脱出
エドワードの両手剣は、レッサーキマイラの心臓に食い込む寸でのところで、身を引いて躱される。胸の表面を傷つけただけに留まった。
エドワードは、ステップを踏んで、空振りで崩れかけた体勢を整える。
レッサーキマイラは、3つの頭を持つ怪物だ。
各々は独立してはいるが、有事の際には、一つの集積回路のように統一された思考をすることができる。
よって、一瞬の判断が勝負を左右する、特に近距離戦において、その情報処理能力は優位に働く。
上位個体のキマイラには及ばないまでも、その危険度は魔物の中でも上位の方にある。
事実、全国の冒険者ギルドで定められた『危険モンスター一覧』では、Bランクとして指定されている。
これは、Bランク程度の冒険者一人では返り討ちにあう可能性が高いという事を示している。
攻撃を躱されたが、エドワードは落ち着いていた。
左足を前に出し、切っ先を相手に向け、右の頬の横で雄牛の角のごとく構える。
相手の出方を窺う。
レッサーキマイラは、隙の無いエドワードに戸惑っているようだったが、その背後にいるドロテアを見つけて、奇鳥のような声を上げた。
背中の翼をはためかせ、ドロテアへ襲い掛かろうとする。
彼女は悲鳴を上げて、マーガレットに隠れてしゃがみ込む。
レッサーキマイラの持つ翼は、体に対し小さく、完全に飛行するには向いていないが、勢いをつけたり、滑空するには十分な能力を持っている。
注目が自分から逸れたと悟ったエドワードは、罵声を漏らす。
「くそっ、お前の相手はこの俺だ!」
頭上に掲げた両手剣を振り回す。それが運よくレッサーキマイラの下腹部を削いだ。
レッサーキマイラはその場に墜落する。体を曲げ、奇声を上げ悶える。
エドワードは、流れるように両手剣を振り下ろす―――。
3つある頭のうち、一番近いものを刎ねた。
残る2つの頭から、聞くに堪えない悍ましい叫び声が響く。
「……よしっ!逃げるぞ!手負いになった魔物は何をしでかすか分からん。
奴が態勢を整える前に、急ぐんだ!」
エドワードはしゃがみ込んで震えているドロテアを小脇に抱えると、一目散に迷宮の入り口に向かって駆け出した。
マーガレットもそれに続く。
どうやら、レッサーキマイラは、床で蠢いているだけで、追ってはこないようだ。
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迷宮の外まで、何とか脱出できた3人は、ひとまず無事を喜び合った。
エドワードは、肩で息をしつつ、抱えていたドロテアを地面に下ろす。
「やはり、この迷宮はただものではないようですな。
……これは、元冒険者の勘にはなるのですが、迷宮に潜んでいる魔物は、アレに留まらないと思います。私達個人で、これ以上潜るのは非常に危険です」
マーガレットもそれに同調する。
「そうね。多少は何かいるかも、と思ったけど……。この迷宮は得体が知れないわ。
お嬢様、申し訳ないけど、私達だけで、これ以上潜るのは危険だわ。分かってもらえる?」
諭すように優しく話すマーガレットに、ドロテアは大人しく頷いた。
「分かった……。それより、私のせいで、危ない目に遭わせてしまって、ごめんなさい」
瞳に涙を浮かべ、ドロテアは頭を下げる。
自分一人だけだったら、間違いなく魔物の餌食になっていただろう。
自分のわがままで彼らを連れて来て、皆を危険な目に遭わせてしまったのだ。
運が悪かったら、エドワードも、マーガレットも死んでいたかもしれないのだ。
……お父様に続いて、この2人も死んでしまったら。
そう想像してしまって、ドロテアはとても悲しくなった。
「ご、ごべんなざい。わたし、二人がいなくなったら……」
危機から逃れることができて、ホッとしたこともあったのだろう、ドロテアは大粒の涙を流して泣き出した。
マーガレットは優しくドロテアの手を握る。
「怖かったね。大丈夫。私とエドワードは、お嬢様が立派になるまで、絶対にいなくなりませんからね。さ、おいで」
泣いているドロテアの頭を優しく撫でて、自らの胸に抱く。
ドロテアはマーガレットにしがみついて、しばらくの間ずっとそうしていた。
マーガレットが背中を撫でてくれるたび、涙は尽きることなく溢れ出してきた。何だか、とても懐かしくて、落ち着いた。お母さんがいたら、こんな感じだったのかな。と思った。
年甲斐も無く思いっきり泣いてしまったドロテアだったが、涙が収まってしまえば、非常にすっきりとした気分になっていた。
照れた顔で、マーガレットに礼を言う。
「えへ。なんかごめん。ありがとう。最近、泣くことなんてなかったからかな?ちょっと止まらなくなっちゃって」
「ええ、いいんですよ。町中で過ごしてたら、魔物と出会うこともそうありませんからね。
……でも、泣いているお嬢様をあやすのなんて、何年ぶりかしら?少し懐かしい気持ちになりましたわ」
「え?そんなことあったの?……なんか恥ずかしいな」
「まあ、昔の事ですからね。
……さあ!ちょうどお昼になったところだし、もっと明るいところに行って、お弁当にしましょうか?美味しいサンドイッチを作ってきたんですよ」
気分を変えるように、マーガレットは明るく言う。
その片腕には、バスケットがぶら下がっている。
……家から出発した当初からそこにあったが、ずっとバランスを崩さず持っていたのだろうか。だとすれば、彼女が元冒険者だというのも納得だ。
エドワードもそれに応え、笑顔でドロテアの肩に手を置いた。
ドロテアは頷く。
手で頬をぬぐう。涙の跡はもう乾いていた。