はなんであろうか? ここには扉がもうないし、おそらくアレは外へ出るための扉であろう。ただ、そうであるならば、どうして内側にあるはずの閂がきっちりと嵌っているのだ? 外に出たのであれば、扉の内側の閂を嵌めることなど不可能であろうに――
もしかすれば異世界特有のロック方法があるのかもしれぬが、そろそろ某の体力は限界である。流石にまた倒れて母さんに余計な心労を与えるわけにはいかぬ。まずは室内で死なない程度に出来る体力作りから始める必要があろう。そうして、少しでも早く外に出て、情報を集められるようにならねば。
そう頭の中を切り替えた某は寝室へと引き返す。帰りはドアを開ける必要が無いので楽なものだ。体感三時間ほどにわたる空き巣作業は無事に母さんが帰ってくるまでに終了できた。残りは日常生活の中で母さんに聞いて埋めていけば良いであろう。
――ああ、疲れた――
大した運動はしていないが心地の良い疲労感を覚えた某はベッドに横になるとすぐ、眠気が襲ってくるのを感じる。
寝る子は育つのだ。疲れたら寝る。これが大切であるのは間違いない。明日からは部屋の掃除であるな。体力づくりと並行して生活環境の改善も同時に行える――。
そんなことを考えつつ、某のまぶたはゆっくりと閉じていった。