命のきざし
……母は、父の帰りをそわそわと待つ。
淹れて来たお茶に口をつけるが、それは既に冷めてしまった。
今日の夕方には帰るという事だったが……。空は徐々に闇が優勢になってくる。
ひょっとして帰りは遅くなるのかな。
仕方ない、と城に戻ろうとした時だった。
夜になるにしたがって、周囲の気温は徐々に下がる。
それは母の体調にも影響を及ぼした。
下腹に違和感を覚える。
いつもの軽い陣痛だろう、と母は思った。
医者にも、出産予定日はまだ先だと言われていたのだ。
だがしかし―――、その日はいつもと様子が違った。
腹と腰に、経験したことのない痛みが襲う。思わず口を押え、その場にうずくまる。
これは、何かが違う。―――出産が近い。
母は、直感でそれを察知した。
素早く周りを見渡すが、人の姿はない。
使用人にも、ここへ来ることは伝えていなかった。
ここはウォルバー城の敷地内であり、人が通りかかることもまず無い。
どうしよう―――。
母の脳裏はパニックに陥る。
気分は焦り、どうにか城に戻ろうとするのだが、身体がいう事を聞かない。
そうこうする間にも、陣痛の周期は早く、さらに強くなってくる。
あなた、たすけて―――。
母は最愛の人に必死に祈り、歯を食いしばる。だが、夫が現れる気配は無い。
苦痛にもがく母は、支配を強める闇の中に取り込まれてゆく―――。
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ウォルバーの隣の領地へ出張を行っていた父、クラナハ伯爵は、遅れてしまった帰路を急ぐ。
乗っている馬を速足にさせる。
妻には今日の夕方帰ると伝えたのだが、仕事の最後に少し手間取って、帰るのが遅れてしまった。
周囲は夕闇を通り越して、星空へと変わっていた。
妻はまだ起きているだろうか?
母と同様に、1週間会えなかったことは、父にとっても寂しい事だった。
せっかくなので、隣の領地でのお土産も買ってきた。特産品のドライフルーツをふんだんに使ったパンだ。ぜひ二人で食べて、たわいもない感想を言い合いたいものだ。
それを楽しみに城の近くまでたどり着いたとき、父は違和感を覚える。
幽かに……、呻き声が聞こえる。
まさか、幽霊だという訳でもあるまい。それに、この声は―――、
聞き間違えるはずがない。妻の声だ。
一瞬で青ざめた父は馬を駆り、声の聞こえる方へ突っ走る。
妻の名を大声で叫ぶ。
その声が届いたのだろうか。妻の声は僅かに生気を取り戻したように感じた。
声の場所を突き止めると、馬から飛び降りる。
果たして妻は、普段お茶を楽しんでいる奥まった庭で倒れていた。
慌てて近寄り手を取ると、濡れている。……破水が始まっているのか?
妻は脂汗が浮かぶ顔で、それでも夫と再会できたことを喜んだ。
だがすぐに、苦痛に顔はゆがむ。
この顔に、何が起きているのかは容易に見当がつく。
予定より早く産気づいたのだろう。
こうなれば、一刻も早く医者と助産師の力を借りるしかない。
だが―――、父は逡巡した。呼んでくる時間の余裕はあるのだろうか?苦しみにもがいている妻の傍を離れるのも忍びない。
しかし、医者の元に連れていくのも難度が高い。今の妻の様子では、馬に二人乗りすることも難しいだろう。
だれか、頼める人はいないか―――。
父は、庭の前の道へ走り出る。誰か通行人が居れば、その人に医者への連絡を頼もうと思ったのだ。
焦りつつも、暗くなった夜道に目を凝らす。
普段、人通りの少ないこの辺りだが―――、居た。
この夜は、奇跡的に通行人が居たのだ。
松明を馬の鞍に差した2人組の冒険者のようだ。
父は慌ててその2人の馬の前へ飛び出す。
急に飛び出てきた父に驚いた2人だったが、素直に馬を止める。
その振る舞いには、落ち着きが感じられた。
父は、その2人に対して、現状を説明する。すなわち、妻が外で倒れ、産気づいたこと。
なので、医者と助産師を呼んできてほしいということ。
焦って説明する父へ、1人の冒険者が馬から降りて、優しく語り掛ける。
どうやら、その冒険者は、回復職のようだ。
回復職は、医療の知識が豊富だ。一部の者は、医者の資格を同時に持つ者もいる。
そして―――、その冒険者も、医者の資格を持っているとのことだった。
渡りに船とばかりに、その冒険者たちを母の元へ連れてゆく。
通りすがりの、知り合いでもない冒険者を信じるのもどうかと思ったのだが、時間が無い。藁にもすがりたい気分だった。
回復職が、うずくまる母の近くへとしゃがみ込む。
被っていたフードを脱ぎ、母の視線に合わせる。
「私はマーガレットっていうの。初めまして。大変だったね。でももう大丈夫だよ。さあ、ゆっくり呼吸して……」
対応してもらっている妻と回復職の姿を、父は遠巻きに見つめる。
心配が募り、苛立たしげに足踏みをする。
そんな父の肩に、ぽん、と手が置かれる。
「まあ、心配なのはわかるが、マーガレットの腕は確かだ。奥さんが少し落ち着くまで、安心して見てな」
父が振り返ると、2人組のもう片方がそこに立っていた。
年は父より少し上。中背ではあるが、その身体はしなやかに鍛えられているのが、服の上からでもよく分かった。
その冒険者は、両手を広げて自己紹介をした。
「俺はエドワード。で、あいつがマーガレットだ。
……まあ、心配なのは分かるが、あんたの奥さんと、マーガレットを信じてやってくれ」
父は、改めて妻の方を見る。
妻は、小さな体で、懸命に新しい命を紡ごうとしていた。
……頑張ってくれ。
父は、強く拳を握る。爪が手のひらに食い込んだ。