侍の心得其一 窓の外の光景
ガサガサ、ガサガサ、不快な音がする。
ガサガサ、ガサガサ。チクり。ああ、もう! 痒いであろう。まだ眠いのだ! もう少し静かに寝かせるがよい!
チクり、プスリ、ぴょーん
――ああ、もう! やめろと言っているであろう!――
そう思いながら目を覚ました某の目の前に広がっていたのは見知らぬ天井だ。不揃いの木材を釘でツギハギして作ったのであろう。少しでも衝撃を加えれば壊れてしまいそうだ。ところどころ穴が空いており、光が漏れ出している。
横を向いてみればこれまたツギハギされた板で作られた壁。意識してみれば隙間風が常に吹き込み、寒い。それに加えて、深刻な問題がある。
――痒いいいいいい――
そう、某は痒いのだ! 先ほどから気持ちよく眠っていたのにチクり、プスリ、ぴょーん! とは一体何事であろうか。これは異常事態だ。早急に解決せねばなるまい。と思ったが、おかしい。ここはどこであろうか。某の部屋はもっとこう、乳白色の壁紙で壁一面と天井が囲まれ、壁には理想の侍の肉体美が表現されたポスターと「仁・忠・侠」が書かれた掛け軸。更にはコスプレイベントとやらで必死で稼いだ金で買った日本刀が置いてあった筈なのだが。
異常に気付いた某はゆっくりと自分の記憶を思い返す。確か、トラックにはねられて即死ではなかったか?
――うーむ。日本にこんな粗末な病院は無い筈であろう。とすればここは一体......。それにしてもかゆうううい!!――
某は飛び起き、体中を搔きむしろうとするが、背中に手が届かない。でも痒い。痒い。思いっきり背中を掻きむしりたいのに、体が硬すぎる。おまけに、なんだか某、小さくないか?
チクり。
某が異変に気付き戸惑っているのを見計らったかのように太ももに何かが刺したような感覚が奔る。
――ああ、もう! さっきからなんだというのだ!――
そう思った某は思わずベッドから飛び降りる。ベッドを見てみれば、木の枝と藁をツギハギだらけの薄いシーツで覆っただけのものだ。ところどころシーツの隙間、もしくはシーツを貫通して藁が飛び出ている。更に布団の至る所に目を細めてやっと見えるほどの何かが跳ねている。実物は見たことが無いが、間違いない。このベットを跳ねまわっているソレは確実にノミだ。
ザリッ......!
それだけではない。地面に足を着いた時、自分の足をまるで砂を踏んだかのような不快感が襲う。いや、砂を踏んだかのようなではない。本物の砂だ。湿気を含んでいるあたり泥とも言える。床もツギハギの板であることに変わりないのだが、泥だらけだ。これだけ床に泥があるということは土足で家の中を歩いている筈だ。少なくともここは某の知る日本ではない。
そして床を見下ろした時、某の手足が目に映る。明らかに小さい。まるで、保育園児と言われてもおかしくない程には。
よくよく見てみれば手足は細く、肉付きが悪い。骨の形がくっきりと浮かび上がるほどに。
「まさか、某、転生したとでもいうのか?」
――な......何? 声が高い!? これは間違いなく生まれ変わっている!――
確かに、某は願った。生まれ変わることが出来たなら、侍のいる世界へ行き、某の命を捧ぐことのできる価値のある主と出会いたいと。もし、ここがそうであるならば、某にとって喜ばしいことであるに違いない! 神様バンザイ! ただ、この貧相な体で戦うのは流石に厳しいものであるのは間違いない。だが、これだけ幼いのならば、これからいくらでも鍛えようがあるというものだ。
某は踊りだす心を止められなかった。この部屋の中を見渡す限り、文明レベルは某の住んでいた日本よりかなり低い。どうにか外の光景が見られないか。周囲を改めて見渡せば、壁に、木でできた取っ手と、ツギハギであっても、木を縦向きに使用して作られた壁とおよそ垂直に交わるように横向きに張られた板があるのに気づく。
ああ、これが窓枠なんだな。そう察してからの某の行動は決まっている。素足だったので時々足に刺さる木の端くれは痛い。だが、今の某は本能のままに動く畜生に同じ。痛みも目の前に迫る極上の人参に比べれば些細なことである。かつて偉大なる登山家は言った。そこに山があるから登るのだと。今の某はそれに近い。そこに窓があるから、開けるのだ。そんな調子で某は窓へと吸い寄せられていった。
「おっしろ! おっしろ! 天守閣~! 某の夢へいざ参らん」
甲高い声変わり前の子供の声に、やはり某は転生したんだなとしみじみ思う。
窓のある壁の近くまで寄った時、窓の取っ手は万歳してやっと届くかどうかという高さだ。ぬぬぬぬう! 全く鍛えられていない幼児の体で背伸びするのはかなり辛いが、なんとか手が届く。
「やった!」
だが、ずっと開けられていないのか、非力なのか、設計が杜撰なのか。あるいは全てかもしれない。取っ手はまるで窓枠に貼り付いたかのように動く気配すらない。某が窓を開けるのに抵抗しているのであろう。望むところである。某は必死で取っ手へとしがみついた。幼い貧相な体で背伸びして掴んで、ジャンプしてぶら下がって......
