別れ
日を追うごとに、母の体調は悪くなる一方だった。
マーガレットだけでなく、他の医者にも診てもらった。
彼女を信じていないとか、そういう事ではない。
別の視点から見ることで、何か光明が見つかりはしないかという希望だったのだが……。
ウォルバー中から医者を掻き集めても、中央都市から腕の立つ医者を呼んでも、結果は変わらずだった。
まず、出産に伴う出血・疲労に対し、身体が回復しきれていない。
そこに重なって、生来の病弱さが災いして病に侵されている、というのが、共通した医者の見立てだ。
確かに、闇夜の中で、さらに設備も整っていない屋外での出産、分娩は、母体に相当な負担を掛けたことだろう。
―――俺があの時、もう少し早く帰って来ていたら、運命は変わっていたのかもしれない。
そう思うと、悔やんでも悔やみきれない。
医者は、ともかく休息が必要という助言と、産後の肥立ちに良いとされた食事メニューを伝えて去ってゆく。
頭を下げて医者を見送った父は、母の部屋へ取って返す。
父が戻ってきたのを認めた母は、笑顔を浮かべる。
―――その顔も、今ではだいぶ青白く、やつれてしまっている。
沈んだ顔になりそうになる表情を、慌てて打ち消す。
自らも笑みを浮かべ、母の元へ近寄る。ベッドの縁に腰掛けた。
―――調子はどう?食欲はある?
何度繰り返したか分からない質問を語りかける。
その都度、母は、申し訳なさそうに答えるのだ。
「ごめんね。……どうしても食べる元気がわかなくて」
父は、その言葉を聞くたびに、切なく胸を締め付けられる。
母に、『ごめん』と言わせたいわけではないのだ。
ただ、また昔のように、一緒にご飯を食べて、笑い合いたいだけなのに―――。
それすらも、過ぎた贅沢だというのだろうか。
だというならば、この世は何と残酷なのだろう。
黙り込んでしまった父に、母は何も声を掛けてやることができない。
ドロテアは、母の隣でぐっすりと眠っている。
母は、ドロテアの頭をそっと撫でた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
それから数週間過ぎた、ある夜。
いよいよ、母の体調は目に見えて悪くなってきた。
父は、付きっ切りで看病をしていた。
この日も、最低限の政務だけを行い、母の部屋にこもっていた。
こんな時でも、政務のサポートをしてくれるエドワードには頭が上がらない。
また、ドロテアも、マーガレットが子守りをしてくれている。
従って、今、この母の部屋には、父と母の2人きりだ。
「今日もお疲れさま。政務も忙しいでしょうに、私の所へ来てくれてありがとうね」
母は、心底嬉しそうに話す。
父は、笑顔で頷く。
今、何よりも大切なことは、母とできるだけ多く、同じ時間を過ごすことなのだ。
母は、ベッドの上で寝返りをうち、父と目線を合わせる。目をじっと見つめる。
「私ね、とっても幸せなんだ。田舎の家でさ、ずっと閉じ篭ってただけじゃ、絶対にできない経験をさせてもらえた。
ほんとだよ。貴方と出会って、毎日が本当に楽しかった。……可愛い子供も授かって、なんだか……幸せすぎて夢みたい」
母は、父に向かって、しみじみと囁いた。
最近は、あまり話す元気もなかったようだから、これだけ話してもらえて嬉しい。元気を取り戻してきているのだろうか?
……いや。
……父はぎょっとする。
今日の母は……、饒舌過ぎやしないだろうか?
まるで、心残りを全て、洗い流そうとでもいうような―――。
気がつけば父も、熱に浮かされたように、母との会話を重ねる。
出会った頃の話。一緒に外出した時の話。一緒に見た夜景。食事。初めてキスした時の思い出。
期間にしてみれば、それほど長い間ではない。
でも、思い出は、どれもが色濃く、忘れがたいものだった。
父と母は、止めどなく話を続ける。
……話を止めたら最後、全てが終わってしまうような気がして。
父は、震える声で、新しい話題を切り出した。
思い出や、過去ではない―――、未来の話題だ。
―――なあ。元気になったら、家族でピクニックに行かないか?マーガレットやエドワードも連れて、高原へ行こう。
そこで、サンドイッチを食べるんだ。ドロテアがどっかに行ってしまわないように気を付けないとな。
母は、その話題を聞くと、一瞬口が止まる。
しかし、殊更に明るい声で話題に乗る。
「ええ。とても楽しみ。サンドイッチの具材は何がいいかしら?赤ちゃんに良い物ってなにかあるのかしら……マーガレットに聞かなくちゃね」
会話は弾むが、どこか空々しい。
……それが叶わないことが、分かっているからだろうか。
いつの間にか、父は話しながら、涙を流していた。
夜は更ける。
父は、話している母の返事が、次第に弱く、小さくなってゆくのを感じていた。
……おそらくこれが、最期だろう。
なんとなく、そんな予感があった。
終わってほしくない。できれば、この時間が永遠に続けばいいのに。
……だが、そういう訳にもいかないのだろう。
だから―――、一番伝えたいことを、口にする。
―――なあ。僕は、君と出会えて、幸せだったよ。
そう言い切る父へ、母は儚い笑顔で答える。
「あなた……。なかないで……。
わたしも……しあわせ……だった……」
母の細い指が、父の涙をぬぐう。
そして―――、その手は、はらりと落ちた。