衝突
イザベルは、全神経を研ぎ澄ます。
勝負は一瞬にかかっているのだ。
異変が起これば、すぐさま察知できるよう、全身を耳にする。
―――それにしたって静かな夜だ。
自分の心臓の鼓動や、衣擦れの音が漏れ聞こえていないか、不安になるほどだ。
実際には、路地を歩くドロテアの靴音だけが響いている。
彼女以外、出歩いている人物はいない。なので、ただの靴音も、遠くまで響いているのだ。
砂利を踏みしめ、決然と前を向き歩く彼女の姿は、一種の気高さを感じさせる。
その蒼い瞳は、月の光を浴び、美しく輝いている。
それは、同性であるイザベルも引き込まれそうなほどであった。
と、そちらにばかり気を取られるわけにはいかない。
レオンがどこから現れるか―――。
恐らく、少し影のあるところ、目立たないところ、角になっているところに身を潜め、一気に襲い掛かるはずだ。
ドロテアの進行方向へ先回りし、潜んでいそうな場所を虱潰しに調べる。
当然、ドロテアにもレオンにも気づかれてはならない。捜索は慎重を極めた。
ちなみに、路地の対面で、マーナと分担して捜索している。
そうして、数か所目の角を確認した時だった。
反射的に身を隠す。
―――居た。
路地にせり出している、丈の高い藪の中。
レオンは、そこへ伏せていた。
まるで、野生動物であるかのように、完璧に気配を消していた。
そのせいで、イザベルが発見するのが少し遅れた。
気付かれなかったかと肝を冷やしたが、どうやら杞憂のようだった。
彼は、近づいてくるドロテアの方を凝視していた。それ以外は眼中にないようだ。
安堵の息を吐くと、短剣を逆手で握りなおす。
まだ、ドロテアとは距離がある。ここで、無音で始末することができれば、彼女に気付かれることなく、処理を終えることができるだろう。
数回、小さく息を吸い込むと、素早くレオンの背後へ滑り込む。
レオンが反応する前に、左手で口を塞ぐ。首を反らせる。
右手に持つ短剣で、露わになった首筋を掻き切る―――。
その寸前。
レオンは、獣のような反応で、口を塞いだ左手に噛みついた。
前歯と犬歯が、イザベルの中指へ食い込む。
「―――っあああ!!!」
思わずイザベルは叫び声を上げ、短剣を取り落とす。
左手を引っ込めようとするが、まるでスッポンのように食らい付いて離れない。
その間にも、レオンはギリギリと歯を食いしばっている。
徐々に噛む力が強くなる。それは皮膚を破り、骨まで達した。
レオンの口は、イザベルの血で赤く染まってゆく。
強く噛みついたままのレオンを振り払おうとするが、そうすると指に激痛が走り、力が入らない。
「この……クソがっ……!」
イザベルが罵声を漏らすと、路地の向かい側で捜索していたマーナが駆け寄ってくる。
レオンの背後に短剣を振り下ろしたが、それも動物的な勘で避けた。
だが、そのお陰で、イザベルの指は、ようやくレオンの口から離れた。
「イザベル、指は大丈夫か?」
マーナが問う。
イザベルは、血が流れる左手を握りしめ、血走った目で、走り去ったレオンを睨む。
「くそっ、くそっ!……レオンはドロテアの方に走って行ってしまったな」
「……ああ。そうだな。どうする?暗殺は失敗だ」
諦めたような口調で、マーナが呟く。
イザベルも、肩を落とす。
「……仕方ない。どうせ、これだけの失敗を重ねたら、スカイラー侯爵の元へは戻れまいよ。
大人しく投降するさ」
暗殺者2人は、両手を上げてその場へ立ち尽くす。
これだけ騒げば、気付かれても仕方ない。周囲で見張りをしていたであろう、商人・冒険者ギルドの警護班が集まってきた。
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ぼくは、こわくなって走っていた。
イザベルにおそわれたんだ。なんで!?イザベルは、ぼくの味方じゃなかったの!?
そのあと、マーナも、ナイフでおそってきた。
ぼくは、わけが分からなくなって、にげだした。
こわい……こわいよ!
だから、ぼくは、あの女の子のところへ走っていった。
あの女の子は、かわいくてきれいだった。
だから、ぼくをなぐさめてくれるはずなんだ。
こわかったねって。もうだいじょうぶだよって。
あの女の子は、もう目の前だ。
ああ!あの子は、りょう手を広げてるじゃないか!
きっと、ぼくがとびこんでくるのをまってるんだ!
ぼくを、だきしめてくれるんだ!
ぼくは、あの子のむねの中にとびこんだ―――。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ドロテアは、少し離れた場所で、女性が叫ぶ声を聞いた。
身構える。
ドロテアの周りには、商人・冒険者ギルドの仲間が、隠れた位置で待機してくれているはずだ。
だが、それでも、今この瞬間には、自分しかいない。自分の身は自分で守るしかないのだ。
すると―――、
小柄な男が、こちらへ走り寄ってきた。
間違いない。あの日見た男だ。
レオン・スカイラー……。哀れな獣。
彼は、何を思っているのか、満面の笑みで走り寄ってくる。
その表情に怖気立つが、気合を振り絞り、対峙する。
軽く腕を広げ、間合いを測る。
そして、レオンが近くまで来たその瞬間―――、
狙い澄ました足払いを仕掛けた。