何度も何度も落下して、傷だらけになりながらも少しずつ、少しずつ、取っ手を回していく。
そして5回目の挑戦。
「おりゃ!」
バキ!!
凄くやばそうな音を立てて取っ手が勢いよく回る。それと同時に某も地面に落ちて床をゴロゴロゴロ、ズッテーッン。これが世界を魅了するトリプルアクセル!? 異世界転生の冷めやらぬ興奮と頭を打った衝撃で頭が逝ってしまったのかもしれない。脳細胞は大切にせねばな。そう思いながらも、既に疲れ切った体をなんとか起こし、窓へと近づいていく。
「あちゃー。見事に取っ手が壊れちゃってる」
最後の衝撃が強すぎたのだろう。取っ手は地面に落ちているわけではないのだが、宙ぶらりん状態と言えばいいだろうか。金具と取っ手が抜けかけの釘一本でなんとか命をつないでいる。そんな風に見えた。近くに、開けた窓を固定するためのつっかえ棒らしきものがあったので、取っ手を外へ落とさないためにも窓から外すことにする。すまぬのだ取っ手君! 某、決して悪気があったわけでは無いのだ。某の好奇心を満たすための取っ手君の犠牲。決して無駄にはせぬ。そっと某は取っ手君にとどめをさした。
丁寧に外した取っ手君と釘を窓から離れた位置に置く。窓枠にぶら下がって体を持ち上げねば外が見えない以上、落ちて転がる順路上に障害物があっては、折角の転生が一瞬で終わってしまうというものだ。いくら興奮していようとそのくらいの冷静さはあるのだ。
取っ手を置いた後、近くにあったつっかえ棒で、窓が閉まらないように固定する。
「ふー。やっと準備完了ってところであるな」
そうして、準備が出来たところで、遂に、遂に、待ち望んだ外の景色と対面だ! と思ったのだが、情けないことに、へたり込んでしまったことで、手足はツギハギだらけの床に縫い付けられたまま動かない。どうやらこの体の限界らしい。
それでも外の世界を見てみたい! そう思う気持ちは揺らがない。少し休んで、深呼吸して肺に思いっきり空気を取り込むと立ち上がる。万歳するのも億劫になるほど重い手を窓枠にかけ、体を持ち上げる。そして、窓枠になんとかぶら下がって目を窓枠の上まであげて見た外の光景は、某を消沈させるに十分なものだった。
「否ああああああああ! 神よ! これは無情にも程があるのではありませんか?」
目の前に広がるのは木でできた突っついたら倒れてしまいそうなほどにいびつで、最低でも五階はありそうなほどに高いこの部屋と同じようにツギハギの板で作られた家々。その先には、遠目ではあったが、石造りの家々と、西洋の城と、この都市? を覆う高い壁が見えた。
某の望んだ、戦国時代~江戸時代ではなく、西洋の、それこそ中世の街並みに近いものが目の前には広がっていた。この部屋も結構高い場所にあるらしい。周囲のツギハギで増築されていったと思われる家々の屋上が見える。
この光景を見ていられたのは一瞬のことだったであろう。既に限界近くまで酷使した腕に自重を支え続ける力などあろうはずもない。それでも、目の前の期待に反する光景に呆然とし、かなりの時間を過ごしたような気がした。それと同時に窓枠からずるりと落ち、床へとへたり込む。無理が祟ったのだろう。全身を寒気が襲い始める。
――ああ、寒い。ベッドまで戻ろうにも、もはや立ち上がることもできぬ――
某の望む世界へ転生することは出来なかったのか。そんな絶望と共に自分へと近づいてくる足音が聞こえてくる。その足音の方へ目を向けると、ドアがあった。当然、一枚板で出来たようなものではなく、ツギハギのドアだ。それが開かれると同時に、そこには若さの残る、二十代半ばといった女性が立っていた。顔立ちは整っていて、その髪の色はワインレッドと言えば良いだろうか。鮮やかな赤へ落ち着きを与えるように黒をほんの少し加えた。そんな感じだ。その髪を後ろでひとまとめにしている。ただ、熱に浮かされ、ぼんやりとする視界では目の前の女性が敵か味方か。その判別すらつけることは難しかった。
もうだめか......そう思えど、諦めず最後まで戦い抜くのが侍の信条だ。どれほど効果があるかは分からないが、なんとか表情だけでも引き締めたその瞬間、頭の中をこじ開けられ、何かが大量に流し込まれるのを感じた。
「うあああああああああああ!」
酷い激痛だった。それこそ脳内に無理やり異物を流し込まれたかのような感じだ。それを必死で拒否して、拒絶して、追い出そうとする為に気付けば、悲鳴を上げていた。
「ちょっと! %&3K だ......ぶ!?」
目の前の女性が駆け寄って、何か声をかけてくるがそんなことを気にする余裕などない。必死で脳漿をミキサーされる地獄のような感覚に耐えているうちに某の視界は完全に暗転した。