秘書
スカイラー侯爵は、安楽椅子に深く腰掛けている。
ワイングラスを片手に、ゆっくりと回す。
その中には、まるで血のように深紅な液体が、三分の一程度注がれていた。
グラスの中に満ちた芳香が、鼻先へと立ち昇る。
そのままの状態で香りを愉しむ。
口に含み、転がしてみる。
よく熟成されており、まろやかな渋みと深いコク、そして色気のある甘みを感じた。
鼻へと抜ける馥郁たる芳香には、僅かな樽香が混じっている。
強すぎる樽香は、ワインそのものの風味を掻き消すとして、嫌われる傾向もある。
しかし、スカイラーにとって、適度な樽香はむしろ好ましいと思っている。
使い古した樽からは、歴史そのものといった香りが漂うものだ。
ワインとは、味そのものを楽しむのも当然だが、その背景を含めて楽しむものだ、というのが彼の持論だ。
目を瞑って、ワインがもたらす世界観に浸っていたスカイラーだったが、唐突に開いた扉によって、彼の世界は中断された。
ゆっくりと目を開き、扉の方を振り返りもせずに呟いた。
「……ローズか。儂の時間を中断させるという事は、それなりに重要な用事なのだろうな?」
扉を開いて入ってきた、ローズと呼ばれた女性―――。
隙の無い表情で、地味な暗色のワンピースをつけた彼女は、女性にしては低い声で腰を折る。
額をすっきりと出したソバージュの髪を、後ろで束ねている。髪色は漆黒だ。細縁に光る眼鏡が、いかにも知的な雰囲気を醸し出していた。
「申し訳ございません。しかし、お伝えしたいことが出てまいりまして」
「分かった。申してみよ」
スカイラーは、ワイングラスを置き、手を膝の上で組む。
「ええ……。スカイラー様がお持ちである、ウォルバーの物件についての登記情報ですが……。
どうやらウォルバーの商人ギルドによって、一斉に閲覧されているようです」
「……ほう?」
スカイラーの瞳が光る。
「何故今さらウォルバーの商人ギルドがそんなことを……?今の統治者は、ウェインのはずだったな?」
「ええ。そのはずですが……。最近、ウェイン様は献金に訪れていないので確認はできていませんね。
今の後継ぎ騒ぎで、そこまで確認する余裕が無いものですから……」
スカイラーは、顎髭を撫でて呟く。
「ふむ……。そうだな、一応、人手を割いて確認しておくか。
さっさと後継ぎを長男に任せてしまいたいものだが……。」
「ええ、そうですね。―――後顧の憂いさえ断てれば、すぐにでも手続きを行うのですが」
ローズの言葉に、スカイラーは頷いた。
何かと目立つ歳入庁の代表から退き、表向きの仕事を全部長男に任せて、自らは目立たない位置から暗躍をしようと目論んでいたのだが……。
ライバルである、文化庁にいるメイソン侯爵が、それを防ごうと虎視眈々と狙っていることが明らかになった。
もし、不用意に長男を後継ぎに指名してしまった場合、自らの隠し子のレオンの事を槍玉に、突き上げを食らうかもしれない。
だから今は、形式上、長男と次男が争っている格好にして、露払いを着実に行っている最中なのだ。
ひとまず、隠し子の母親であるメイドのメアリーは始末した。
今頃は、スカイラーが経営する鍛冶屋の溶鉱炉の中で、灰と化していることだろう。
死体も証拠の一切も焼き払ったため、起訴されることは有り得ない。
あとは、改めて調べられるとまずい証拠を、隠すなり処分するなりしている最中だ。
隠し子のレオンも、周りが落ち着いたら処分するつもりだ。なので、腹心の部下であるイザベルを監視につかせている。
もっとも、レオン本人は、美人のイザベルがついていることを喜んでいるようだが……。
なんにせよ、レオンのような愚者は、我がスカイラー家には必要ない。
今まではお情けで生かしておいていたが、もっと早く母子ともに始末しておけばよかった。
とは言えなってしまったものは仕方ない。足元を固め終わったら、速やかに処分するのみだ。
「それで、ウォルバーの件だが……」
スカイラーは、話題を元に戻した。
ウォルバーは、スカイラーにとって曰く付きの土地だ。まあ、曰くが無い土地の方が珍しいのだが……。
それはともかく、ウォルバーの土地は、不正に手に入れたものだ。
元の統治者である、クラナハ伯爵を毒殺した直後、偽造養子縁組を使い、スカイラーの遠い親戚を無理矢理、クラナハ伯爵の一族に仕立て上げた。
その後、有無を言わせず相続を行い、奪ったものだ。
そのため、その土地の登記簿を詳しく精査されると、ボロが出る可能性がある。
スカイラーは、ローズに向かって指示を下した。
「……では、資金洗浄班の内から数名見繕って、ウォルバー現地に行って確認しろ。
ちょうど現地には、イザベルも駐留しているはずだ。必要があれば共同して問題に当たれ。以上だ」
指示を放つと、これで終わりだとばかり、視線をローズから外し、再度ワイングラスを手に取った。
ローズは、黙ってそれを承る。
ワンピースの裾を翻すと、スカイラーの部屋を退出した。
―――眼鏡の奥で、機械のように表情を見せない瞳が、昏く光った。